「差別」はすべていけないことか


僕は、「差別糾弾主義者」に対して、その「差別」の糾弾の仕方に不当性を感じていた。彼らの主張の一部に正しいものが含まれていたとしても、その糾弾の仕方では、糾弾される当の対立者にはもちろんのこと、それを眺めている第三者からも反感をもたれて支持はされないに違いないと思っていた。差別糾弾という運動が大衆的な広がりを持たなかったことから、僕の感覚は正しかったものだと思っている。

普通の感覚で言うと、「差別」というのは不当性を伴っているので、その不当性が糾弾されるということに関連して「差別」が糾弾されるというふうに受け取る。だから、その糾弾に違和感を感じて、糾弾するほうこそ不当なのではないかと思うのは、糾弾している「差別」の対象を間違えているのではないか、あるいは「差別」ではないものを「差別」にしているのではないかという感じを受けることがあるからだ。

僕は、実際に「差別」があったとしても、その糾弾の仕方にも問題があったと思っているのだが、一般的な感覚として「差別はすべていけないこと」というような流通観念にも疑問をもっている。「差別」がすべていけないというのは、「差別」という概念そのものにすでに不当性が含まれていると理解しているからだろう。だから、どこかに「差別」の現象を見つけたら、それを発見しただけで糾弾に値すると思ってしまう。そこに不当性があるかどうかという判断をしないで、「差別」だという判断で糾弾するに値すると思ってしまうのだ。

三浦つとむさんは「「差別語」の理論的解明へ」(『言語学記号学』:勁草書房に所収)という論文の中で「すべての言語は差別語」であるという主張を展開している。もし、「差別」という概念に不当性が含まれているなら、この主張は、言語を使う人間はすべて糾弾されるべき「差別者」だということになってしまう。極論としてそう主張したくなる人もいるかもしれないが、三浦さんの言うことの趣旨はそういうものではない。

三浦さんの概念では「差別」という対象に、客観的に不当性が含まれているのではないのだ。それは、意味によって不当だと判断されたり、逆に正当だと判断される場合が出てくる「行為」の問題として捉えられている。「正当」な「差別」などという言い方をすると形容矛盾だと感じる人もいるかもしれない。しかし、概念的にはそういうものがありうると僕は思う。「差別」という言葉の概念を多面的な視点で考えてみようと思う。

まずは辞書的な概念を調べてみると次のようなものになる。

  • 1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の―を明らかにする」
  • 2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって―しない」「人種―」


1の意味には価値判断的なものはない。これは、対象の間にある「差異」を認識してそれに従って行動するという客観的に判断できる対象について語っている。このような客観的に判断できる「差異」を表現するときに言葉が使われるという面を、三浦さんは言葉の本質と捉えて「すべての言語は差別語である」という主張を展開したのだと思う。

2の意味ではその概念の中に「他よりも不当に低く取り扱う」ということが入っているので、これは概念そのものの中に不当性が含まれていると考えられる。この概念が広く一般的に社会に流通すれば、人々は「差別一般」が不当なものだという判断を持つようになるだろう。だが、その判断の根拠はどこにあるのだろうか。辞書にこう書かれているからといって、それが正しい命題だとはいえない。辞書というのは、一般に社会に流通している意味を示しているだけだからだ。辞書に「神」という言葉が説明されているからといって、そこで説明されている「神」が実際に存在しているのだという根拠はどこにもない。

「差別」という言葉に不当性の概念が含まれるというのは、「言語ゲーム」的な真理ではないかと思う。そしてこの真理は、間違った差別糾弾主義につながる危うい真理ではないかと思う。「差別」の不当性は、その具体的な「差別」の実態に則して判断しなければならないのに、そこに「差別」に値する現象を見つけただけで糾弾にまで走ってしまうという間違いを犯すようになるだろう。

いわゆる「言葉狩り」と呼ばれるような間違った糾弾は、そのような不当性の判断を間違えたことから発生するように思う。ある言葉を使ったというだけで、「差別」という不当な行為をしたといわれるのは、言葉の意味を文脈から切り離して、意味を取り違えている間違いであるのに、「差別」という言葉に不当性が含まれているという概念を持っていると、ありもしない不当性を自分の頭の中に作り出して、それを現実の対象に押し付けるという観念論的妄想に陥る。

「差別」という言葉の概念は、対象に存在する客観的な物質的属性と捉えるのではなく、人間の行為に伴う意味的な概念として捉えるのが現実を正しく認識する方向だろう。意味的な概念は、外見が同じように見えても、内容(=意味)が違うという判断がありうる。固定的に考えてはいけないのだ。

辞書的な意味についても、「区別すること」「不当に低く取り扱うこと」と表現されているように、「する」「取り扱う」という動詞的表現が使われている。これは、「差別」という概念が行為として捉えられていることを意味していると思う。

不当性のない現象は「差別」ではなくて「区別」ではないかと考える人もいるかもしれない。しかし、「区別」というのは、行為を伴わない、対象の静的な属性を捉えた実体的な概念だ。「区別」は対象を認識したこと自体で成立する。その後にどうするかということについては何も語られない。対象の差異を認識して、さてそれをどう扱うかという行為につながる部分で「差別」という概念が生じる。

対象の差異に従って行為するということを「差別」の本質的概念として捉えると、正当な「差別」という対象を見つけることが出来る。例えば、乗り物の運賃において子ども料金はたいてい大人の料金の半分だ。これは明らかな「差別」であるが、そこには不当性はない。むしろ正当なものとして受け取っている人がほとんどではないだろうか。

これは「区別」だと考えたい人もいるかもしれないが、料金を半分にして取り扱うという行為が伴う点で「差別」だと考えたほうが正しいと僕は思う。大人と子どもをどこかの年齢で区切るのは区別と呼んでもいいだろう。だが、区別と呼べるのはどこかで区切るというところまでだ。区切った対象に対して、扱いを変えるのは「差別」であり、その扱いがいろいろな観点で(社会的・生物学的などいろいろ)正当な扱いだと考えられるなら、正当な「差別」がそこに存在すると判断できる。

「他社とは提供するサービスで差別化をはかる」という例文が辞書には載っているが、ここで語られている「差別」は、正当な「差別」のことである。つまり、消費者にとって便利とか得だとか思えるような差異を作り上げることを「差別化」と呼んでいるのであって、これを不当性のある差異を作ることだと理解したら、いったい何を言っているのか理解できなくなるだろう。

「差別待遇」という言葉も、それ自体に不当性はないのではないか。例えば客商売をしている人間が、自分の客と親しい友を「差別待遇」するのは普通ではないかと思う。このとき、商売を大事にする人間は、客のほうを大事にするという「差別」をするだろう。客よりも友のほうを大事にするような店だったら、客のほうは不当な「差別」をされたと感じて、その店には行かなくなるに違いない。客にとっては、身内よりも客を大事に扱うという「差別」こそが正当な「差別」になるだろう。

「すべての差別はいけないことだ」と考えるのは、「差別」という言葉に不当性を含んでいる限りで論理的には正しいと思う。その言明は、主張する人間が善人であることを示すだろう。しかし、この主張は善人ではあるけれども、物事を深く考えないということに通じるのではないかと思う。地獄への道を敷き詰める善意というものにつながるのではないだろうか。

三浦さんが指摘したように、言語というのは、現実に存在するものの差異を表現するので、見つけようと思えばどこにでも「差別」を見つけることができる。現実に存在するものが同一のものでなく、違う存在であれば、差異が存在するのが当然で、その差異に従って行動すれば「差別」をしたことになる。人間の行為は「差別」をしないでは何も出来ないものになる。「差別」というのは、そのようにどこにでも見られるものなのだ。

「差別」という言葉に不当性を含めて考える人は、四六時中他人を糾弾せずにはいられないだろう。そして、自分の行動はといえば、何かをするたびにそこに「差別」が生じてしまうので、他人を糾弾する以外には何も出来なくなるのではないか。

どこかで「理由があれば差別をしてもいいのか」というような言葉を見かけたことがあった。これは、問いを考え直す必要があるだろうと思う。「差別」することの理由は見つけようと思えば必ず見つかる。だから、理由があるからそれをしていいということではない。その理由が見つかれば、その「差別」が正当なものであるのか不当なものであるのかが判断できると考えなければならない。

正当性が判断できる理由があるのなら、「差別をしてもいい」という消極的な言い方ではなく、「差別をするべき」なのである。「差別」をするほうが正しいのだ。「差別」という問題は、すべてを十派一からげにして考えて正しい結論が出せるような単純な問題ではない。弁証法的に、多様な視点を捉えなければ間違える問題だろう。少なくとも、「すべての差別は許されない」というような単純な捉え方では「差別」の問題は解決しないだろう。

この構造は、現在のいじめの問題にもよく似ている。「すべてのいじめは許されない」と道徳的に糾弾するだけでは、いじめという複雑な問題は単純な解決は出来ないだろう。いじめの正当性を議論するのは誤解を招くところがあるが、それが社会の安定に寄与していた部分を深く分析しなければ、不当ないじめの問題も解決は難しいのではないかと思う。