多様な視点


今週配信されている「週刊ミヤダイ」では赤ちゃんポストをめぐる議論を展開している。これも、日本の戸籍制度との関連など興味深い議論を宮台氏は展開していたが、この途中で現れた「教育」というものの社会科学的な定義が僕には印象に残った。

宮台氏は、「教育」を動機付けと人材の配分システムとして捉えている。これは、言い換えれば能力を「判定」し、その結果で進路を「選別」するという機能をもった装置が「教育」だということだ。このことは、以前も語っていたことなので特に目新しいことはないのだが、良心的な人々が語っているような、「教育は子どものために行う」というような概念を、社会科学的には拒否していることについても語っていた。

この定義は、一面的な受け取り方をすると、教育における「差別」や「選別」をそのまま肯定しているようにも聞こえてしまう。しかし、その持っている能力が未知のものである子どもに対して、動機付けをして能力の開発を行い、結果として身についた能力で適材適所の配置をアウトプットする装置として教育を考えるのは、価値判断を抜きにして考えれば合理的な捉え方なのではないかと思う。「差別」や「選別」が不当なものとして現れるのは、装置の判定が正しいものではなく、装置の機能が不十分であることから結果するものではないだろうか。そして、このことが「多様な視点」という事柄とともに語られていることに、宮台氏がなぜこのような定義を与えるかということの理由がわかるような気がした。

個人の感覚としては、自分の子どもが良くなることを願って、「教育は子どものために行う」というイメージを持ちやすい。「子どものために行ってほしい」という願いを持ちたくなると言ったほうがいいだろうか。これは願いとしては当然であるし、個人の立場という利害を考慮すれば、決して間違いではなく、むしろこのような願いを持つことで子どもの教育が改善されていくきっかけともなるだろう。

しかし社会科学の立場、すなわち客観的真理を追求する立場からすれば、個人の利害に依存した立場から考えることは客観性を損なう可能性を感じさせる。客観的に正しいことというのは、個人的な利害を超えた判断でなければならない。その意味では、公的な立場からの正しい政策の観点から教育を考えるという視点にならなければならないだろう。実は、社会科学的な視点として宮台氏が語っている定義は、そのような公的な立場から見た教育の意味を捉えた定義となっているのだということが、この宮台氏の話を聞いてよく分かった。

宮台氏は社会学者であり、しかも社会をシステムとして捉えるシステム理論の研究者でもある。そうであれば、教育という対象を考える際も、その教育によって個人がどれほど進歩するか、あるいは個人の発達がどれほど保障されるかという観点ではなく、その教育が社会のシステムの安定にどのように寄与するかという観点で見ることになるだろう。

現在の日本社会は近代成熟期であり、さまざまな自由が保障されている、個人の選択の範囲が広がっている社会だ。これは、個人の意欲という点からはとてもいいことであり、自ら望むような方向の人生を自らが選び取れるという点で幸せなことである。しかし、この自由が「恣意的」なものであった場合、そこには秩序が見られなくなり、社会の安定性においては弊害となる。

恣意的な自由は、結果的には確率法則に従うようになるだろう。つまり、場合の数が最も多いと考えられる現象が普通に見られるようになる。恣意的な自由は、自分が感情的に望む方向へ進路を向けさせることになり、客観的に持っている能力にふさわしい進路を選ばせなくなるだろう。社会には、適材適所に配置されない多くの人々が生まれ、仕事の効率という点で社会の秩序が破壊されることにもなりかねない。

感情的な好き嫌いで自分の進路を考えるというのは、偶然出合ったものに対する好悪の感情から進路を選ぶことになるだろう。そうなれば、それは偶然という確率的な事象になってくる。これを、偶然ではなく、意図的に自分の能力を自覚させ、動機付けをするような仕組みを作るのが教育というものになる。その動機付けによって、偶然に任せておいたのでは伸びなかった能力を伸ばすことになり、その能力によって社会に貢献することもまた動機付けができれば、個人が適材適所に配置されて社会の安定と進歩に貢献することができるようになる。

このようなことが教育において行われていれば、教育は個人にとっても社会にとっても非常にいいものになるだろう。社会科学的には、このような理想状態が理論的に導けるということのほうが、現実がどれほど不十分であるかを分析するよりも重要になるのではないだろうか。宮台氏が、教育をある意味では「差別」と「選別」になるような機能をもったものと定義するのは、社会科学的な文脈からいえば合理性のあることなのではないかと思った。

この観点は、多様な観点の一つであり、教育に対して他の観点ももちろん成立しうる。宮台氏はそれを少しも否定はしていない。多様な視点があることを肯定した後に、自分が問題意識を持っている事柄に最も有効に働くような視点を選び取るということが重要になる。そして、この視点をまだよく理解していなかった人は、このような視点もあるのだということを知ることに大きな意味もある。

仮説実験授業では、「教育」というような大きすぎる単位の対象ではなく、「授業」という小さい単位で子どもと教師の活動を考える。その際に大事にするのは、真理の発見というのは、とても面白いものであり誰もが興味を持って学ぶことのできる楽しさを持っているという発想だ。だから、科学における真理の発見を追体験するような授業を構成できれば、それは無理やり知識を押し付けるものにはならず、必ず子どもから歓迎される、大きな動機付けができるものになるという前提を持っている。

このような「授業」のイメージからくる「教育」のイメージは、子どもに歓迎されるようなものを最優先するのだから、「子どもの立場に立った、子どもにとっていいと思える」教育ということになる。これは、宮台氏が定義する社会科学的な装置としての「教育」の定義ではない。ここに見られるのは、個人的に向かい合う教師と生徒とが、学ぶことから得られる喜びと、その結果としての進歩に有効に働くような、社会よりも個人に大きく傾いた定義と言えるだろう。そしてこの視点も一つの視点として正しい判断をもたらすものとして考えられる。

仮説実験授業の観点は、自分が一人の教師として生きるとき、生徒とともに喜びを分かち合える授業ができるかというような視点を与えてくれるが、それが社会の中でどう位置付けられて、社会のシステムの安定にどう寄与するかということは直接には教えてくれない。それを理解するには、さまざまな実践をする多様な教師がいて、その実践が偶然的な作用で社会全体に働きかけることが、どのような方向へ社会を向かわせる結果になるかを分析する社会科学的観点が必要だ。

仮説実験授業の観点と、宮台氏的なシステム理論の観点では、社会における何を解明したいのかという目的意識が違ってくる。そして、それぞれの観点が優れているのは、その目的意識に従った場合には、それぞれが有効な情報を与えてくれるという点にある。

板倉さんは、「子どものため」を標榜する教育理論・授業理論は今までもたくさんあったにもかかわらず、文字通り子ども自身の視点から授業を正確に評価できたのは仮説実験授業だけだと主張した。仮説実験授業だけは、授業が楽しかったかどうかを子ども自身に問い掛けたが、他の授業理論では、与える側が、これは子どもにとっていいはずだという根拠を理論付けて子ども自身に聞くことなく自分たちの判断でその評価をしていた。このような傾向をパターナリズと言うのだが、仮説実験授業以外の授業理論はすべてパターナリズムを基礎にしていた。授業の良し悪しは、授業をする側が真摯に反省することで判断していた。

子どもにそれを聞けばいつも正しい判断をする、と仮説実験授業が主張しているのではないが、子どもに問い掛けることなしにそれは判断できないと考えたところに仮説実験授業の画期的な面があると思う。本当の意味での多様な見方からの判断を考えることが出来ているのだ。

宮台氏が語る社会科学的観点からの教育の捉え方も、多様な視点を知るという点で大きな意義をもっている。教育は、「差別」と「選別」の機能をもった装置だとする考え方は、価値観抜きで受け止めれば、それは事実を語ったものに過ぎない。それが現実に悪い結果をもたらしていたとしても、だからといって、教育の装置としての面までも否定するのは、科学という観点から目をそらせることになるだろう。

宮台氏が紹介していたドキュメンタリー映画に「不都合な真実」という題名のものがあったが、結果的にいやな面を見させているものに対して、それから目をそらそうとするのは、「不都合な真実」を見ないようにしていることにもなるだろう。

教育が「差別」と「選別」の装置として働いているのは合理性があり、これを否定すれば社会の安定はなくなる。これは、「差別」と「選別」に苦しめられている人間からすれば「不都合な真実」かもしれない。だが、この真実をよく見つめることからしか、この不都合を克服する方向は見えてこない。

人間は適材適所に配置されれば、その仕事が楽しいものだからつい働きすぎてしまうが、それが苦にならない。これは、ある意味では搾取を肯定することであり、現実の不当な支配関係を温存することに寄与するかもしれない。しかし、適材適所に配置されること自体は、個人にとっても社会にとっても利益になることだ。そのほうが個人もより幸せになれる。

個人が少々働きすぎても、その過剰労働によって得られた富が、さまざまな条件で労働を離れなければならない人々を支えることに寄与するなら、これは搾取ではなく社会に貢献する過剰労働となるだろう。内田さんが語っていた労働における必然的なオーバーアチーブメントというのはそのようなものを言うのではないかと思う。オーバーアチーブメントはすべて搾取だと捉えるのではなく、多様な視点があることを知ることが大事だろう。もちろん、搾取が全然ないと考えるのは逆の意味での視野狭窄になる。どちらの面もあるということを知った上で、自分の考察にはどの視点が有効なのかを考えるということになるだろう。

物事の解釈というのはただ一つに決まるものではない。いつでもその物事をどの視点から見ているかということとセットで判断される。他の視点を知らずに、自分の思い込みで解釈している人と、多様な視点を理解して、あえてその中の一つを選択して解釈している人とは区別して見なければならないだろう。ことばの上では正しいことを語っているという点で同じでも、多様な視点を知っている人は、自分の見方の限界も自覚している。宮台氏という人は、そのような稀有な優れた人だと僕はこの話を聞いて感じた。