「言語」の本質とは何か


三浦つとむさんは、『日本語はどういう言語か』という本で、言語の本質を語る際に、絵画や映画との比較から始めている。これは、表現一般というものをまず考えて、言語もそのような表現の一種としての性格を持っていることを前提として、それではそのような表現一般の中で言語に特有の性質としては何があるかを考えることで言語の本質というものを求めているように感じる。

言語は表現としての側面も持っているので、当然のことながら表現としての側面として、表現一般の本質という性質も持っている。これを言語の本質と取り違えてしまう可能性があるだろう。本質というのは、対象をどのように扱っているかという主体の側の条件によっても変わってくるということになるのではないか。

さて、表現というのは辞書の説明によれば次のようになる。

心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など。」


表現にとってなくてはならないもの、つまり本質とは次のようなものになるだろう。

  • 客観的に観察可能なものであること(物質的存在であり、他者がそれを認識しうる)
  • 物質的存在に、表現者の認識という観念的なものが関係付けられている。

これを欠いたものは、どれほど表現に似ていようとも表現とは呼ばれない。自然の作用によって岩が削られて何かの形に見えたりしても、それを自然が表現したとは言わない。本質とは、表現とそうでないものとを区別する指標となるものだ。

この表現としての本質から求められるものに、三浦さんが挙げている、サルや赤ちゃんなどが勝手にタイプライターのキーをたたいて、偶然ある言語表現と同じものを印字した場合などが言語ではないというものがある。この印字した文字の背後には、表現者の認識が関係付けられているとは考えられないからだ。つまり、それは表現ではないと考えられるので、当然言語でもないと判断できる。

このように、その対象を含むより広い範囲のものについての本質は、そこにおける区別は、その範囲に入らないものはより狭い範囲のものでもないということが、集合の包含関係から分かる。だが、その広い範囲に入るものは、例えば表現の場合は、言語ではない絵画や映画も入ったりするので、表現であるからといって言語だとは限らない。言語を言語として区別するには、言語特有の本質というものも必要になる。

ここで言語の本質に行く前に、表現の本質をもう一度関係性という面からちょっと考えてみよう。表現は物質的存在でなければならないという点で客観的な判断においては唯物論的でなければならないという本質を持っている。唯物論的な前提というのは、客観性という面において必要不可欠なものだ。客観性というのは、自分だけがそれを理解するのではなく、自分と同等の任意の他者も認識できるということを前提とするからだ。

ところが、物質的存在であるだけでは表現にはならない。表現は、人間にとって認識可能であるという側面で、物質的存在としての本質を持っているが、表現にとってより重要な、固有の本質というのは、表現者である人間の認識と関係付けられているということである。ここに、本質は関係として現れるという面を見ることができる。物質的存在を本質と直結させてしまうような考え方は、本当の唯物論とは言えず、三浦さんが語っていた「タダモノ論」ということになるのだろう。

さて、三浦さんは言語特有の本質を求めるために絵画や映画という表現と言語とを比べている。それでは、その違いはどこに現れていると語っているだろう。それを4つの側面から考えている。

  • 1 主体的表現と客体的表現との統一
  • 2 写生的立場と地図的立場の現れ方
  • 3 過去・現在・未来などの時間的な関係の現われ方
  • 4 物質的な同一性と意味の同一性とのずれ

主体的表現というのは、表現する主体の側についての情報が読み取れる表現の部分を指す。主体の側の感情はもちろんのこと、その立ち位置などが含まれる。それに対し客体的表現というのは、表現主体が対象として認識している物質的存在に関する情報を指す。人間は何かについて表現をするのだが、この「何か」に関する情報が客体的表現ということになる。

三浦さんは、机に向かって勉強する子どもを描くスケッチというものを例に絵画の場合を考えている。このスケッチから得られる客体的表現は、そこに描かれている子どもや机などという物質的存在だ。絵画の場合は、客体的表現が何であるかは分かりやすい。しかしそこに表れている主体的表現は、注意深く読み取らなければ分かりにくいだろう。

三浦さんは、正面から描いているのか側面から描いているのかという、立ち位置のことを指摘している。これなどは、作者の立場に同化するという意識をもたなければあまり気づかないことではないだろうか。ましてや、その作者がどのような感情を抱いて絵を描いているかはなかなか分からない。

これに対して言語表現の場合は、主体的表現である感情を直接表現することもできる。「嬉しい」と書けば、その表現者の感情を読み取ることができる。しかし、本当は嬉しくも何ともないのに、言葉として「嬉しい」と書くこともできるので、言語の場合はその表現された感情が本物かどうかは判定しがたい。絵画の場合は、外見が本物に似ているかどうかは判定しやすいが、言語の場合はそれが難しいということがあるだろう。このあたりに言語の本質というものが隠れている感じがする。

写生的立場というのは、できるだけ外形に忠実に写すという表現になる。それに対して地図的立場というのは、余計なものを捨象して、必要なものを抽象するという表現になる。絵画の場合は、ある一面から見える平面的な外形に関しては、かなり忠実に本物に近いものが表現できるのではないだろうか。彫刻ならば立体的に忠実に写すことができるだろう。

それに対し言語表現の場合は、写生的立場にはかなりの限界がある。本多勝一さんも書いていたが、目に入ってくるものすべてを表現しようとしても、次々に新しいものが見つかってしまい、終わりのない表現になってしまう。しかも、それをいっぺんに表現することは出来ず、必ずどれかを先にしてどれかを後にしなければならない。存在は同等にそこにあるはずなのに順番をつけなければならないというのは、写生的な表現は出来ないということでもあるだろう。言語の場合は選択と順番という表現の制約のため写生的立場には限界がある。

その代わりに地図的立場は言語が得意とする表現の分野ではないだろうか。三浦さんは、言語の本質を「概念を表現する」ことに置いているような気がする。この概念というのは、対象の具体性を捨象して本質を抽象してくるまさに地図的な認識を指しているような感じがする。言語が抽象と捨象を得意としている表現だということから、人間は言語を用いて思考することによって思考が深まってきたとも言えるのではないかと思う。

この二つの立場に関しては、想像の問題も語られている。想像というのは、三浦さんの用語では「観念的な自己分裂」と呼ばれているのだが、地図的な立場による表現には、直接目に見える物質的な世界ではなく、そこに捨象と抽象という作業を経て見えている想像の世界がある。この想像の世界は、現実的な自己のままでは見えず、必ず観念的に分裂したもう一人の自分が見ているという設定が必要だということだ。これは、直接見えるものを表現する絵画と大きく違うところだ。もっとも絵画のほうも、抽象画になると直接見えていないものを表現するので、この観念的な自己分裂が問題になってくるかもしれない。

時制の問題と意味の問題は言語に特有の本質を見せてくれるものでもある。言語は、過去・現在・未来というものをかなり自由に表現できるが、言語以外の表現においてはそれはかなり難しいのではないかと思う。また、意味の多様性という問題も言語特有のものではないだろうか。文脈によって意味が違ってくるというのは、絵画や映画などにも表れてくるかもしれないが、言語表現ほど多種多様な解釈がそこから読み取れるということは少ないのではないだろうか。言語表現の場合は、表現者の意図とまったく違うことを読み取られることがしばしばある。しかも、それは無意識の中にあったもので、表現者自身も気づかずにそう語ってしまったなどと言われることさえある。

言語の本質というのは、対象が複雑なものであるだけに一言で言うことは難しい。しかし、それは物質的属性として語られるものではないだろうとは予測できる。物質的属性というのは、人間が認識の対象に出来る、つまり考察することの出来る対象であるという、最も広い範囲の対象としての属性=本質ではあるが、言語固有の本質ではあり得ないだろう。

言語の本質もやはり関係性に求めるのが妥当だろうと思われる。そして三浦つとむさんもおそらくそうしているだろうと思う。これはちゃんとまとめたことがないのでそう予想しているのだが、三浦さんの言語論をもう一度読み返してみて、その本質論のところをまとめてみたいとも思う。実体をそのまま本質だとするのは「タダモノ論」であって唯物論ではないだろうと思うので、三浦さんもやはり本質は関係性のほうに見ていると思うのだ。唯物論というのは、その対象が物質的存在でなければ、人間には認識できないという基礎の部分を指すのだと思う。

そしてこの関係性というものが、ある意味では数学的な「関数」によく似たものに感じる。そうすると、数学における「関数」は function のことであり、これは「機能」という意味ももっている。そうであれば、本質というのはやはり「機能」のことを指すのではないかとも思える。現実の存在がそれを対象にした思考の際に、他のものと区別される決め手になるのは、物質的具体性の故ではなく、抽象的に想像された「機能」面にあるというのは、ものを考える際に重要なことではないだろうか。

本質が「機能」に現れるというのは、一見「機能主義」と呼ばれる考え方のようにも思われる。しかし、批判的に語られている「機能主義」と、この本質を「機能」に見るという発想とはどこか違うもののようにも感じる。三浦さんが批判していた「機能主義」というものの本質も、それが区別される決め手となる特性も一考の価値があることではないかと思う。三浦さんの著書を読み返して考えてみたいとも思う。