「言語ゲーム」の本質


ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方はとても分かりにくい。つかみ所のないものという感じがする。この難しい概念を理解するために、本質という面からこの対象に近づいたらどうだろうかと考えてみた。どのような対象が「言語ゲーム」と呼ばれ、どのような対象がそう呼ばれないかという、対象がもっている特質がつかめれば、この分かりにくい概念が理解できるのではないかと思った。

対象が単純なものではなく、複雑で難しい場合は、現象として見られるものとその本質とが違っていることが多い。だから、複雑で難しい対象を正確に把握するためには、その対象に関する本質論を考える必要があるのではないかと思う。本質論がうまく立てられるなら、それは対象の理解を深めることになり、教育や学習という面で大きな成果があげられるのではないかと思う。

このようなことを考えて、さて「言語ゲーム」の本質はなんだろうかと考えていた矢先に、参考図書として読んでいた『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均・著、ちくま新書)に次のような記述を見つけた。

「ところで、言語ゲームがいかに多様だとはいえ、それらがすべて「言語ゲーム」と言われるからには、それらすべてを貫く何か共通の本質があるはずではないか。ここで、それらすべてを「言語ゲーム」たらしめている当のものは何か、というソクラテス的な問いが立てられることになる。
 ウィトゲンシュタインは、この問いを拒否した。同じ名で呼ばれているからといって、そのすべてに当てはまり、他のものには当てはまらないような、何か一つの共通本質があるわけではないのだ。むしろ、相互に別々の点で類似しているものが集まって、一つの家族をなしているのである。彼はこのことを、比喩的に「家族的類似性」と名づけた。一つの家族は、体格、顔つき、目の色、歩き方、気質、といった別々の点で互いに似ているのであって、何か一つの点で互いに似ているのではない、ということである。だから、「ゲーム」と呼ばれるすべてのものに共有されるような本質的特長は存在しないのである。「ゲーム」だけではない。「数」の本質も、「生命」の本質も、「言語」の本質も、「科学」の本質も存在しない。さまざまな言語ゲームの中で、緩やかな家族をなしたそうした語が、実際に有効に使われている−−それだけなのである。」


言語ゲーム」の本質を求めようとしたのだが、そこには本質はないのだというのだ。本質はなく、ただ「実際に有効に使われている」という現象があるだけだと言っているようにも受け取れるこの文章の意味はどう理解したらいいのだろうか。

言語ゲーム」というのは、人間的な活動のすべてに渡って発見出来るようだ。およそ社会を形成している場所なら必ず何らかのコミュニケーションが行われている。そこでは、何らかの了解が前提とされてコミュニケーションが行われている。その前提を「ルール」という視点で捉えれば、何らかの「ルール」が存在している場はすべて「言語ゲーム」と呼ぶことができる。

つまり「言語ゲーム」というのは、そこにすべてが含まれてしまうので、区別する他の存在というものがないのだ。本質というのは現象との対比で考えられるものであるから、区別するほかのものが何もなければ、本質というものもないということになるのだろうか。

もし「言語ゲーム」の本質を、人間的な活動であると語れば、それは「言語ゲーム」と呼ぶ必要のないものになってしまう。人間的な活動でないものは「言語ゲーム」ではないことになるのだが、それは「言語ゲーム」という概念で考察する必要もないので、わざわざこの言葉を使う有効性というものがない。人間的活動を考えるときに「言語ゲーム」という視点が使われるのだが、そのときは、すべての活動がそれに含まれてしまう。そうなれば、どうしてわざわざこのような名前で呼ぶ必要があるのだろうか。

言語ゲーム」の分かりにくさは、その有効性がどこにあるかが分かりにくいところにあるのではないかと思う。本質が見つからないので、この言葉を使うことによっていったいどのような発見があるのかが分からないのだ。これは「弁証法論理」を学び始めた最初のころの状態によく似ている。

弁証法を教科書的に定義すれば、それは現実世界における対立物の統一であり、矛盾の分析をする論理だということになる。この定義で現実世界を見てみると、あらゆるところに弁証法性を見つけることができる。およそ存在するもので対立物を背負っていないものなどないのだ。存在するものはさまざまな視点で見ることができる。どこかに正反対の解釈を許すような視点が発見できる。

このような現実の性質を指して板倉さんが語ったような「どちらに転んでもシメタ」というような弁証法的なことわざが出来上がったりするのだろう。しかし、弁証法性があらゆるところに見つけられるということは、弁証法にも本質というものはないということを意味する。弁証法性は解釈の問題であって、弁証法性のないものを見つけようと思っても、解釈によってどこかに弁証法性が見つかってしまう。

つまり、弁証法に関しては、その否定を論証しようとしても出来ない。反証可能性がないという意味では「科学ではない」と言ってもいいだろう。しかし、このようにどこにでも見られるという解釈ができる概念がいったいどのような役に立つというのだろうか。現実世界に弁証法性を見つけて、ある出来事が弁証法だと確認したところで、そんなことはごく当たり前のつまらないことになってしまわないだろうか。

僕は、弁証法論理を勉強し始めた最初は、弁証法というのは当たり前のつまらないことを語っているか、あるいは頭の中にしかない空想を現実と取り違えている詭弁にしか見えなかった。形式論理が数学の論証をする見事さに比べて、なんと貧弱な論理しか提出できないのかと思ったものだ。

しかし、三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』という本を読んで、優れた仕事の中にこそ優れた弁証法を見出さなければならないのだということを知った。弁証法の定義を覚えて、それが弁証法の本質だと思って、あらゆる現象の中に弁証法を探しに行っても、弁証法の真髄というものは見えてこない。弁証法は、それを有効に利用するにふさわしい対象を見つけ、その仕事で高い成果を上げたとき、その論理の流れの中に浮かび上がってくるものとして示されるものだったようだ。

弁証法は、それを直接語っても、それが何であるかがつかめない。優れた仕事を成功させることによって「示す」ことしか出来ないのではないかと思う。僕は、本多勝一さんのルポルタージュの中に優れた弁証法を発見し、これが自分の弁証法理解のために大いに役立ったと思っている。その後も優れた文章に出会うたびにそこに見事な弁証法論理を発見することが出来た。

板倉さんは、論理の展開に行き詰まったときに、とんでもない考えかもしれないけれど、対立物の統一という矛盾が存在すると考えてみることの有効性が出てくるという。本来は矛盾は、順調に行っている・あるいは正当だと思われている存在には顕在化してこない。つまりそれを問題にする場面というのはほとんど見当たらないのだ。現実世界というのは、矛盾を必要としないときのほうがうまく回っている。

しかし、どれほど努力してもうまくいかない深刻な問題が生じたとき、そのときは、ばかげたことかもしれないが矛盾した発想をしてみると、対象の本質が見えてきて問題の解決への一歩を踏み出すことが出来る。弁証法自体に本質はないのだが、弁証法を利用することによって問題の本質が見えてくるということが起こる。板倉さんはこのように考えたので、弁証法を発想法として捉えた方がいいと思ったのだろう。

いじめが深刻な問題となっているとき、単純に矛盾なしに考えれば、悪意を持った悪い人間がいじめをすると考えることができるだろう。これが正しいものであれば、その悪意を指導して善に導くということがいじめの解決になる。このこと自体は難しいことかもしれないが、方針が決まれば何かやりようはあるだろう。しかし、この方針で深刻ないじめを解決した学校はないのではないかと思う。

いじめという深刻な問題は、矛盾なしにそれを考えては、現象的な理解にとどまり本質がつかめないのではないかと思う。板倉さんは、「いじめは正義から起こる」という逆説的な発想でこのことを考えた。いじめをする人間、特に深刻ないじめをする人間は、悪意のある悪い人間であるよりもむしろ善の意識の強い正義の人である場合が多いというのがその発想だ。この矛盾した本質がいじめの解決を難しくしていると考えたようだ。

この発想は、いじめ問題の専門家である内藤朝雄さんの考え方などとも通じているように見える。内藤さんは、いじめに関して個人の資質よりも中間集団全体主義という環境のほうをより大きな要素として考えていた。これは、その集団の存立条件を正義だと考えるなら、その正義を守ろうと強く意識する人間こそが全体主義を強めて深刻ないじめに走ると考えられるだろう。

いじめが深刻な問題となっていないときに、「いじめは正義から起こる」などといったら、とんでもない詭弁を語る人間だと思われてしまうだろう。しかし、今の深刻ないじめの解決の方向を探るには、このような弁証法的な発想が有効ではないかと思われる。この発想がいじめ問題の解決に寄与するようなら、弁証法が有効に働く具体例を見ることができるだろう。

言語ゲーム」というのも、現実をいつでもそのように解釈できるという意味では、このこと自体は「科学」ではなくありふれた事実を語る言説に過ぎないことになる。それは、現実の中に「言語ゲーム」の例をいくら探してもその真髄はつかめないだろう。それこそ、つまらない例をいくら取り上げても、「言語ゲーム」が有効に働く場面が見つからないので、そんなものがなんの役に立つのかという気分になるだろう。

言語ゲーム」も、それ自体を語ることは、弁証法がそれ自体を語ることが出来なかったのと同じように出来ないのではないかと思う。そして、弁証法が、優れた仕事の中から優れた弁証法が発見されたように、「言語ゲーム」も優れた仕事の中からそれを発見することがこのことを学ぶ一番の方法ではないかと思われる。

弁証法の場合は、ある問題に行き詰まったときに、弁証法的な発想でそれを乗り越えるという形で優れた仕事の中にそれを発見することが出来た。「言語ゲーム」もそのような形で優れた仕事の中に発見できるだろうか。「言語ゲーム」は、人間の社会的な活動の全般に渡って発見できる。であるとすれば、人間社会を扱った優れた仕事の中に「言語ゲーム」的な方法を発見できるかもしれない。

言語ゲーム」そのものの本質はつかむことが出来ない。しかし、「言語ゲーム」という発想を手がかりとして、把握の難しい対象の社会的な現象の本質をつかむことが出来るかもしれない。それが「言語ゲーム」の真髄であり、違う意味での本質ということになるのかもしれない。