数値データを語ることについて


以前のエントリーで、僕は本多勝一さんの次のような文章を引用した。

「末子の弟は、まだ満なら一歳あまりの赤ん坊だった。空腹のあまり、母乳を求めて大声で泣いた。ろくな食物がないから、母乳は出ない。運悪く10人ほどの日本兵の隊列が土手の道を通りかかった。気づかれた。「鬼子」たち2〜3人がアシ原の中を捜しに来た。赤ん坊を抱いた母を見つけると、引きずり出してその場で強姦しようとした。母は末子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしり取るとその面前で地面に力いっぱいにたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。半狂乱になった母親が、我が子を地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母を後ろから撃った。二発撃った。一発は腰から腹へ、一発は肩からのどに貫通した。鮮血をほとばしらせて、母は死んだ。
「鬼子」たちは同僚の隊列を追って土手の上を去った。」


この報告は、南京陥落直後のことを語ったものとして報告されていた。その時期を含めて、ここで語られていることが正確な記憶によるものだということを前提にすれば、ここで殺された母子は明らかに「虐殺」に相当する例になる。赤ん坊には死に相当する正当な理由は何もない。母親に対してもそうである。それを、いわば自分たちの思い通りにいかなかったことの腹いせに殺したようなこの行為は「虐殺」と呼んでもいいだろう。

上の報告に対しては、「虐殺」であるということは「蓋然性」の問題ではなく事実の問題として確認できる。ここで「蓋然性」が問題になるのは、語られたことが本当にあったという可能性がどれくらいあるかということの中にある。被害者本人の体験なのだから事実に違いないというのは情緒的な反応である。意図的な嘘ではないにしても、大きなショックのために記憶違いを起こす可能性はいくらでも存在する。直接見て確かめることは出来ないので、直接的な事実性を証明することは出来ない。間接的に「蓋然性」を語ることしか出来ないのだ。

本多さんがこのような聞き書きの信憑性を測る基準としているのは、語られたことの全体像がどれくらい現実的であるかを判断することだ。つまり、全体の話としてつじつまが合うかどうかということを問題にする。

具体的な事実が現実的に整合的かどうかを見て、記憶違いや後からの想像で付け加えられた部分がどの程度かを判断することになる。人間の記憶というのは、コンピュータのメモリーと違ってそのままデジタル情報で記憶されるわけではないから、間違いや想像による改変があるのが当然だ。問題は、それが本質的なものに関する間違いなのか末梢的なものに関する間違いなのかということだ。末梢的な事柄に属するものなら、その記憶はかなり信憑性が高いと判断してもいいだろう。

本多さんのこのような考察は、本多さんがルポの技術を語った文章に書かれていた。本多さんの基本的な技術にそういうものが含まれているということが、僕が本多さんに抱く信頼感のもとでもある。個々の事実の「蓋然性」に関しては、僕は本多さんの技術を信用してその「蓋然性」を高いものと受け取っている。このように語る被害者の体験は、確かにあったのだろうという「蓋然性」の高さは、本多さんに対する信頼感から生まれる「蓋然性」の高さだ。

もしも本多さんが、自分が「蓋然性」を判断した事実をすべてルポに書いていれば、本多さんに対する信頼感だけではなく、事実からの論理の展開で「蓋然性」の高さを、本多さんと同じように体験することが出来るだろう。しかし、そこまでの内容に関心を抱く人間があまり多くなければ、肝心なところをまとめて文章にするという、読ませる技術も考えなければならない。そこまで細かく考えるのは、読み手のリテラシーにかかわることだと考えたほうがいいだろう。

さて数値データのことにかかわって考えれば、上の報告からは2名が虐殺されたということが伺える。この2という数値は、上の事実の信憑性の高さに従って同じ程度の「蓋然性」を持っているといえる。

この体験を語った人は、他にも家族の中で、父と姉が日本兵に見つかって正当な理由なく(つまり犯罪等の理由などで処刑されたというのではなく)殺されたことを報告している。これも虐殺として数えられるから、この一家の4人が日本兵に虐殺されたと数えることが出来るだろう。

この一家にはあと4人の兄弟姉妹が残されたらしい。この4人は、日本兵には見つからなかったのだが、日本の傀儡として働いていた「維持会」と呼ばれる中国人の組織が見つけて、売り物になる11歳の姉を売り飛ばして、3人の弟たちはこじきになったということが語られている。だから、この4人に対しては、日本軍の虐殺の対象にはならなかったということが分かる。

ここでの虐殺数4人というのは、語られた事実に信憑性が高いものであれば「蓋然性」の高い数値として受け取ることが出来る。このように確認された数値の積み重ねとして30万人というものが提出されているのであれば、個々の事実の「蓋然性」の高さに数値データの「蓋然性」の高さも依存して高いものになる。これは、かなりたいへんな作業ではあるだろうが、もっとも「客観性」を高める方法としては、これ以上の方法はないのではないだろうか。このように確かめられた30万人なら、反対派からも文句の出ないものとなるだろう。

しかし現実にはこれは不可能に近いのではないかと思われる。上の報告の場合は、たまたま生き残っていた人が語ることが出来たから事実の「蓋然性」を考えることが出来たが、一人も生き残らなかったような虐殺のケースでは、それを語る人がいないのでなかったことにされてしまう可能性もあるだろう。

また、上の場合のように個別具体的に語ることが出来る事例はかなり「蓋然性」の高さのある報告になるが、たとえ体験したことでもそれを具体的に語ることが難しいものもある。以前のエントリーでやはり紹介した、10人ずつが川沿いまで走らされて射殺されたという事例では、約2000人が倉庫に詰め込まれて、そのすべてが虐殺されたというような報告に読めるように書かれていた。

しかし事実としての「蓋然性」を感じるのは、10人が走らされて射殺されたということに関してまでだ。これは体験として語られていて、しかも10人程度ならその数を間違えて数えることもないだろうと考えられる。この体験に関しては信憑性は高いのではないかと、本多さんへの信頼感からそれは感じる。

しかし、倉庫に詰め込まれていた人間が2000人いたということの信憑性は、本多さんの文章だけからは分からない。報告を聞いた人間がそのように語ったと受け取ったほうがいいだろう。日本軍が捕虜の数を正確に記録しておくような習慣でもあって、記録が残っているのならば信憑性も高まるだろうが、そのようなものはないのではないだろうか。だから、2000人というのは誤差を含んだ数字になると思うのだが、その誤差がどの程度に計算されるのかということが語られていないと、この数値データに関しては「蓋然性」は低いと判断せざるを得ない。2000人という人数は、数えられる人数ではないからだ。部分的に数えて合計でもしない限り把握は出来ない。

いっぺんに大量の人間が虐殺されたという報告があるものでは、その数値データはどのように数えられたのかということが語られていなければ信憑性を判断することが出来ない。信憑性が判断できない数値データを「蓋然性」が高いなどということは、数学系には出来ない論理展開だ。

信憑性の高い数値データは、それを測定する・数えるという行為に信憑性がなければならないから、部分的には小さな数字を確認するという手順を繰り返して、その数値の積み重ねで大きな数値に達するということがなければならない。いきなり大きな数値を提出されてそれを信じろといわれても、それは数学系には出来ないことなのだ。

上のような、明らかに虐殺があったと確認できる具体的な事実を語る場合は、虐殺であることの「蓋然性」は高いと判断できるが、その数値データの信憑性については疑念を感じるものも出てくる。だから、30万という数値の「蓋然性」の高さを問題にするには、個々の疑念に対して整合的に応えるだけの論理を構築する必要があるだろう。そうでなければ、数値データの主張等はやめたほうがいい。そんな細かいことまで分かるわけがない、と考えるなら数値データの主張は、主張するだけ論理的には不利になるのである。

直接的な虐殺の事例から導き出した数値ではなく、間接的なもの・例えば埋葬数などから算出された数値は、埋葬された人間のどれくらいが、南京事件において虐殺された人数かということの「蓋然性」が語られなければならない。中国側の直接の主張というのは探しても見つからなかったのだが、他の資料を見てみると、中国の主張の根拠の大きなものを占めるのはこの埋葬数らしい。

膨大な埋葬数のほとんどが虐殺された人々だという解釈で30万人という数値を算出しているようだ。これは、そのときに大量に死者が出る理由というのが、虐殺以外の原因が考えられないという論理的前提があれば、この解釈でも「蓋然性」はあるだろう。

この埋葬者が戦闘で死んだ人間ではないということであれば虐殺されたという可能性は高い。そうであれば、埋葬者が死んだ時期というのが問題になる。戦闘行為が終わった後に死んだということが確認されているのであれば、虐殺されたと考える理由も整合性を持つ。しかし、戦闘行為中に死んだ人も含まれるのであれば、誰が虐殺された人かということを判断する基準はどうするのかということが「蓋然性」の高さにかかわってくる。

このあたりのことはまだ充分な資料が見つからないので疑念を提出することにとどめるが、「埋葬者=虐殺された人々」という等式が、少ない誤差の基で成り立つかどうかという疑念はぬぐえないと思う。また、埋葬者の数そのものにも疑念が提出されているそうだ。それは、「崇善堂埋葬記録について」というページの情報によると、それまでの4ヶ月で最高でも2500体程度だった埋葬者の記録が、ある月だけ10万体以上になっていることに整合的な説明がつけられないということの疑念だ。つじつまが合わないものというのは「蓋然性」があるとは考えられない。なぜこれだけ急激に増えているかは、何らかの理由がなければ疑念はぬぐえないだろう。

数値データというのは客観的なものである。だからそれを提出するということは、情緒的な感情だけで処理できるものではない。それこそ重箱の隅をつついても不備がないくらいの論理が必要だ。数学系の人間だったらそのように考えるのが普通だ。

どう考えても、数値データの争いになれば、30万人という数値を提出することは不利だと僕は思うのだが、どうしてこの数字に「蓋然性」があると考えるのだろうか。30万人という数値を出さなければ南京事件の事実はかなり「蓋然性」の高さを主張できるだろう。しかし、30万人などという荒唐無稽な数を主張すれば、正当な面を持っている他の主張までもが嘘のように受け取られてしまう。それがバックラッシュという現象なのだと括弧つきの「左翼」の側は自覚したほうがいいのではないだろうか。