『下流志向』が指摘する隠された真理


内田樹さんの『下流思考』が指摘する、今までの常識とは違う、かえって反するような事柄を考えてみたいと思う。子どもたちが勉強をしなくなったと言うことや、若者があまり仕事に関心をもっていないように見えることに対して、世間の見方というのはもっぱら子どもや若者の心の問題に帰しているように感じる。

勉強をしない子どもや仕事をしない若者は、心がけが悪いと言うことだ。それは道徳の問題であり、規律を確立し厳しくすることによって問題が解決するのではないかと考えている大人(これは大部分が男ではないかと思うのだが)が多いのではないだろうか。教育基本法の「改正」や、教育制度の改革などは、このような方向での発想から考えられていることが多いように感じる。

それに対して、そのような処方箋はほとんど効果を持たないと内田さんは語っている。子どもや若者の問題は、各個人の心がけの問題ではなく、社会という大きな単位に根本的な問題が起こっているのであり、制度あるいは公的な意識を変えない限り、いくら個人に働きかけても効果は薄いと主張している。

これは数学系の発想に近い問題の捉え方だ。数学系では、社会現象のようなものには統計的なセンスで考えようとする。自然科学の対象に対しては、理想状態を設定して、現実の末梢的な部分を捨てて理論化しやすい単純な対象を設定することが出来る。自然科学は、もともとが単純化して本質を求めるところがあるのでそのような手法が使われる。しかし、社会現象のように複雑なものは、捨象の仕方を間違えれば、それはまったく対象が違うものになってしまい、求められた結論が役に立たないと言うことがおこってくる。単純化が簡単には出来ない。

現実に対する有効性を保つためには、単なる機械的な捨象ではなく、統計的なセンスを元にして、なにが末梢的なことであるかを考えて、末梢的だと判断された部分を捨てると言うことが必要になってくる。そのような発想で考えれば、ある種の問題が個人の責任に帰するものであるのか、それとも個人を超えたもの、組織とか制度とか、あるいは国家・社会というものの責任に帰するものであるかが判断される。

子どもの学習や若者の仕事からの逃避が、統計的に見てさほど多くないように見えるなら、これは個人の特殊な事情から発生するものではないかと見ることができるだろう。大部分の子どもたちが学習意欲を保っているときに、一部の子どもたちだけが学習を放棄すると言うのは、それは放棄した個人に問題があると考えても間違いはないだろう。

この問題と言うのは非常に微妙なもので、単純に怠けているだけとも考えられるし、逆にあまりに先進的な発想を持っているので、現実の教育の問題が見えすぎて学習意欲が湧いてこないということもありうるだろう。いずれにしても、それが少数派である間は、問題の本質は見えてこない。病気の場合で言えば、何か変だと言う自覚はあるものの、症状がはっきり出てこないので病気を特定できないような状況に似ているようだ。

これが、統計的には問題を持っている子どもたちが多数派になってくると、症状がはっきりした病気と同じように、問題がかなりクローズアップされてくることになる。このようなときに病気の診断が下されるのは子どもたち自身ではない。病気は、社会の病理として現れたと理解される。

このような発想は今ではかなり常識になっているのではないだろうか。だから、勉強したがらない子どもたちがあまりにも増えてくると、世の大人たちは、これは子どもたちだけではなく大人にも問題があるし、究極的にはわれわれの社会に問題があるのではないかと言う考えを受け入れやすくなるだろう。

日本の子どもたちの学校以外での学習時間は、ほぼ世界最低水準にまで落ちているらしい。それも学年が上がるごとに少なくなっているらしい。勉強しない子どもたちのほうが多数派であると言うのは客観的事実らしいのだ。この客観的事実から、子どもたちの学習の問題は、子ども個人の問題ではなく社会の問題だと言うことが客観的に言えるのではないかと思う。

これは、他のすべての問題にも使える、有効な数学系の発想で、一つの技術として捉えられるだろう。学級崩壊と言う現象が、特定の学校での出来事であれば、それは個別的な教師の指導力の問題になるが、全国のどこでも平凡に見られる現象なら、それは社会の病理として捉えなければならない。夕張という自治体が財政問題で破綻した。これは、今のところは夕張にしか起こっていない現象なので、夕張という個別の自治体の問題だと考えられている。しかし、夕張のように財政破綻する自治体が全国で普通だと言うようになったら、これはたぶん国家の病理として人々に捉えられるだろう。

ある種の現象をみんな社会の病理だと考えると間違いだが、世の中にありふれたものとして問題が起こってくるなら、その問題は社会の病理として考える根拠を持ったと言える。そこでは、その病理の具体的な分析をしなければ処方箋が出てこないのだが、これは立場の違いによって解決の方向が違ってくる。総論では賛成しても、各論で反対が出てくると言う状況になる。

内田さんが提出する分析で、新鮮な視点を感じるのは、「等価交換する子どもたち」という見方だ。経済合理性を徹底させた社会の中で小さいころから生きていると言うことに対する問題の指摘は内田さん以前からあったように思う。金さえ与えて、物質的な豊かさを保障しておけば子どもは育つと考えているようなところが現代日本社会にはある。それに対する批判は以前からあった。

しかし、批判はあっても、それを抑制することは難しかった。豊かさが実現されてしまった日本社会において、つつましくけなげに生きようとすることはかなり難しくなっている。金さえあれば欲望を満たすものが手に入る社会では、金がなければ我慢もするが、金があるのに我慢をするのはかなり難しい。

このような社会では、金の使い方を学習していくことになるだろう。自分の満足は、商品を手に入れた後にしか判断できない。商品を手に入れて、それが本当に自分を満足させてくれるかどうかということを学習していくことになるだろう。これが内田さんが言う「等価交換」が出来たかどうかと言う判断になるのではないだろうか。

「等価交換」が出来て、自分の支払いに対して、それなりに満足が得られたなら、その対象を高く評価すると言う習慣を身につけたのが「等価交換する子どもたち」ではないだろうか。これが、学習に対するモチベーションを著しく下げると言うのが内田さんの指摘だ。これは合理的な判断のように感じる。

内田さんは、学習や教育と言うものに対して、それをする前にはそれがいいものであるかどうかと言う判断が出来ない対象だと指摘する。他の商品であれば、それを購入した後に、それが自分を満足させてくれるかどうかをかなり具体的に予想することが出来る。しかし、何かを学ぶと言うとき、それが結果的に自分を満足させてくれるかどうか、その学習で幸せになるかどうかは、実は学び方に大きく依存しているのだ。学び方が悪ければ、いかに対象が優れていてもそれは満足の行くものにならない。逆に、対象がレベルの低いものであっても、学び方がよければそこから大きな満足が得られるのが学習と言うものなのだ。

学習や教育には、それをやってみなければ評価が分からないと言うところがある。だから、一歩踏み出すと言う動機(モチベーション)が決定的に重要な要素になってくる。教育や学びにまで「等価交換」の原則を持ち込んだことが、子どもの学習意欲を著しく下げる要因になっているというのが、内田さんの分析の基本線なのではないかと僕は感じた。

金があればなんでも手に入る時代と言うのに眉をひそめている大人はたくさんいるだろう。それを指摘していると言う点では、内田さんのこの発想は多くの人に受け入れられる可能性を持つ。しかし、その問題が具体的に学習や教育の問題とどうつながっているかを見るのは難しい。拝金主義と言う道徳の問題としてみてしまうのが大部分の人ではないだろうか。そこに、「等価交換」という概念を持ち込んで、その概念で現実を切っていくと内田さんが語るような分析が合理的に納得できる。具体的な問題が理解できるようになると言う点で、この視点が斬新なものとして映ってくるのではないだろうか。

この「等価交換」という問題に対する処方箋は難しい。これは、資本主義社会、それも発達した資本主義社会に住んでいれば自然に身についてしまう考え方だ。それに抗うのはかなり強いイデオロギーを持っていても難しい。ヨーロッパでは共同体的な仲間意識、アメリカでは強い宗教意識が、それに抗う一つの処方箋らしいが、日本ではその両方とも空洞化し消えてしまった。学習や教育が「等価交換」の対象ではないと言う考えを日本社会の共有物にすることはかなり難しい。

教育が「等価交換」という発想で見られていなかった時代のことを、『24の瞳』の大石先生を例に内田さんは説明しているが、これは共感できるとともに面白い見方だと思う。内田さんは、高峰秀子主演の映画を見てとても感動したと言うことを語っている。僕もこの映画を見たことがあり、そこで描かれている先生と生徒の姿はとても好きなものだ。

だが40年ぶりにこの映画を見返した内田さんは、「この大石先生というのがひどい先生なんです」と語って、「全然教師としての責任を果たせない先生」だと断定する。とにかく大石先生というのは、適切な判断の下に行動が出来ていないのだ。

「教科書を教えるぐらいは出来るのですが、子どもに相談されてもろくに受け答えも出来ない。昭和の初めのことですから、音楽学校に行きたいという生徒がいて、その子と一緒にお母さんにお願いに行くのですが、お母さんが「駄目です」と言ったら、子どもに「やっぱり駄目だって」と言うだけで、おしまい。貧しい家の子どもがどこかに奉公に出されるといっても、「かわいそう」と言って、ただ泣くだけなのです。」


と内田さんは書いている。今こんな先生がいたら、「教師失格」の烙印を押されてしまうかもしれない、と言うようなことを内田さんは書いている。しかし、あの映画は感動的なものであり、誰もが大石先生は「いい先生」だと思っていた。僕もそう思っていた。教師の資質などは、このように相対的なものなのだと思う。

内田さんは、弟子が師を越えたと思ったときに学びは終わると言うようなことを言っている。たとえ客観的に技量が上回ったように見えても、弟子がいつまでも師を師と思いつづければいつまでも学びは継続すると言う。僕もそうだと思う。このような発想を普通のものにすることが、学びを取り戻す処方箋の一つだろうと思うが、これは非常に難しい。

人間は多様な特性を持っている。その多様な特性からは、師と選ぶ人間もふさわしい人が違ってくるだろう。そういう意味では、多様な子どもたちに対応するために、多様な個性をもった師が存在することが望ましい。そして、自分にぴったりあった師を子どもたちが選ぶことで、学びの動機を高めることが出来るだろう。しかし、現実には、教師の資質を規格化して画一化する方向へと向かっている。現実には、内田さんが語る学びの本質とは逆の方向へ向かっているように見える。内田さんのこの本は、常識的に当たり前のことから出発しながら、結論としてはまったく常識に反することに落ち着いているように見える。このことからも、この本がたとえベストセラーになっても、それは俗流的な内容からなったのではない、と言える根拠になるだろう。