武谷三段階論における「本質」


武谷三男さんの三段階論を辞書で引くと「科学的認識は「現象論・実体論・本質論」の三段階を経ながら発展するとしたもの」という説明があった。ここに書かれている「本質論」の「本質」とはいったいどのようなものを指すのだろうか。それは、「現象」や「実体」とどのように違うのか。この「本質」はやはり関係として捉えられるものなのだろうか。

武谷さんの三段階論は『弁証法の諸問題』という本に納められた「ニュートン力学の形成について」という文章の中で語られている。まとめてみると次のようになるだろうか。

現象論的段階
第一段階:現象の記述(実験結果の記述)
「この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。」……個別的判断、個別的な事実の記述

実体論的段階
第二段階:現象が起こるべき実体的な構造を知る。この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得る。
「ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こることを記述するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬとゆうことにはならない。」……特殊的判断、その法則は実体との対応において実体の属性としての意味を持つ

本質論的段階
第三段階:実態的段階を媒介として本質に迫る。
「諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。」……普遍的判断、概念の判断(任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにする)


三段階論において「本質」として指摘されている認識の段階が、板倉さんが言う意味での「科学」である。これは、普遍的なものである。つまり個別の実体に束縛された命題ではない。「任意の構造の実体」「任意の条件」という任意性を持った命題として語られる真理を指す。

ここで語られている「本質」は、個々の具体的な存在である対象に縛られない。どんな対象であろうとも、その真理性を問題にしている対象であれば、そこに法則性が語られ、具体的な実体における法則性の表れが、むしろこの普遍性から演繹されるという論理的な関係にある。この法則性は、実体を媒介としている(板倉さんの言う意味での実験を経ている)が、実体を越えたものとしてもはや実体的なものではなくなっている。

この各段階を天体の運動という科学史の中から拾ってみると、現象論的段階は、ティコ・ブラーエの天体観測がそれに当たるという指摘を武谷さんはしている。この段階は、文字通り見たままを記述する段階として「現象論的」と呼ばれるにふさわしい。時間や位置などのデータを正確に記述することがここでは求められる。まだここには判断はない。むしろ、何らかの判断を持つような先入観は極力排して、判断抜きにあるがままに記述することで客観性を担保する。

次の実体論的段階は、天体を実体として捉えることで、その知識を媒介にして「天体の運動として」の個別的な法則性として法則が求められる。武谷さんは、ケプラーの段階の法則的認識がこれに当たると指摘している。ケプラーの法則は次の3つである。

  • 第1法則: すべての惑星は太陽を1つの焦点とする楕円軌道をえがく。
  • 第2法則: 惑星と太陽を結ぶ線分が一定時間にはく面積は、それぞれの惑星について一定である。
  • 第3法則: 惑星の公転周期の2乗と軌道長半径の3乗の比は惑星によらず一定である。


これらの法則は、現象論的段階であるティコ・ブラーエの観測結果というデータだけを見ていたのでは決して出てこない。観測結果の数値を合わせるだけなら、コペルニクスの地動説を使わずとも、天動説であってもつじつまを合わせることができる。しかし、ケプラーの法則は、コペルニクスの地動説を基にして、つまり太陽系という天体を実体的に把握して、その実体の間にどのような法則が成り立つかという観点で観測結果を見なければ浮かんでこないものなのである。

このケプラーの段階は、科学史においては画期的な意味を持っている段階だ。天体の運動というのは、目に見える姿では天動説が正しいように見える。しかし、実体的な対象の相互作用という視点で見ることによって、単純に見たままの形ではない法則性が導かれている。複雑な形での真理が得られている。だが、この真理であってもまだ「本質」とは呼ばれていない。個別的な実体を離れて、それを越えなければ「本質的」とは呼ばれていないのである。

武谷さんが「本質的」と呼ぶのは、個別的な実体である天体という存在から離れて、普遍性を持つ任意の存在である、質量を持った物質という対象に成立する運動法則が求められたときである。これがニュートン力学の段階であると指摘されている。

ガリレイにおいても力学運動という視点では、ニュートンに近いものが得られていたと武谷さんは指摘している。しかし、まだガリレイの段階では、その力学法則は地上の物質的存在に限られていたので、それは実体的段階にとどまっていたという評価をしている。任意の、質量をもつ物質のどれにも当てはまる力学法則が提出されたのはニュートンの段階であり、それが「本質論的」と呼ばれるにふさわしい段階であると武谷さんは語っている。

武谷さんが語る「本質論」では、実体は影を隠し、そこに見られるのは普遍的な(抽象的な)存在同士の相互作用として語られる法則だけだ。これはまさに相互作用としての関係性が語られているといっていいものだろう。

武谷さんの三段階論において重要なのは、「現象論的な知識が十分ではなくて直ちにその原因を思惟するとき形而上学に陥るのである」という指摘だろう。これは天動説における間違いを考えると、この指摘が当たっていることが分かるのではないかと思う。恒星の運動だけの記述で直ちに天体の運動の原因を思惟すると、地球が宇宙の中心であるという考えが固定化され、形而上学的にその発想から抜け出られなくなるのではないだろうか。

やがて惑星の運動が記述されて現象的知識が増えてきたとき、形而上学的な発想から抜け出られない天動説では、この惑星の運動を無理やりつじつまを合わせようとする「周点円」なるものを設定しなければならなくなる。実体を導入して、実体論的な思惟ができれば、形而上学的な発想を免れることができるだろう。必ずしも、地球を宇宙の中心に置かなくてもいいという発想ができるだろう。

武谷さんは、「一足飛びに本質論には行かないのである」とも語っている。これは、現象から、実体論的段階を抜いて、本質論的段階と直結されるような発想はありえないという指摘だろう。これは、実体を忘れ去り、空想的な実体をこっそりと設定する機能主義的発想の間違いではないだろうか。

具体的な例は思いつかないが、このとき空想的な実体ではなく、観測され実在が確認される実体に基礎を置いた実体論的段階を経ることができれば、機能主義は、現実にふさわしい機能主義になり「本質論的段階」の機能=関数を求めることができるようになるのではないだろうか。ニュートン運動方程式という本質的な法則(関数)が求められるのではないだろうか。

現象の記述をそのまま本質と勘違いする方向は、三浦さんが批判していた「機能主義」と呼ばれる発想の特徴の一つでもあるのではないかと思う。見たままを素直に受け取って、現実をあるがままに肯定すれば、世の中はそのようになっているのが本質だという間違いをするのではないかと思う。世の中はそれほど単純なことばかりではないのだ。見たままと本質が違うことはたくさんある。

三段階論に関しては、板倉さんが脚気の研究とともに面白いことを語った資料があった。「武谷三段階論と脚気の歴史」という講演記録がそれで、そこには

「自分の願いに関わらず,自分は本質論的な法則を見つけたいと願っても見つけられない段階,見つけるべき段階でない段階がある。実体論的認識を目指したくたってだめだ。現象論的認識をきちっとやらなくては駄目だ。あるいは現象論的認識にとどまっていてはいけない。実体論的認識に進まなくてはいけない。あるいは本質論的認識に進まなくてはいけない。そういう情勢の時もある。その情勢は自分の気持ちとは関係ない。「俺は肝が小さいから本質論はできない。俺は現象論でいきたいよ」と言っても駄目。その時の情勢。つまり,その時の研究段階があってそれに併せて本質論的認識を進めなくてはいけない。こういうことです。」


と書かれている。これも「一足飛びには本質論には行けない」ということを語っている。現象論的認識が不十分であるときは、それを徹底するまでそこにとどまっていなければ、次の実体論的段階には行けないのである。どんなに本質論的段階にあこがれて、それがすばらしいものであると思っていても、実体論的段階を終えたということがなければ、本質論には行けないのである。

板倉さんは、脚気の研究において、何が脚気に効いたかという現象論をちゃんとせずに、脚気の治療法という本質論に行こうとしたことが森鴎外をはじめとする東大優等生医師団の失敗だったと『模倣の時代』という本で語っていた。各段階を正しく通過しなければ、本質論的段階は得られないのである。

僕の専門である数学は、高度に抽象化されているため、いきなり本質論から展開することが多い。だが、そのような学習をするために、現象論的段階や実体論的段階が抜け落ちてしまって、形而上学的発想に陥っているケースが多いような感じがする。計算して答を出すことはできるのだが、その答が現実にどのような意味を持っているかが見えなくなっている。それは単にデータとしての数値が出ただけのもので、まさに機能だけが空想的に固定されているだけのように見える。本質を理解するための現象論と実体論の段階を丁寧に追いかけることを忘れてはいけないと思う。これは教育においても重要なことだろう。