「論理的」とはどういうことか


論理というものに慣れていない人は、「論理的」という意味を勘違いして使っているのではないかと思うときがしばしばある。日本の学校教育では論理についての教育をしないので、論理を知らない人のほうが大部分だと思うが、論理というのは、基本的に推論の部分を考察するのであって、結論が正しいかどうかを問うのではない。

結論が間違っていても論理的には正しいということはいくらでもありうるし、結論が正しくても論理的に間違っているということはいくらでもある。結論の正しさは論理の正しさに直結しない。だから、結論に対して賛成できなくても、その結論の導き方が、論理的ではないと決して言えないのである。

論理にとって大事なのは、ある前提を置いたときに、その前提のみから結論が導かれるかという整合性のほうであって、前提に何を置くかというのは、論理の問題ではないのである。それこそ前提に置かれる命題が党派性の強いものであれば、誰も賛成しないような結論ではあるが、その党派のものであれば賛成するというような結論が、論理的には正しいという場合がありうる。

すべては神の意志の現れだということを前提に置いている人は、どんな事態が訪れようとも、それは神が望んだことだということを論理的に導くことが出来る。そして、神が望んだことだから自分はそれを受容できるということを論理的に納得することが出来る。どんな不条理な運命があろうとも、信仰が厚い人間は、その不条理を受け止めていくことが出来るというのは、論理的な帰結として導くことが出来る。

「論理的」というのは、結論に何を言おうと関係がないのだ。関係があるのは、その結論を導いた推論に整合性があるかということだけなのだ。例えば、ある村に逃げ込んだゲリラを追っていた部隊が、誰がゲリラかを特定できないとき、一人のゲリラを逃がさないために、村人全員を処刑したとする。この処刑は、軍事的に正当性があるかどうか、つまり虐殺にあたるかどうかということを考えるとき、論理的には正反対の結論がともに正しいということがありうる。

平和な時代の感覚を持っている人は、罪もない村人が、ゲリラを特定できないために処刑されるのは不当だという感じがするだろう。しかし、戦争状態のときの軍人の論理を使えば、この処刑も正当化される論理を構築できる。

僕は軍人の経験はないが、それを想像することは出来る。軍人としての本分は、敵を殲滅することであって、敵に慈悲をかけることではない。敵が自分たちに危険をもたらすと思えば、その敵をどんな手段を使ってでも撃退するのが軍人の本質ではないかと思う。もしも、この軍人の本分よりも、ヒューマニズムの方が大事だという軍人がいて、それが軍人の普通の姿だと主張する人がいたら、それは証明してもらいたい事実だと思う。普通の軍人だったら、敵の殲滅のほうが第一であり、敵の生命を大事にするということのほうを優先するものではないだろう。

勘違いしてほしくないのは、僕がこのように軍人の行為や心情を想像したとしても、それは単に想像して自分を重ね合わせているだけであって、僕自身がそのような心情を持っているというわけではないことだ。自分が思ってもいないことであっても、そのように考える人間がいるということは、想像力を使ってつかむべきことなのである。そうでなければ、自分が感じないことは存在しないというような観念論的な妄想に支配されてしまうだろう。

軍人の本分がそのようなものであれば、一人のゲリラが紛れ込んだ村というのは、そのゲリラを特定して殲滅しなければ自分たちが危険であるということが論理的に帰結されるだろう。そして、その特定が出来ないとき、村人がゲリラを特定するだけの情報を与えなければ、そのことで村人が犠牲になっても仕方がないと考えるのが軍人の論理だろうと思う。

軍人の論理に従えば、一人のゲリラを殲滅するために100人の村人が犠牲になっても、それは虐殺ではなく、任務遂行の際に起こった事故であり止むを得ない犠牲だと考えるだろう。それを虐殺だという判断が大勢を占めるようなら、軍人の論理がまったく通用しない「言語ゲーム」が行われているのだと思う。

論理というのは推論の妥当性を問題にするものであり、どんな前提を置くかということは論理の問題ではない。だから、論理の前提に置かれる命題が、まったく自分とは違うものであった場合、論理的に正しい推論で、自分はまったく賛成できない結論が導かれることもあるということを知っておいたほうがいいだろう。このような場合は、結論だけを指して批判しても仕方がないし、結論が違うことを指して論理的ではないといっても仕方がない。

論理的におかしいという指摘は、例えば戦闘行為の過程で起きた民間人に対する殺人行為が「虐殺」に当たるかどうかを客観的に決定できるとするような推論は、まったく論理的ではないと僕は感じる。客観的ではなく、主観的に、自分の立場からそれを「虐殺」だと主張することは出来るだろう。しかし、立場を越えて客観的に「虐殺」であるという判断が出来ると考えるなら、それは論理的に見ておかしい。

客観的という言葉をどう考えているかが問題になるが、一つの考えは、人間の意志とは独立に存在する物質に属する性質を捉えたときそれは客観的と呼ばれるだろう。それは、人間の意志とは独立に存在しているので、誰が見ても同じ物を観察できると考えられるからだ。ある数値が結果として提出される測定などは「客観的」と呼ぶにふさわしいものになるだろう。

「虐殺」の場合は、このような意味での客観性はない。「虐殺」というのは、ある物質的な実体に属する性質ではないからだ。これは「行為」の問題である。つまり外見上は同じ物質的状況に見えても、その意味が違ってくることがあるという問題になる。「行為」という対象は、外見ではその内容が判断できないのである。「虐殺」のように見えても「虐殺」ではないという判断も出来る対象なのだ。だから、意志とは独立に存在する物質としての客観性は「虐殺」にはない。

それでは、まったく客観性がないかというと、社会的な意味での「客観性」を言うことは出来ると僕は思う。社会的な意味での「客観性」は、「主観性」に対立する意味での「客観性」だ。つまり、党派的な立場からの判断で導かれる結論は「主観的」であるが、党派を超えた、ほぼ誰でもそのような判断が出来るということであれば「客観的」になる、という意味での「客観性」だ。

軍人の論理で言えば、一人のゲリラを殺すために100人の村人を殺しても「虐殺」ではないと判断できる。それは、軍人としての任務を遂行しているに過ぎない。この党派性を超えて、ほとんどの人が賛成できるような「虐殺」の定義が出来るだろうか。それが出来るなら、「虐殺」という概念を「客観的」に決定できるだろうが、戦闘行為が行われている過程では、僕は無理だろうと思う。それは、軍人の立場である「殺す側の論理」と、村人の立場である「殺される側の論理」では、前提とするものが一致しないので党派を超えた結論が出せないと思われるからだ。

戦闘行為中の「虐殺」行為は客観的に決定できない。だから、戦闘行為中の「虐殺者」を数えるのは、党派的な主張にしかならない。客観的に正しい数字など出せるはずがない。だから、「南京大虐殺」で、虐殺された人の数に、戦闘行為の過程での人々が含まれているなら、僕はその数字の客観性は「蓋然性」がないと思う。どんな数字が出ようとも意味はないのだと思う。どんなに大きい数字でも、どんなに小さい数字でも、いずれも信用できる数字にはならない。党派的な、ある立場から主張する数字であって、権力のある側が主張するなら、それは単なるプロパガンダに過ぎないと思われても仕方がないだろう。

「虐殺」という言葉に意味がある、客観性がもてるということで考えるなら、それは戦闘行為の過程ではなく、戦闘行為が終わった後の行為として考えるしかないだろう。つまり、戦闘行為終了後の民間人・あるいは捕虜に対する不当な殺人を「虐殺」だと定義するのは、客観性を担保するためのものなのだ。それは、ことさら虐殺された人の数を少なく見積もるための方便ではない。

戦闘終了後であれば、軍人の論理であっても「虐殺」を認めざるを得ない定義が出来るだろうということだ。このような定義をすれば、当然のことながら30万人が虐殺されたなどということは言えなくなる。どのような方法を使えば、30万人が虐殺されたということを、上のような定義の意味での「虐殺」に対して言えるかという問題になるからだ。

しかし、30万人が殺されなかったからといって、それで「虐殺」の責任が薄まるわけではないのだ。不当に殺された人々がいるということでの責任は、人数の大きさで重くなったり軽くなったりする問題ではない。どこで読んだか忘れてしまったのだが、日本の軍人たちが南京事件を調べて、確かにそこに「虐殺」が存在したということを確かめて「まことにすまないことであった」と謝罪の言葉を書いた文章を見た記憶がある。それは、もちろん30万人というような数字ではなかったが、たとえ何人であろうとも「虐殺」があったことは確かだったということを認めて、その不当性に対して謝罪の言葉を述べていた。それこそが、党派を超えて確認できる客観的な事実なのではないだろうか。

30万人が虐殺されたとする説にはまったく「蓋然性」がないと判断する人はかなり多いのではないかと思う。「南京大虐殺はあった?なかった?」というインターネットでの調査を見ると、「なかったと世界に発信すべき」という意見が40.7%で最も多い。その次に多いのが「日本は自虐的教育をやめるべき」という意見で25.3%だ。「証拠写真はなくてもあった」とする意見は15.5%だ。

これは何を意味するのだろうか。「蓋然性」のない主張は反発を呼び、かえって反対の極に振れてしまうということを語っているのではないだろうか。僕は南京事件はあったと考えるほうが「蓋然性」が高いと思っている。しかし、反発の強さがあまりにも強ければ、すべてを否定したいという気持ちが生じるのではないだろうか。

このアンケートの信頼性をうんぬんしたい人もいるだろう。しかし、「蓋然性」のない主張が世論の支持を失わせるどころか反発さえも呼ぶというのは、論理的に考えてみてもいいことではないかと思う。少数派が、党派性に偏った主張だけをしていれば、いつまでたっても少数派であることを脱することは出来ないだろう。板倉さんは、「科学は10年にして勝つ」という言葉を語っている。これは、科学的真理は客観的真理だから、たとえ今は少数派であっても、やがて党派性を超えて賛同を得ることが出来るということを語った言葉だ。逆にいえば、客観的な真理性を持たない主張は、今流通している「言語ゲーム」的な真理に対抗することは出来ないということだ。多くの人が真理だと信じていることを覆すには、客観性のある真理を対置するしかないのである。