社会にも法則はあるか


仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんと、社会科の仮説実験授業の研究をしていた長岡清さんの共著の『社会にも法則はあるか』という面白い本を手に入れた。新書程度の軽い本なのだが、ここに含まれている社会科学というものを捉える視点というのは、数学系としては非常に納得のいくすっきりしたものに感じる。

哲学的な科学論としては、ポパーが提唱した「反証可能性」というものが有名なようだが、「反証可能性」というものを視点としたときは、考察している対象が「科学ではない」という判断は出来るものの、それが「科学である」という肯定判断はどうしたらいいかわからなくなる。「反証可能性」があるということが確認できたとしても、それは単に真偽を確かめる方法があるということがいえるだけで、それが真理であるということが確かめられたわけではないからだ。

科学というのは、それが真理であることがいえなければ、「科学である」という肯定判断は出来ない。仮説実験の論理は、その肯定判断を下すための一つの視点なのだ。表題にあるような、「社会にも法則はあるか」という問いに肯定的に答えることが出来れば、その法則こそが社会科学なのだと言うことが出来る。

この本は、社会にも法則があるのだと言うことが納得できるように説明されている。そして、それが法則として真理であると言うことから、社会に対する科学も成立するのだということを主張している。自然科学は、科学の中でも典型的な科学として分かりやすい性質を持っている。それに比べて、社会は複雑で、自然のように単純な法則を持っていない。だから、社会には法則性などなく、社会科学などない、それは幻想だと思っている人もいるのではないかと思う。あるいは、制限されたものだと考えている人もいるだろう。

しかし、社会にも法則性があるのである。それを人間は認識することが出来る。もちろん、それは自然に対するものと少し質の違う法則ではある。しかし、法則である以上、その法則に従って予測すれば、必ずその予測が当たることが保証されるという真理性を持っている。この本からは、社会における法則とはどういうものかというのが学び取れる。そして、そこから「科学」というものの概念がよりはっきりと見えてくる。

自然科学のような単純さを持っている対象は、それが真理であることを見ることはやさしいが、そこから科学の本質を抽象するのはかえって難しいかもしれない。社会を対象としたときは、そこに現れている真理性をつかむことは難しい。しかしそれだけに、その真理性を理解したときに、それが「科学」というものであるという認識はより深まるだろう。そんなことを感じさせてくれるのがこの本だった。

さて、この本では「誕生日」というものを巡る法則性を考えている。誕生日に法則性があるかというのは、人間が生まれるという現象に、何らかの必然性というもの、仮言命題でつなぐことの出来る論理的関係があるかということを考えることになる。ある月に生まれる子どもの数が多いというような偏りが見られれば、その月に生まれる必然性というものがあると考えられるかというのが、誕生日に法則性があるかということになる。

板倉さんの調査によれば、1910年から1917年までの日本における統計では、生まれる月に顕著な差があることがはっきりしている。この間における統計では、3月生まれは6月生まれのほぼ2倍の数になっている。これは、毎年繰り返されているのである。いつも同じだということは、ここに何らかの法則性があると考えられる。

こういうものに対して、いやそれは偶然そうなっているだけだと言いたくなる人がいるかもしれない。もちろん、それは偶然であることも考えられる。しかし、同じことが繰り返されるということを「法則」と言う言葉の定義とするなら、その原因が偶然であろうともそこには法則があると認識するのである。これは、後で問題にする「確率法則」というものにつながってくる。

この法則性に対して、それを整合的に説明して、未来の出来事に対して有効な予測が出来るような命題を見出すことが出来るなら、そこに「科学」が生まれる。そして、この「科学」を見出す方向として、自然科学的な視点と社会科学的な視点を分けることが出来る。この誕生月の法則性に対しては、その法則を支える原因となるものを、実体的な物質的存在の属性として捉えれば、それが自然科学的な視点となる。

つまり、人間の性質として、人間存在にそのような生まれ月の法則を支える何かが物質的に存在していると考えて、それを捉えることが出来たら、その法則は自然科学的に解明されたと言える。自然科学というのは、人間の意志とは独立に存在して、物質的な物自体に備わっている属性から、その法則性(必然性)を説明することが出来る。だから、自然科学で得られる法則は、誤差を差し引けば100%確実に予測が成立する法則性になる。

生まれ月は果たして自然科学的な法則かといえば、それはそうではないことが分かる。それは、時代や地域に深くかかわった法則性となるからだ。この生まれ月の統計は、1980年から1987年までの数では、むしろ3月は少ない方になってしまう。今度は7月、8月、9月というものが多い月になっている。だが、この多さももはや2倍ほどの開きというものはない。率で言えばほんの数%といったくらいだろうか。

もし、日本人の体そのものに、3月生まれをたくさん生むような属性があるのなら、時代が変わったせいでこれが変わることはないだろう。時代が変われば、この法則が変わるということが何を意味しているかと言えば、この法則は、人間の意志と独立しているのではなく、人間の意志と深くかかわった法則であるということだ。つまり、それが社会の法則であり、社会科学の視点だということになる。

この法則は、物質に属している実体的なものではない。むしろ、人間が作り出している社会というものがもつ機能によって生み出されているものだ。つまり、社会をシステムとして捉えて、システムの入力と出力を関数(機能)として見る視点こそが社会科学の視点であり、そこから法則性を導き出すというのが社会科学ということになるだろう。

もし、人間がいつ生まれるかというのが、本当の偶然に支配されているなら、それは確率法則として現れなければならないだろう。確率法則として現れるとは、可能な場合をすべて数え上げて、そのうちの最も多い場合が多く現れるという法則でなければならない。つまり、偶然というのは、どの場合が現れるのも同じ確率で現れるという前提のもとに考えられているのだ。

今は生まれ月にそれほど差がないので、ある意味ではかなり偶然性が働くようになったのだろうと思う。それが1910年の時点では、ランダムな現象ではなく、3月生まれが多く6月生まれが少ないと言う「秩序」を持っていた。これは、宮台氏が語るシステムの「秩序」につながる考えだろう。

この秩序は、社会というシステムが、内部的な前提供給の関係をもった要素の機能によって、ランダムな状態では実現できないような秩序を実現していると考えられるだろう。それが社会科学の視点ではないかと思う。社会というシステムは、どのような装置を作って3月生まれをたくさん生み出しているのか。

この社会システムの装置については、板倉さんは結論は出していないが、当時の日本の人口の多くは農業に従事していたということからくるものがあるだろうと予想している。農繁期と農閑期があるということが、このシステムの秩序を生み出す装置となっていることは確かなのではないかと思う。

また、1980年のデータに対しては、ほんのちょっとの差が現れるところに、結婚式場が混んでいる季節というものの対応を調べている。それが見事に数字的には一致するそうだ。結婚式を挙げた若い夫婦の第一子が生まれる月に、システムの装置としての働きが関係していると見られる。

まったく偶然だと見えるようなところに、実は社会というシステムの装置としての働きが関係している、ということを見る視点が社会科学の視点だと僕は思う。偶然であれば、確率的な結果が起こるはずであるのに、確率的な計算に反する結果が出るなら、そこには社会システムの働きがあるのである。

板倉さんは、生まれ月の次には、生まれた曜日に法則性があるかということを問い掛けている。生まれ月なら、何となく社会的な要因を考えることが出来るが、曜日になるとこれは偶然が支配しているようにも感じる。だが、ここにも見事な法則性を見つけることが出来る。火曜日が多く、土曜と日曜が少ないのだと言う。これは、賢明な人ならピンときたかもしれないが、現在では子どものほとんどが病院で生まれるということが、この法則性を支えている社会のシステムだと言うことだ。

土日は病院が手薄になるので、この曜日に子どもがたくさん生まれると困ることになるということが社会のシステムの装置として働く。そして、現在では、医療技術によって、生まれることを早めたり遅くしたりすることが出来てしまう。多分、それができなかった時代の統計をとれば、火曜日にたくさん生まれるという結果は出ないのではないかと思う。

火曜日にたくさん子どもが生まれるというのは、その道徳的な意味については社会科学は考えない。いいとも悪いとも語る法則性は見つからないからだ。社会科学が主張できるのは、社会のシステムがそのような法則性を生み出しているということが真理であることを示すだけだ。その価値判断は科学とは別に行わなければならない。しかし、その価値判断をするときに、科学として正しいことが主張できることが何であるかを知ることは参考になるだろう。

社会に法則的な出来事があるなら、それは社会科学によって解明できる。決して偶然の出来事だと言って片付けることは出来ない。本当に偶然の出来事なら、それは法則にならず、確率事象として最も多い場合が実現するだけのことになるはずだ。この本では、そのような場合として、40人くらいの集団で、誕生日が同じという人がいるかどうかを問うという問題を考えている。

1年は365日もあるので、感覚的には40人ほどの集団では、みんな誕生日が違う感じがする。100人くらいいれば同じだという人がいてもいい感じがするが、40人くらいでは、感覚的にはそうなのではないだろうか。しかし、これは確率として計算すると、90%以上の確率で、誰かと誰かが、誕生日が同じという人がいる。

この40人を、特に誕生日を調べて集めるのでない限り、誕生日がいつかというのは、偶然性に支配される。ここでは、社会的な法則性はない。だから、確率法則として、計算どおりにもっとも事象が多い場合が実現していることが確かめられる。ここには、社会システムという装置が働かないからこそ、ほぼ確実に誕生日が同じ人を見つけることが出来るのだ。むしろ、すべての人が違う誕生日になるということが続いて起こるなら、そこには何らかのシステムの働きがあるのではないかと思ったほうがいいだろう。

自然科学は、実体的な物質的存在を観察して、その属性として法則を見出す。唯物論を基礎として考察を進めることが基本になることが分かる。しかし、社会科学のほうは、システムの働きのほうこそが本質になる。社会科学は、機能主義こそがその真理性を見出す方向なのではないかと感じる。宮台氏のシステム理論が、機能のほうを重視しているように見えるのは、それが社会科学だからなのではないかと、板倉さんの本を読んで、そう感じた。