虹は七色ではない


板倉聖宣さんの『虹は七色か六色か』(仮説社)と言う小さな本を買った。文庫サイズで60ページもない本なので30分もあれば読めてしまうのだが、この本のそこに書かれている内容は、とても大きな意味を持つ重要なものだと思った。板倉さんも次のように「はしがき」に書いている。

「『虹は七色か六色か』と題したこの小冊子の主題は、表面的には<虹の色数>を数えるものとなっています。しかし、その<真のねらい>はもっと深いところにあって、人々の「教育」とか「科学」というものについての「考え方」そのものを考えるものとなっています。」


板倉さんが虹の色について考えるようなきっかけになったのは、1978年から79年にかけて「日高敏隆村上陽一郎・桜井邦朋・鈴木孝夫という、当時の日本を代表するような指導的な4人の学者が、ほとんど時を同じくして、「アメリカでは虹は六色と言われている」ことを報じていた」からだった。

板倉さん自身は、「私は子どものときからときどき虹の色が何色あるか数えようとしたことがありますが、いつも五色か六色しか数えられませんでした」といっている。だから「言われてみれば、虹は六色と言ったほうがよさそうだ」と考えたらしい。しかし、上の4人の学者はいずれもそのようには考えなかったようなのだ。

上の4人の学者は、「<アメリカ人は色の言葉が不足しているから、虹の中の藍色を識別できずに、虹は六色と思うだけなのだろう>と考えた」ように見えるのだ。つまり、六色と七色の違いは、言葉の違いによるものであって、客観的な対象のせいではなく認識の違いにあると言うことだと思う。僕も最初はそう思った。

言葉によって対象を切り取って認識すると言う、認識の構造を考えれば、「藍」という言葉で虹の対象を見る日本人は虹を七色と認識し、そうではないアメリカ人は虹を六色と認識するのだろうと思った。ところが、これは板倉さんの主張では、言葉の違いによる認識の違いではないと言うのだ。その主張は、板倉さんの文章を読み進むうちに、板倉さんが言っていることのほうが説得力があり、合理的な解釈だと言うことが分かる。

「藍」という概念を知っている板倉さんは、どうしても虹の「藍」を区別できなくて、虹が七色に見えなくて困ったそうだ。そして、ここに、自分の感覚を信用するか、権威ある言説のほうを信用するかという問題があるのを見出した。権威ある言説では虹は七色になっている。そうは見えない板倉さんは、自分の感覚を否定して、この言説のほうを取ることが出来なかった。そこで板倉さんは、この言説が生まれてくる経緯を調べたのだった。

虹を七色と規定したのは、分光学を創造したニュートンに由来するようだ。虹のような自然現象は観察するにはあまり適さないが、プリズムによる分光で得られた現象は、虹によく似た光の帯を観察することが出来る。そしてそれは非常に安定しているので、そこに何色現れているかを見るのはたやすい。そしてニュートン自身は、自分の目では分光された光の帯は七色には見えていなかったようだ。

ところがこれを七色に見る人もいたようだ。この本の表紙には虹の絵が描いてあり、裏表紙にはプリズムによる分光の光の帯が描かれている。これを見ると、青と紫の間に、ちょっと色が濃くなっている部分が見える。この色の濃さを青一色に見るか、「藍」という違う色としてみるかは、明確に区別することが出来るようには見えない。単に濃さの違いと見る人のほうが多いのではないかと思う。

しかしこの色を違うものとして数えると虹は七色になる。そしてこの七という数字は、当時のニュートンにとっては非常に魅力的な数だったらしい。一週間が七日なのはキリスト教と深く関係している。敬虔なキリスト教徒だったニュートンにとっては、虹が七色であると言うのは、神の意志の現れのように見えたかもしれない。板倉さんも、「そんな考えも気に入ったかもしれません」と書いている。

また、音階というものを考えても、これは7つのものからできていて、非常に調和的な美しさを持っている。しかも、音と音との関係で半音階の部分があることは、濃さの違いと言う曖昧な段階を持つことと符合するような感じもする。虹を七色と考えることは、非常に魅力的なものだったと考えられる。それで、ニュートンは虹は七色と規定してしまったのではないかと板倉さんは推測している。

これが単なる推測以上のものではないかと言うのは、次のような根拠から考えられる。それは、虹を七色と規定してから、この七色の覚え方がいろいろ工夫されてきたと言うことだ。なぜ覚え方が必要だったのだろうか。虹はありふれた現象であり、霧吹きなどを使えば人工的に作り出すことも出来る。だから、覚えずとも実際に数えればすぐに分かることなのではないだろうか。

板倉さんは、「自分の目には見えないものは、機械的な暗記を必要とするものもあります」と語っていて、太陽系の惑星の順番の覚え方などを例にあげている。これなどは、実際に見て確かめるわけにいかないので確かに覚えるしかない。虹の色を覚えなければならなくなったというのは、実は、虹を七色に見えない人が多かったので、それを覚える学習が必要になってしまったのではないだろうか。と推測できると言うわけだ。これは合理的な推測だ。

ニュートンは大きな権威を持っていたので、それに反対することが長い間できなかったに違いないが、自分の感覚を否定して権威に服すると言う学習は、教育上非常に悪い影響を与えるとアメリカでは考えたようだ。「<青と藍の両方の名をあげたい>と言うのでなければ、両方の名をあげる必要はありません」という主張をしたB.M.パーカー先生と言う人がいたらしい。

板倉さんは、このパーカー先生の考えに対して次のように語っている。

「私は、日本で<虹は七色>と教わったとき、自分では六色にしか見えないので困りました。私のような子どもは<虹は七色>と教わると学校教育に不信感を持つか、自分の感覚に自信を失ってしまいます。B.M.パーカー先生は、そういう悲劇をなくすために、こんな授業を考案したのです。」


まったくそのとおりだろう。権威主義の押し付け教育は、「自分の目を信じられなくなって、教科書に書いてあることだけを信じるようになったら、科学も創造性もありえません」と板倉さんが語るようなことになるだろう。だからこそ、板倉さんが提唱した仮説実験授業では、最終的な真理の判断を実験によって行っているのであって、権威によって押し付けようとはしない。

虹の色数の問題は、言葉の定義による認識論の問題ではなく、権威主義的な真理を無批判に受け入れるかどうかと言うことで、「人々の「教育」とか「科学」というものについての「考え方」そのものを考えるものとなっています」ということになるのだろう。

なおこの権威主義的な<虹は七色>と言う言説を受け入れる素地をつくったのは、「科学上の真実は、立場によって違っていても不思議ではない」という新説が当時起こっていたことによるのではないかと板倉さんは推測している。板倉さんは、この考えを危惧して、<虹は六色>と考えるほうが正しいのだと主張することにしたようだ。

虹が七色と考えるほうが間違っており、六色と考えるほうが正しいと言うのが板倉さんの主張だ。これは客観的に正しい言明であって、立場や言葉の定義から、どちらも正しいと言えるようなものではないと言うのが板倉さんの主張だ。それは、科学と言うものが、立場を越えた客観的真理であると言う主張に通じるものだろうと思う。

虹の色については、実際に自分で確かめることが出来るので、権威の間違いを否定することも出来る。しかし、自分で確かめることが難しい事柄については、われわれは権威と言うものを信じるしかない。しかし、そのときは盲目的に権威を信じるのではなく、それが本当に信じられる権威であるのかということを気にすることで間違いを防ぐことが出来るのではないかと思う。

板倉さんの仮説実験授業でも、真理を発見した科学者の優れた手法を勉強した後で、それがいかに優れているかを納得した後で、自分では確かめることの難しい科学上の発見を、その権威を信頼することで受け入れるような「お話」を入れると言う展開をしているものがある。これは、その人が偉いから受け入れると言う権威主義ではなく、十分信頼に足る人だということを確かめた上で、その人の言葉を受け入れると言う手順になっている。本当の権威と言うものがあることを確認して、その権威を信頼すると言うことになっている。

この権威への信頼は、ジャーナリズムや歴史などの学問においては非常に重要になるのではないかと思う。素人では、社会の出来事のあらゆる面における細かい情報は知ることが出来ない。信頼できるジャーナリストの権威に依存しなければならない。過去の出来事と言う、自分では確かめることの出来ない事柄に対する事実性に対しても、信頼できる歴史学者に依存しなければならない。

この場合は、何によって権威を確立するかと言うことが大事なことだ。それはもちろん肩書きなどではない。だが、その実績を正しく評価するには、それなりに自分にも高い能力がなければならない。どの点に注目すれば正しい評価が出来るのかは重要だ。

権威を盲信しないと言うのは、科学や教育において重要だ。それがこの『虹は七色か六色か』と言う本ではよくわかる。それと同時に本当に権威ある信頼おけるものは何なのかを考えることも重要だ。この両方が出来て初めて真理というものを捉えることが出来る。

僕は宮台真司氏を権威ある学者として信頼している。その宮台氏が、戦時中に朝鮮半島から日本へ来た人たちの中で、いわゆる「強制連行」という形で連れて来られた人の比率は圧倒的に少ないと言う主張をしていた。僕には、今のところこれを確かめる方法がない。しかし、僕は宮台氏への信頼から、このことが真理であると信頼している。この信頼感が、認識や思考の展開の中でもっている意味と言うのをもっと深く考えてみたいと思う。それを真理だと判断することは正しいのか。それをもとにして展開する思考は、われわれに新たな真理をもたらしてくれるのか。そのことが、異論のある問題をどう捉えるかについて建設的な方向を指し示してくれるのではないかと思う。