蓋然性の問題


宮台真司氏が、以前に「南京大虐殺はなかった」というような発言をしたことがあった。これに対して僕は、かなり大きい違和感を感じたのだが、単なる感情的な「愛国心」からこのような言葉が出てきたのではなく、宮台氏が言うからには、何らかの確たる根拠があるに違いないという気がしていた。その根拠に当たるものを、今週配信された週刊ミヤダイで聞くことが出来た。

今週の週刊ミヤダイのテーマは「従軍慰安婦問題と河野談話の扱いについて」というものだった。この問題の発端は、従軍慰安婦問題で日本政府に謝罪を求める決議案が米下院に提出されていることだった。これに対し、宮台氏も、「決議案は客観的事実に基づいていない。日本政府の対応を踏まえておらず、はなはだ遺憾だ」と不快感を示した政府見解とほぼ同じ感想を述べていた。

日本政府に責任がある事柄で告発されているなら仕方がないが、いわれのない嘘で告発されているときは、それに対して反論するのが当然だというのが宮台氏の主張だった。この「いわれのない嘘」というのは、日本政府が主導して「強制連行」したというものだ。事実として政府による「強制連行」はなかったというのが宮台氏の指摘だ。

ここで間違えてはいけないのは、「強制連行」という事実がなかったからといって、従軍慰安婦という存在そのものがなかったことにはならないことだ。「強制連行」までしたことがけしからんと言われたら、それに対しては事実が違うという抗議をしなければならないが、反対の極に振れてしまって、従軍慰安婦などというものもなかったのだと言えば「責任逃れ」の卑怯な人間だと思われてしまう。

従軍慰安婦がいなかったということと、「強制連行」がなかったということは、事実としての確認には違いがあるのである。それを同じレベルで議論をするところに、話がかみ合わないところが出てくるし、事実誤認だというような批判も出てくるのだ。しかし、事実というのは確認ができるものだろうか。

このときに、100%確実な事実でなければ事実とは呼ばないというような前提をもっていれば、すべての場合において事実の確認など出来なくなる。事実などない、そこには物語があるだけだということになってしまう。このような考え方を僕は不可知論と呼んでいる。これは科学の成立を妨げる考えかただ。この不可知論を打ち破る考えが、週刊ミヤダイで宮台氏が語っていた「蓋然性」の考え方のように感じた。

「強制連行」があったかなかったかを100%確実に事実確認することはおそらく出来ない。それをほのめかすような事実は幾つか見つかるかもしれないが、それは決定的なものにはならないだろう。そうすれば、これは立場の違いによって小さな事実をどれだけ重視するかで判断が違ってきてしまう。立場によって事実(=真理)が違ってくるということになってしまう。これでは歴史は科学にはならない。

このとき、宮台氏が語るように、「強制連行」はなかったという判断のほうが蓋然性を持っているという論理はどのように成立するのだろうか。それは、そのような違法行為を、公的な政府がおおっぴらに行うということに「蓋然性」がないという判断からもたらされるのではないだろうか。

アメリカの西部劇の時代であれば、どれほどの違法行為であろうとも、誰も見ていなければそれで告発されることはないのだからやり放題だということがあるかもしれない。しかし、戦争になれば相手がいるのであり、しかも近代戦ということになれば戦場にはいつでもジャーナリストがいる。このような状況の下で、無法行為でもなんでも、とにかく勝っていればやりたい放題だと、統治権力である政府が考えることに蓋然性があるだろうか。

これにはかなり無理があると思う。むしろ、従軍慰安婦という制度が便利なものだと考える人間がいたとしても、政府がそれに直接手を出すことなく、責任は他に押し付けられるような仕組みを考え出すほうが蓋然性が高いのではないだろうか。今の時代は、やくざだって無法行為でその存在を示すよりも、合法的に悪いことをすることの方を選ぶのではないだろうか。

もちろん、政府が直接手を出さなくても、それを利用したということであれば、政府にはその点において責任があることは確かだ。だが、その責任は、直接手を出したときと同等に扱われるべきではない。どの程度の責任かは、具体的に検討されなければならないだろう。最初から、「強制連行」が行われたという前提で責任を問われるようであれば、それはいわれのない濡れ衣だと抗議しなければならない。

悪いことをしているのだから、そんなことを言うのは屁理屈だと感じる人もいるかもしれない。しかし、この責任の重さを考慮するということは、個人の裁判の場合と同じではないかと思う。悪いことをした人間はみな同じ責任をとらせろということでは、止むを得ない事情の下に起こってしまった犯罪というものを特別扱いすることが出来なくなる。これは、責任というものを考える際には、考慮すべき事柄ではないかと思う。

この問題に関連させて、朝鮮半島から日本へ来た人々についても、これが大半が「強制連行」で日本に連れてこられたというのは「左翼の嘘」であると宮台氏が語っていた。事実は、生活に困った人々が、何とか一旗あげようと思って、当時としては朝鮮半島よりは豊かだった日本へ来たのだという。食い詰めたという原因を誰が作ったかという問題はあるものの、在日朝鮮人の人々は、「強制連行」ではなく、大部分が自らの意志で日本へ来たというのが事実だというのだ。

これも、何らかの個々の事実を取り上げて「強制連行」がなかったという主張をしているのではなく、蓋然性からの判断をしているものだと思われる。個々の事実としては、宮台氏の近くにいる在日朝鮮人の人たちから、「強制連行」ではなかったという事を聞いていたということはあったらしい。しかし、自分の周りの人間がそうだからといって、在日朝鮮人全体がそうだとは限らない。やはり全体を判断するときには「蓋然性」というものが重要になってくる。

この場合の蓋然性は、在日朝鮮人の大部分を「強制連行」するだけの余裕が当時の日本にはなかっただろうというところから考えられる。もし、国家を代表する政府がそのようなことをするなら、軍隊の戦力のかなりの部分をそこに割かなければならなかっただろうが、そのような余裕があったとは思われない。また、そこまでしなければ政府が国益を守れなかったかというところもある。

政府は、賃金の安い労働力である朝鮮半島からの人々を利用はしただろうが、強制的に連れて来て労働させるということまでしても、利益はそれほど大きくならなかったと考えられるのではないだろうか。相手が囚人であったりすれば、懲役という大義名分で連れて来ることが出来ただろうが、そうでない場合は、強制までして連れて来るという蓋然性が成立しにくいのではないかと思う。

このことに関しては、「左翼の嘘」を暴露したという点で「新しい歴史教科書を作る会」を宮台氏が評価していたのは面白いところだと思った。しかし、それが感情的に左翼たたきの方へ向かってしまったのは間違いだったという指摘も忘れていない。嘘を正して、客観的事実を元にした歴史の展開の方向へ行けば、歴史が物語ではなく科学になったのだろうと思う。

南京大虐殺」がなかったという問題に関しても、宮台氏が言う「なかった」という主張は蓋然性の問題として語っているのだと思う。例えば、よく議論になっている「30万人説」というのがある。これは、南京で殺された人々の数が30万人だという説で、中国がずっと主張していることらしい。これは、蓋然性としてはありえないということを宮台氏は語っていた。

これはその指摘が正しいだろうと思う。当時の南京の人口が30万人に近い数だったのだから、犠牲者の数が30万人だったら、ほぼ全員が殺されたことになるのだが、これはまったく信じられない。原爆のような大量破壊兵器であれば、一回の戦闘での犠牲者が大量になることが考えられるが、それでも30万人という数は多すぎる。蓋然性という点ではまったく妥当性がない。

しかし、犠牲者の数が30万人ではなかったというのは、犠牲者はいなかったのだということにはならない。宮台氏も、もしかしたら1万人くらいはいたのかもしれないというようなことを語っていたが、1万人だから「大虐殺」ではないという主張も変なものだ。強姦されたり、不当な殺され方をした人がいれば、たとえ一人であろうとも「大虐殺」だと言えるかもしれないのだ。

日本軍の軍隊教育の非人間性や、指導者に大局的な見通しがなかったことなどを考えると、南京の戦闘で、非人間的な行為がどこかで起こっただろうことは、それがまったくなかったと考えるよりも蓋然性がある。不当行為はどこかで起こったに違いない。しかし、それは30万人も殺すような「大虐殺」だから、それにふさわしい責任をとるべきだと糾弾されるのは、いわれのない非難だと感じるだろう。

歴史事実に限らず、現実の事柄に関しては、0%か100%かという見方は不可知論に陥ってしまう。それはどの程度の蓋然性を持っているかを客観的に考える必要がある。特に、責任が問題になるようなデリケートな事柄ではそのように考える必要があるだろう。100%の悪や100%の善はあり得ないのだ。

宮台氏が語る「南京大虐殺はなかった」ということは、30万人もの虐殺はなかったという蓋然性の問題だと理解すれば、確かにそのとおりだと同意できるものだ。しかし、それは南京での不当な殺人がまったくなかったという主張ではない。そう言ってしまえば、逆の意味での嘘になる。どの程度の事実があったかは蓋然性によって判断すべきなのだ。そして、その蓋然性は、立場の違いによって変わってくるものではなく、客観的に同意できるようなレベルがあるはずだ。そして、それをもとにすることによって、歴史を始めとする社会科学も本当の意味での「科学」になるのだと思う。