教育におけるエリート主義と平等主義


小室直樹氏の戦後民主主義教育への批判の中心にあるのは、その平等主義だった。平等ということは、民主主義においては重要な考えであるには違いないが、それが「主義」になってしまうと、条件を考慮することなく「平等がいい」という前提で考えが進められてしまう。しかし、「人を見て法を説け」ということわざにあるように、教育においてはむしろ「差別化」ということのほうが重要なときもある。「差別化」が正しいときに、「平等主義」を持ち込めば、そこには何らかの欠陥が露呈するのではないかと思う。

平等主義が生まれてくる背景には、「差別はすべて悪い」というような発想もあるのではないだろうか。「差別」というものが最初から否定的に扱われていれば、すべてが平等化される「平等主義」にならざるを得ないのではないかと思う。果たしてそれは正しいのだろうか。もし、「差別化」こそが正しい場合があるという主張が、党派性を持った主張ではなく、客観的に論理的に帰結されるならば、小室氏の指摘と批判も、単に極右の立場からの批判ではなく客観性を持った批判として捉えることが出来るのではないだろうか。

平等主義に対する批判は、小室氏の弟子を自認する宮台真司氏もよく語っていることだ。今週配信されたマル激でも、エリート主義の必要性との関連で平等主義批判を展開していた。宮台氏は、社会をリードしていく存在としてのエリートの必要性を主張している。そのエリートの養成には、誰もが同じことを学ぶという大衆教育では応えきれないというのだ。大衆教育のトップに立つだけでは、自覚のないエリートが生まれてしまうので、社会をリードするエリートとしてふさわしい資質が身につかないという。

社会にとってエリートが必要ないというのは、かつての中国の文化大革命的な発想ではないかと思う。大衆がそれぞれの分野で力を発揮すれば、エリートとしての専門性がなくても社会は回っていくという発想が文化大革命の考えではないかと思う。三浦さんの本にもあったが、500ページの書物を作るときに、大衆が平等にそれを分担すれば、例えば一人が2ページずつ分担すれば、250人の大衆がいれば本が出来るということになる。

これは、計算上では確かにそのとおりだろうが、その本が果たして読むに値するほどの水準にあるかは疑問符がつく。書物というのは、全体としてまとまった、完成した作品である。だからそれの完成度を高めるためには、全体を把握している指導者に当たる人間がいなければならない。誰も全体像を知らずに、部分的にしか理解していなければ、作品の完成度は低いものになり、書物としての水準は低いものにならざるを得ないだろう。

三浦さんは、大衆のエネルギーに信頼を置きながらも指導者の必要性を「指導者の理論」ということで一連の主張にまとめている。ある意味では、平等主義に収斂するのではなく、状況によってはエリート主義の必要性も主張していると解釈できるだろう。平等主義もエリート主義も、双方の欠点を補って協力し合うシステムの構築というものが必要だろう。それを考えたのが三浦さんの「指導者の理論」ではないかと思う。

教育におけるエリート主義というと、何か特権階級の養成のように感じてしまうので拒否反応が起きるのかと思うが、これを指導者の養成というふうに受け止めれば、社会にとっての必要性は客観性を持つのではないだろうか。特権の維持のために、特権を持つ階層が党派的に主張するのではなく、社会がうまく回るために指導者が必要だという認識をもてば、指導者にふさわしい高い能力を養成する必要も論理的に導かれるのではないだろうか。

軍隊での指導者を養成する士官学校を描いた映画がアメリカにはいくつかある。士官というのは、戦争における指導者であるから、生きるか死ぬかという最も深刻な問題に直面することになる。この問題に対処したときに、優れた能力を持たない士官では兵隊に無駄な活動をさせてしまうかもしれない。たいていの映画では士官を、優れた体力と知力、そして決断力などの、人間的にも高い能力の持ち主として描いている。

現実が優れた能力を持った指導者を必要としているところでは、意識するとしないとにかかわらず、優れた指導者が生まれるシステムが出来上がってくる。しかし、現実からの必要性が薄く、平等主義が蔓延しているようなところでは、高い能力を持った指導者的な人間はかえって和を乱すような存在として嫌われる可能性もある。平等主義のもとでは、高い能力であっても、差異を感じさせるような存在は平等主義を脅かすからだ。

平等主義の弊害については、マル激で面白い指摘がされていた。それは、少子化問題との関連で語られたものだが、育休などで長期に休んだ人の評価の問題だった。その人の固有の能力についていえばちょっと休んだからといってそれが落ちるとは考えられないものもある。常に新しい情報をもたなければならない能力なら、休んでいることが弱点になるだろうが、衰えない能力というのもあるだろうと思う。

しかし、企業の評価などでは、休んでいると評価が落ちるという。これは合理的ではないのだが、それがされているのは「組合が悪い」という指摘があった。組合的発想として、働いていないやつよりも働いている人間のほうが評価が低いというのは我慢が出来ないというものがあるらしい。これは、働いているという現象においては、働いていさえすれば評価は同じという悪しき平等主義によるものではないかと思う。

このような悪しき平等主義は、育休をとることをためらわせ、その結果として少子化につながるという。また、そのような評価しか出来ない企業からは、優れた能力を持った人間は逃げてしまい、結果的に企業の競争力をしぼませてしまうだろうと語っていた。

これは、かつては平等主義でも社会がうまく回っていたのだろう。かつての高度経済成長の時代であれば、働く目的も方法も確定していて、一生懸命に時間さえかけて働いていれば結果が出せたという時代だったに違いない。そのような時代であれば、同じ仕事をして同じ結果を出すという平等主義が成長にもつながっただろうと思う。しかし、今は時代が大きく変わってしまった。平等主義からの転換が必要な時代になったと理解しなければならないのではないかと思う。

平等主義的な発想もある条件の下では正しくなるが、違う条件の下では間違いになるということの判断が必要なのではないかと思う。遠山啓先生は、かつて学校には3種類の違うものがあったほうがいいと主張していた。一つは自動車教習所のようなもので、最低限ここまでの知識と技能の習得は保証するけれど、最低水準以上のものは教えないというところだ。それ以上のものが欲しいときは別の教育機関へ行くというものだ。

もう一つは、映画館や劇場のような学校で、それが面白いから学びに行くというようなところだ。ここは、個人の関心や興味に従って教育内容を自分で選ぶというような学校だ。ここは、最低水準の保証というものはないが、自らの動機の高さに従って学習することでむしろ高い水準の知識や技能が習得できる可能性を持つ。

最後の一つは、師弟関係にあるような人間が集まる学校だ。日本でいえば私塾のような形で展開されていたものがそれに当たるだろうか。ここでは、学習に対するモチベーションの高さは最高のものになるだろう。師として尊敬する人間から直接教えをもらうのであるから、単なる知識や技能だけではなく、志の高さや方法論なども身につけることが出来る。おそらくこのような教育が、本当の意味でのエリート教育に結びついていくようなものになるのではないかと思う。明治維新のころの国家の指導的位置にいた優れたエリートたちは、ほとんどすべて私塾で教育を受けた人間たちばかりだったのではないかと思う。

エリート主義と平等主義という観点から言えば、自動車教習所のような学校は大衆教育を担う平等主義の学校になるのではないかと思う。師弟関係が成立するような、優れた師を見出せるような学校がエリート教育を担うようになるのではないかと思う。そして、エリートをリスペクト出来るような文化的水準を高める教育は、映画館や劇場のようなエンタテインメントを中心としたものになるのではないだろうか。ここにはあまり学校という形態はふさわしくないかもしれない。

自動車教習所というのは、教えることはみんな同じことだが、最低保証をするだけであって、それ以上の事を教えてはいけないということではない。それ以上のことを学びたいときは他の教育機関を見つければいいし、場合によっては特別カリキュラムを設定してもいいだろう。平等主義が正しいのは、あくまでも最低保証の水準の内容においてであって、その平等の内容を固定すれば、悪しき平等主義になってしまうだろう。日本の公教育は、学習指導要領に縛られている悪しき平等主義になっているのではないかと思う。これを、最低保証を与えるだけにすれば教育は変わるのではないかと思う。

遠山先生は、筆算という計算技能の最低水準をクリアするために「水道方式」という教育体系を発明した。これに従って教育を行えば、特別な状況にない限り、加減乗除の筆算においては誰もが一定の水準に到達することが出来る。平等を保障する教育であり、このような方法がある限りで、平等主義教育は正しくなる。

数学教育は、やがて誰もが最低水準に到達するという内容を持たなくなる。平等主義が内容においては成立しなくなる。そうすると、平等主義は、何を教えたかという結果平等主義になってしまう。教科書を一応説明するということが目的になり、その理解を図るということは不可能なこととして脇に追いやられる。最低保証が出来ないような内容は、大衆教育からは省いたほうがいいのではないかと僕は思う。

誰もが同じ事をしなければならないという平等主義は、結果的には水準の低いところで最低保証するということでしか正しくはならない。学力低下なども、平等主義を前提とすれば当然の帰結なのではないかとも感じられる。仕事においても、誰もが同じ事をするという平等主義で考えれば、仕事の質は低いところで落ち着くしかなくなるだろう。誰もが同じことではなく、適材を適所に配置して、その能力を最大限に発揮する「差別化」をすることによって優れた仕事の協力が実現する。

平等主義は、かつてはうまく機能していた面もあっただろうが、今はその弊害が目立ってきているのではないかと思う。内容的な平等主義の実現が出来ずに破綻したのは、かつての都立高校の教育ではないかと思う。それに変革を与え、ある程度の成功をしたのは単位制高校という発想だったのではないだろうか。これは宮台氏も高く評価していた。

単位制高校は、生徒自らがカリキュラムを選ぶという、平等主義の弊害を修正するものだった。「差別化」を生徒自らが自分に課するのであって、この「差別」は不当なものにならない。むしろ、自分に高いモチベーションを与えると思って選んだ科目がそうでなかったら、その選び方を失敗したということからも学ぶことが出来る。

この単位制高校の改革は石原都政の下で行われたものであるということも深く考えたいものの一つだ。悪しき平等主義のもとにある戦後民主主義教育の下では、このような「差別化」の教育改革は行えなかったのではないかとも感じるからだ。平等主義の弊害については、もうしばらくいろいろと考えてみようと思う。