「南京大虐殺」はあったのか?


宮台真司氏が「南京大虐殺」というものに疑問を呈して、それが「なかった」と受け取れるような発言をしたときに僕は大きな違和感を感じていた。しかし、その「なかった」という意味は、「南京大虐殺」そのものを否定するいわゆる「否定派」と呼ばれる人々の言説とは違うだろうという感じも抱いていた。

「週刊ミヤダイ」というインターネットラジオの放送を聞いて、それが蓋然性の問題として、中国などが主張する「30万人説」に蓋然性がないという意味での「なかった」ということなのだということが最近分かった。つまり、宮台氏が語る「なかった」という意味は、中国などが主張する「虐殺者が30万人いたという意味での南京大虐殺」はなかったということだったのだ。

このとき重要なのは、虐殺者が30万人に達していたかどうかということだ。犠牲者が30万人いたかどうかということではない。虐殺者が30万人いたということは、論理的な問題として考えた場合に、その蓋然性はほとんどありえないという意味で蓋然性が低いと判断できる。これは論理の問題であって、具体的なデータの問題ではない、と僕は判断する。

具体的なデータの問題は、100%の確実性を要求すれば、すべての場合に渡って疑わしいとしか言いようがなくなる。だからこそ蓋然性が問題になるのだが、その蓋然性はデータによって生み出されるものではない。データそのものは、結果的には信用できるかできないかという二者択一の結論しかないもので、それこそ0か100かという話になってしまう。

それをどの程度信用できるかという「程度の問題」にするのは論理の問題なのである。そして、論理の問題として重要なのは、その考察している対象をどのように定義するかという言葉の問題でもある。「虐殺」というのは、いったいどのようなものを指すのか。

日本軍に殺された中国人はすべて「虐殺」だと定義すればすっきりしていてわかりやすいが、これは客観的に見て賛成する人はほとんどいないだろう。だから、犠牲者数=虐殺者数ではない。そうであれば、30万人説で主張されている人数が、いわゆる南京攻略戦における犠牲者数とほとんど変わらない数なら、それは具体的なデータにかかわらず、論理的に言って蓋然性がないと結論できるのである。

南京攻略戦というものが、どこからどこまでの範囲を含むものかというのでは異論があることだろう。だから、このことで100%確実なデータを出すことなど出来ないに違いない。これもどの程度なのかは蓋然性の問題であり、「程度の問題」だ。その数が、30万人に近い数であるなら、どのような数であろうとも、論理的には、犠牲者数=虐殺者数ではないのだから、虐殺者30万人説というのは論理的に言って蓋然性はなくなる。

それでは、南京攻略戦の犠牲者数が30万人をはるかに超える数だったら、虐殺者30万人説は蓋然性が高まるかといえば、これは論理的にはそうはならない。なぜなら、そのような結論を出すには、論理的に、犠牲者数の中に占める虐殺者数が一定の割合で算出できるという前提が必要だからだ。このような前提がなければ、数が多ければ虐殺者も多いというわけにはいかない。

30万人説の蓋然性を高めるには、実際に30万を虐殺できるだけの可能性があるということを示さなければならない。それは、30万人の対象となる人間が確かにいたということを示すことがまず必要だ。そういう意味で、南京陥落後の人口が問題にされるのだと思う。

これは、当時南京全体にどれだけの人が住んでいたかという問題ではない。そのような人口が何人いようとも、その数だけでは30万人説の蓋然性の証拠にはならない。なぜなら、戦闘行為の途中での虐殺というのは、たとえあったとしても計算上は誤差が大きすぎて、数を算出しても意味がないからだ。虐殺なのか、戦闘行為における結果としての死者なのかが判定できないだろう。そのような数を虐殺者の中に含めるなら、これは虐殺者数を論議することに始めから意味がなくなる。

東京大空襲や広島・長崎の原爆で犠牲になった民間人は、僕の感覚で言えばすべて虐殺者だと思うのだが、これも戦闘行為の延長での死者であり、比喩的に言えば事故で死んだことと同じだと判断する人もいるだろう。虐殺ではなく、止むを得ない犠牲だったという考えは、アメリカ人などはだいたいそうではないかと思う。これらの犠牲者を虐殺されたというのは、日本人としての立場からそう思えるというのではなく、客観的に見てやはり虐殺だと思うのだが、それでも異論が出るくらいだから、戦闘行為の途中での死者に対しては、それは虐殺者として客観的な数字には出せないだろうと思う。

そうであれば、虐殺者の中に、戦闘行為中の人数がかなり含まれていれば、それはやはり蓋然性はなくなるだろう。ある立場からすればそう考えられるが、客観的にはそうは言えないという主張になる。戦闘行為終了後の虐殺者が29万人で、戦闘行為中の虐殺者を1万人くらいと推定して30万人にしているのであれば、それはほぼ30万人という言い方もできることになる。だから、30万人説が主張する虐殺者数は、ほとんどが戦闘行為終了後だと考えなければ、蓋然性を議論することにそもそも意味がなくなるだろうと思う。

そうすると、南京の人口に関しても、戦闘行為終了後に日本軍が駐留して活動できる地域に住んでいた人がどれくらいいたか、あるいは捕虜の数がどれくらいいたかということが問題になってくる。南京全体の人口というような大雑把な数では議論にならない。南京城内の安全区を管理していた南京安全区国際委員会が収容数を20万人と認識していたということが問題にされるのは、このような考えからだろうと思う。

虐殺者というものを、戦闘行為終了後に、正当な手続きなしに処刑あるいは、犯罪行為の末に殺された人々と定義するなら、30万人という数が多すぎる数であり、論理的にはありえないという結論にならざるを得ないだろう。これには多少の誤差もあるだろうが、この蓋然性はデータの問題ではなく、定義から導かれる論理の問題なのである。

もし30万人説を正しいとするなら、それこそ当時の日本軍が毎日公務として虐殺でもしていない限り30万人には達しないのではないか。ナチスが作ったアウシュビッツのような殺人システムがなければこの数は無理なのではないか、というのが蓋然性の問題だ。

勘違いしてはいけないのは、30万人説に蓋然性がないからといって、虐殺の事実そのものに蓋然性がないわけではないということだ。虐殺の事実そのものを否定する人はほとんどいないし、事実否定説に対しては、これもまったく蓋然性がないと考える人のほうが多いだろう。正当な手続きなしに処刑された捕虜についての報告もあるし、犯罪行為によって殺された民間人も多くいたということも語られている。

30万人いたから「大虐殺」だという論理は危うい論理なのだと思う。数がどのくらいいたかにかかわらず、不当行為によって殺されたのなら「虐殺」なのだと思う。それが大きいか小さいかなどは問題にしても仕方がないのではないか。むしろ不当性をこそ深く追求しなければならないのではないか。

30万人という数はインパクトがあるし、これだけの人数が虐殺されたのであれば、日本軍による行為の責任の重さというのも、他の具体的な指摘がなくても、これだけを根拠に追求が行えるほどのものになってしまう。追求する側にとって、30万人が虐殺されたというのはまことに都合のいいことだ。しかし、都合がいいだけに、それが覆されたときのダメージもまた計り知れない。

権力を握っている側だったら、このような誇張によるプロパガンダをしても、大衆動員ができればいいという考えも出てくるだろう。宣伝に対するナチスの考え方などはそうだったようだ。しかし、権力のない側が同じように発想するのは致命的なダメージにつながりかねない。宣伝のためなら嘘でも利用しろというのは、権力のない側にとっては最終的にはマイナスに作用するだろうと僕は思う。

虐殺者数が30万人でなければ虐殺の主張ができないということがそもそもおかしいのだと思う。不当に殺されたという事実は、数の問題ではなく、個別的な事実で十分インパクトを持つ主張になるだろう。本多勝一さんの『中国の旅』が報告したものはまさにそのようなものだったのではないのだろうか。

また、日本の側にとっても、当時の不当行為の原因がどこにあるかを真摯に反省して自覚するのは大きなプラスになることだと思う。当時の軍隊という組織の非人間性がその原因の大きな部分を占めていると思うのだが、それは、ひいては日本社会の非論理性や非科学性にも通じているのではないかと思う。そのような日本社会の欠陥を自覚するためにこそ反省をすべきではないかと思う。

30万人説というのは、そのような反省を促す力にはならない。むしろ反発を呼ぶだけだろうし、それが明らかな嘘だということが判明してしまえば、バックラッシュ現象が起こるに違いない。宮台真司氏が「左翼の嘘」というものを語るとき、それこそが昨今の右翼化とバックラッシュ現象の現実的な根拠だと語っているような気がする。それは、バックラッシュ言説の内容が正しいということを語っているのではなく、バックラッシュ言説が起こってくる現象を合理的に理解するには、その原因としての「左翼の嘘」に注目しろということなのだろうと思う。

30万人説を語ることは戦術的に非常にまずいことになるだろうと思う。そのことに対する反発で、本来は不当性が存在する南京事件に対して、その不当性さえも否定したくなるナショナリズムを日本の側に生み出しかねないのではないかと思う。これは、むしろ現在の日本の統治権力にとって有利に働くのではないかと思う。中国が、今の日本の統治権力と手を握って、自国民に対してはプロパガンダをしたいというのなら、30万人説は便利なのかもしれないが。

宮台氏も僕も、否定したいのは30万人説であり、南京事件そのものではない。むしろ、南京事件の本来の意味=本質を知るためにも、胡散臭い30万人説は否定されなければならないのではないかと考えるのである。

今議論されているのは30万人説ではないと言いたい人もいるかもしれないが、それならそれで30万人説を否定されたくらいで敏感に反応する必要はないだろう。30万人説が否定されるのが当たり前で、今は本来の問題の議論をしているのだというなら、南京事件の問題は、やがて政治家も妄言をはかなくなるだろう。しかし、いつまでも「あったか、なかったか」という議論がされているというのは、僕はこの問題がまだ決着を見ていないのだと思う。少なくとも、中国側がこの問題の健全な方向に気づかなければ30万人説は克復されたとはいえないのではないかと思う。