「疎外」が生む問題に対するマルクスの解決


「疎外」という現象は、人間が作り出したものであるにもかかわらず、人間のコントロールの範囲を越えてしまって、それが独自に活動してしまうことによってさまざまな問題を生じるようになる。これをどう解決するかということを考えるのに、とても分かりやすい比喩を大塚久雄さんは『社会科学の方法』の中で語っている。群集のなだれのような動きというものを考えて、これに翻弄されずに治めるにはどうしたらいいかを考えることで、その他の社会現象についてもそれをコントロールする方法というものを比喩的に考えている。

初詣に有名な神社などに行くと、大勢の人が流れるように動いているのを見ることができる。この流れに沿って歩いているときはいいのだが、これに逆らって違う方向へ行こうとするとかなりたいへんだ。これは多くの人が経験しているだろう。そのような状況のときに、ちょっとしたパニック状態が起こって、その群集がいっせいに、ランダムに動き始めようとするとたいていは自分の意志と違う方向に引きずられていってしまう。かなり危険な状況になり、問題が発生したと言っていいだろう。

この問題を解決するにはどうしたらいいのだろうか。群集のランダムな動きを秩序あるものにするにはどうしたらいいか。この解決方法について、大塚さんは、個別的な方法と集団的な方法と二つの方法を考えている。

個別的な方法というのは、個々の人々のデータを集めて、個々の人に働きかけていくというものだ。全体の動きも、元をたどれば個人の動きに帰着するのだから、その原因を何とかして解決しようとするものだ。これは、全体はあくまでも部分の総和だという考えに基づいている。この方法は、無駄ではないが効果はあまりないと大塚さんは主張しているように見える。

部分の問題を解決して全体の問題が解決する場合は、その現象がランダムな偶然性の下に起こっているものではなく、必然性が求められるときにしか効果がないのではないかと思う。部分と全体の結びつきが、ある種の必然性に基づいているときは、その必然性に働きかけることによって、部分的な解決が全体の解決に結びつく。しかし、ランダムな現象の場合は、その解決が全体に結びつくのもランダムなことになってしまい、効果が出るときもあれば、効果が出ないときもあるということになってしまうのではないかと思う。

群集のランダムな流れを押しとどめようとするときに、個別に対応すると言うのは、その群集の中の個人に関して細かいデータを求めるということを意味する。そして、その個人の一人一人に働きかけることが部分の解決になるのだが、一人の問題を解決している間に、他のところでまた問題が生じてくるというのがランダムな現象の特徴になる。こうなったら、問題の解決は現実的にはいつまでたっても出来なくなるのではないかと思われる。

このような「疎外」現象は、個人の意志の自由を越えてしまうので、個別的な対応では解決が出来ないと、マルクスもそう考えていたのではないかというのが大塚さんの語るところだ。「疎外」現象は、個人から生まれたという過程があるものの、それを捨象して「疎外」されたものを全体として一つの存在のように扱うことからしか、その問題の解決が見つからないのではないかということだ。

全体をあたかも一つの存在かのように扱うというのは、宮台氏が語るシステムの捉え方にも通じるものだ。大塚さんが考えるマルクスの解決というものは次のようなものになる。

「彼の考え方を、私なりに解釈して比喩的に説明してみますと、むしろ、こういうことになるのではないでしょうか。−−どこか小高いところに立って、群集全体の動きを見渡す。高いところから見るのですから、個々の人間の細かい動きはともかく、群集全体がどこからどこへ動いているか、その大筋がはっきりと分かるでしょう。その場合、個々の人間を、独自な個性的な動きをする人間として取り扱うことは当然二の次です。群集全体が自然と同じようなものになって動いているのですから、さしあたっては人間は物扱いにするほかはありません。ともかく、群集全体の動きを見定めて、方々に伝令を飛ばし、方向をいろいろ変えさせたり、止めたりしていくわけですね。その権限は、軍隊などのように、計画的な隊列を作らせることになるでしょうが、ともかく、こうして混乱は収拾されるでしょう。つまり、計画的に隊列を作って行進すれば、そうした混乱は起こりえないのだから、群衆に隊列行進という計画性を与えて、その混乱を解消していく。こうして、人間の「疎外」現象を解消していけばいいのだ。こうマルクスは言うのだと思います。これが彼の言う社会主義とその計画経済の意味するところでしょうが、それはともかくとして、社会的分業の自然成長性の結集たる「疎外」現象のために、人と人との関係がわれわれの目に物と物との関係として現れて来るような資本主義社会の経済現象を、科学的に認識するためには、このような意味で、人間の営みである社会現象を自然史的過程として捉え、自然科学と同じ理論的方法を適用することが必要ともなり、可能ともなるというわけです。」


ここで語られていることの一つは、まずは群集を全体として把握するには、それを視野に入れられるだけの「高い視点」が必要だということだ。群衆に近づきすぎていれば、それは目の前の一部だけしか見ることが出来ない。群集から遠く離れることによってその全体像がやっと見えてくるというわけだ。「疎外」現象の場合は、個々の存在にべったりとくっついていては解決の方向が見えてこない。そこから離れることがまず必要なのだ。そして、ただ離れるだけではなく、全体像が見える場所にまで離れるということが必要なのだ。

次に語られているのは、全体を把握した後に、その全体に働きかけることができる「権限」というものがなければならないということだ。いくら全体を正しく把握しても、解決する方向へ働きかけることのできる現実的な力がなければどうしようもない。これは、集団が大きくなればなるほど強い力、つまり権力というものが必要になる。

さらに語られているのは、この現実の権力がうまく機能するための訓練された組織というものの必要性だ。具体的には軍隊というものが挙げられている。このようなさまざまな道具立てがそろって、ようやく全体の問題として捉えられた「疎外」が生み出す問題が解決される。ランダムな現象が集まって生じた「疎外」が生み出した問題は、このような手順を踏まないと解決が出来ないだろうということは論理的に納得がいくことだ。

しかし、ここで何か引っかかりを持つ人もいることだろう。上の考察では、権力や軍隊の存在の意義と必然性が語られているが、それは全体の秩序を保つために個人を弾圧する方向へも働く可能性があるからだ。全体に生じた問題を解決するためには、高い視点から見ることのできる指導者と、その指導者の指導に基づいて動く組織と、それを動かせる権力が必要なことは分かる。しかし、その指導者の指導が正しいことはどうやって保障されるだろうか。

マルクスの考え方は論理的にはたいへんすっきりしている。間違いのない方向だと思う。しかし、その正しさがもたらされるのは、指導者に間違いがないという前提があってのことだ。だが、社会主義国家の崩壊の歴史は、その指導者がほとんどすべて間違いを犯したということを証明してしまったのではないだろうか。マルクスの論理は正しかったが、その前提が現実的に正しくなることがなかった。これを修正できる考え方というのはあるのだろうか。

大塚さんの考えでは、それはヴェーバーが考えたような社会学の方向ではないかということだ。宮台氏も語っていたが、マルクスは社会における経済を基礎的な土台として考えて、それ以外の人間的な営みを上部構造として、相対的に独立して動くこともあるけれど、本質的には従属するものとして捉えているが、社会学では経済だけに独立の地位を与えるのではなく、その他のシステムも同等なものとして位置付けて考えている。

経済だけを他のものよりも重い存在にしてしまうと、経済権力を握った人間がすべてを支配するような体制が出来上がってしまうのではないだろうか。その場合は、その権力者が間違っていた場合に、その間違いを押しとどめる力が存在しなくなる。しかし、いろいろな方向に権力が分散すれば、それぞれが牽制しあって、ひどい間違いを犯すことは避けられるかもしれない。しかしこの場合は、群集のランダムな動きが問題を引き起こしたという構造は新たな形で残ることになる。

今度の場合は、群衆ほど予測不可能ではないにしても、それぞれの部署で、その部署にとっての利益に基づいたランダムな動きが生じる可能性はある。これは、群衆ほどの量的な問題はないので、何とかコントロール可能な形にする可能性はあるかもしれないが、同じような構造が残るので問題が生じる可能性は残る。

社会の問題というのは、実は根本的に終止符が打てるような解決というのはないのかもしれない。常に問題に対処することが可能なように社会を設計していくしかないのかもしれない。これが、最終的に求められる理想社会だなどという幻想にとらわれてはいけないのかもしれない。マルクス主義の間違いのもっとも深い根はこのようなところにあったのではないだろうか。

社会の混乱という問題は解決されなければならない。破壊された秩序は、やがて個人にも不利益をもたらす。しかし、その秩序回復のために用いられた処方箋は、それによって必ずしも最終的な解決をもたらすものではなく、それもまた新たな問題を引き起こす可能性を常にはらんでいる。そして、その新たに発生した問題を正しく解決できる指導者は、また新たな人に求める必要があるのではないだろうか。古いやり方で成功した指導者が新しい問題に正しく対処できるかどうかは分からない。むしろ古いやり方を捨てきれなくて失敗する可能性のほうが高いのではないだろうか。

権力者の問題というのは、優れた能力で社会の問題を解決して権力の座に着いた人間が、その権力の強さのゆえに失敗をしても権力者の地位を落ちることがないというところにあるのではないだろうか。人間の社会は、この問題を解決することが出来るのだろうか。民主主義は一つの解決の方向だっただろう。権力者個人が間違えているとき、大衆がその間違いを判断して権力者の権力を奪うことができるシステムが民主主義制度だろう。しかし、この制度がうまく働くためには、大衆の側が正しく判断するという前提が必要だ。

さまざまな問題に対して、人間は多くの失敗を繰り返す。その失敗から何かを学び、問題解決の新たな方向を見出していくというのが人間の歴史だろうと思う。試行錯誤によって進歩していくというのが、常に生じてくる問題への正しい対処というものだろう。試行錯誤の重要性というものをもう一度深く考えてみたいものだと思う。