石原慎太郎氏の父性・指導者性


東京都知事戦で石原慎太郎氏が圧勝してから、その結果を整合的に理解したいと思っているのだが、なかなかすっきりするような解釈が見つからない。浅野史郎氏に魅力が足りなかったといえばそれまでなのだが、僕にはそれ以上に石原氏に魅力がないように感じられたので、280万という圧倒的な人々が石原氏を支持したということの説得的な説明が見つからなかった。

共産党推薦候補の吉田万三氏が、反石原票を分散させたという批判もあるようだが、あの程度の票を持っていかれただけで勝てないようではやはり支持そのものが低かったのだと解釈したほうがいいだろう。もし反石原票が多いものだったら、浅野氏に魅力が足りなければ、それは吉田氏に流れるはずだ。反石原票が、浅野氏に魅力が足りないからといって石原氏に入るはずはない。

選挙の結果を整合的に理解するには、やはり石原氏が圧倒的に支持されたと考えるしかない。石原氏には、それだけの魅力があったのである。少なくとも石原氏に魅力を感じた人が相当の数に上ったと理解しなければならない。たとえ個人的には石原氏に不満があっても、石原氏は大衆動員で成功したのだと理解するところから整合的な解釈が導かれるのではないかと思う。

この石原氏の魅力というのを理解するのは僕には難しい。個人的にはあまり魅力を感じないからだ。つまり実感として、高く評価できる部分が見えてこないのだ。政治家としての資質には大いなる疑問を僕は抱いている。日の丸・君が代の押し付けにしても、無理を押し通そうとする姿勢は、あれだけの人気があるからまだ持っているが、人気がなくなれば失脚の原因ともなるものだろう。

都財政を私物化して使うその姿勢は、公の人間としての感覚に乏しいのではないかと感じさせる。本当に都民のために税金が使えるということを信じられるのだろうかという疑問を抱かせる。オリンピックの誘致ということに関しても、経済的な収支関係をよく計算した上での発言かどうかも気になるところだ。長野オリンピックでの大きな借金はまだ長野県政を苦しめている。東京がそうならないという保証はどこにもない。東京のような巨大な自治体が財政破綻をしたら、日本はそこから立ち直るのにたいへんな犠牲を払わなければならなくなるだろう。

僕は石原氏に対しては、魅力よりも欠点のほうを強く感じてしまう。だから、どこが支持されているのかということが実感としてよく分からない。それを考えるヒントがないかをいろいろ探していたのだが、それはなかなか見つからなかった。だが、このあたりにあるのではないかというものが見つかってきた。一つは、小室直樹氏の著書にあった「父性」という言葉だ。

石原氏はスパルタ教育を主張する人間で、いわゆる亭主関白の権化のような人物だ。これは、本来の「父性」からは遠いものだと僕は感じるが、日本的な父のイメージを典型的に象徴している人物として、多くの人からは「父性」を感じる人間として見られているのではないだろうか。

昔のマル激の映像を見ていたら、神保哲生氏が石原氏のエピソードを紹介していた。それは、朝食に関するもので、石原氏は朝体重計に乗って、その日の体調を確かめた上で朝食に何を食べるのかを決定するらしい。それは、パンや麺類など3種類ほどあるらしいのだが、その日の気分で決めるので事前には分からない。だから奥さんは、毎日3種類用意して、石原氏から要求があったときにすぐ出せるようにしているようだ。

たいへんな亭主関白ぶりで、僕などはこんなものは今の時代では単なるわがままではないかとも見えるのだが、そのエピソードを紹介した石原氏の息子は、そのことを嬉々として語っていたそうだ。つまり自慢話として語られていたようだ。これを、自慢話として語り、自慢話として聞くようなメンタリティが、石原氏に「父性」を感じるものなのではないかと思う。神保氏はあまりよく感じていなかったようだが、僕も何ら自慢には感じなかったので石原氏に対する評価が低いのだろうと思う。

石原氏を支持した人の中には、このような石原氏の姿に「父性」を見る人が多かったのではないだろうか。石原氏の支持が多かったということは、日本人のメンタリティの中に、まだそのようなものが残っていると考えたほうがいいのではないかと思う。強さの象徴としての父が家族という「家」を引っ張っていくというのが、日本的な「父性」のイメージなのではないだろうか。

モラルの崩壊が気になる人たちは、石原氏のこの強さが「父性」のイメージにつながり、石原氏が社会的な秩序の乱れを解決してくれるようなカリスマに見えてくるのではないだろうか。僕は、実際にはそれは期待できないと思うのだが、多くの人が期待したくなるようなカリスマ性は石原氏にあるのを感じる。残念ながら浅野氏にはそのようなカリスマ性は感じなかった。

この父性というものは、僕はあまり高い価値を置いていなかったので気づきにくかったともいえるのだが、小室氏の指摘をヒントに、そのようなものが石原氏の支持の基盤にあるのではないかと感じた。そして、もう一つ僕があまり感じていなかった石原氏の指導者性についても、「連鎖した?銃撃事件」というブログ・エントリーの中にそれを高く評価するヒントを見つけた。

ここで論じられているものの中心的な話題ではないのだが、ここには次のような文章がある。

「我が国でも外国人による凶悪犯罪が激増し、警察白書によるとその検挙数はこの10年間で1・7倍に増え、検挙者数は1・8倍に増えているという。3選された石原東京都知事は、「安心・安全に住みたいという都民の要望が強かった」と記者会見で発言した。」


治安の問題というのは、現在かなりの高い関心をもたれているものだ。特に、学校などでは子どもの安全というものが緊急の課題としていつも議論されている。今年になってから、僕が勤める中学校でもいくつかの監視カメラが設置された。教育予算というのは毎年カットされて、毎日の教育実践はお金のない中で工夫していかなければならないのだが、監視カメラの設置など安全にかかわる部分はすぐに予算が付くような状況になっている。

石原氏が語る、治安面での指導者性というのはかなり高い評価を得て、都知事選での圧倒的な支持に結びついているのではないだろうか。治安という、不安に関係する部分では、小泉さんの人気に結びついたような「不安のポピュリズム」という解釈が石原氏の場合にも当てはまってくるのではないだろうか。

父性のイメージの強さと、それからくる不安克服のための指導者性においては、石原氏は他の候補を圧倒していたと僕は感じる。浅野史郎氏には、僕はその政治家としての頭のよさを感じていたが、年寄りの僕の父などにはかえって頭のよさが冷たさに感じられて親しみをもてなかったらしい。むしろ庶民的に見える吉田氏のほうに父は親しみを感じていたようだ。

石原氏を支持した280万の都民は、石原氏にだまされてトリックに引っかかっただけでは決してないと思う。石原氏にそれだけの魅力があったと判断したということを整合的に理解しなければならないのではないかと思う。その判断が間違いだという批判もあるだろうが、ある意味で正しい判断をしていたとも言えるという理解が必要ではないかと思う。280万の人々がみな愚かな判断をしていたというような捉え方は解釈として間違いだろう。

反石原陣営がどのような解釈をしているかはすべて見たわけではないが、自分たちに足りない魅力を石原氏がもっていたということは強く自覚していなければならないのではないかと思う。石原氏の間違いを分からなかったことが、敗因の一番にくるようでは判断を間違えるのではないかと思う。あるいは、自分たちの正しさを理解しなかったことが敗因だと考えるのも一面的過ぎるのではないかと思う。

民主主義における大衆動員というのは、必ずしも複雑な現象を正しく判断して大衆が動くものではない。民主主義には大きな欠陥があるものであり、特にそれは大衆動員という現象に現れる。石原氏は、大衆にわかりやすい魅力をアピールし、その魅力において他の候補をはるかに凌駕した。その結果として選挙の圧勝があったと解釈するのが、現実の解釈としては最も整合性があるのではないかと思う。

僕は、現実の複雑さを複雑なままで理解しようとしたので、かえって石原氏の持っている単純さの魅力というものが見えなかった。そのような魅力があっても、複雑な現実の問題の解決にはならないではないかということのほうが気になって、石原氏を支持する気になれなかったのだ。しかし、複雑な現実を複雑なまま、分からないものをわからないという気分を抱えたままで受け入れるのはかなり難しいのだろうと思う。それよりも、すっきりと理解して気分が晴れるようなものがほしいと考える人のほうが多いのではないかと思う。そうであれば、その要求に応えたほうが大衆動員的には成功する。石原氏の選挙の圧勝にはそのような背景があったと理解したほうがいいのではないかと思う。

反石原陣営の難しさは、同じ土俵で、父性と「不安のポピュリズム」で勝負しようとしても、それは圧倒的に石原氏のほうが強いから勝てないということだ。大衆動員にとって強い有効性を持つこの要素に対して、石原氏が弱い部分で、反石原陣営がアピールしていけるかどうか。反石原陣営のほうが、政治的には正しいにもかかわらず、大衆動員では負けるとしたら、これは民主主義の本質的な欠陥であるといっていいだろう。果たしてこの欠陥を克服する方向は見出せるのだろうか。それとも、日本社会は、ポピュリズム政治の果てに没落していくのだろうか。

適材適所が実現するようなメカニズムがあれば、このようなことの克服も出来るのではないかと思うが、今の日本社会では、適材適所ということの実現が最も難しくなっているような気がする。ソビエトという社会主義国家の末期とよく似ているのではないだろうか。日本は、最も成功した社会主義国家だといわれてきたが、社会主義国家はやはり没落せずにはいられないのだろうか。適材適所を実現するための教育の問題というのは、現代日本で最も緊急な課題ではないかと思う。