カラスが黒いことを科学的に証明できるか


schneewittchen さんという方から、「立場によって「真理」は違うか」というエントリーのコメントをもらった。そこに紹介されていたページの掲示板に、表題にあるように、カラスが黒いことを科学的に証明するということをテーマにしたものがあった。

ここで展開されている議論そのものに言及するのではないのだが、このテーマは、直感的に何か引っかかるものがあった。それは、「カラスが黒い」というような主張は、科学的に証明するという対象としてはなじまないのではないかということが頭に浮かんだからだ。

「カラスが黒い」という命題自体の判断はさておいて、これを証明するということを通じて「科学」というものを改めて深く考えるきっかけのようなものが得られるのではないかという思いも浮かんできた。結論から先に言ってしまえば、個別的な事実を語る命題は科学として成立するものにはならないということを僕は考えている。

「カラスが黒い」という命題が、もしも目の前にいる実際のカラスを見て述べた判断であるとしたら、それは科学でもなんでもない。目に見えた事実を語った言葉として受け取ればいいだけのものになる。この言葉を発した人には、目の前の物体が「カラス」に見え、そしてその属性が「黒い」というものに見えたということを意味している。だからこそ肯定判断として言語で語られているわけだ。

しかし、これは個別的な事実としてはそこまでだ。その人間にはそう見えたけれども、実際にその対象である固体が「黒いカラス」であるかどうかという証明は別のものになる。しかし、他の人にとってその対象が「黒いカラス」ではないものに見えなければ、この命題はさして問題にするほどのものではなくなる。誰にもでもそれが「黒いカラス」に見えれば、それ以上その対象について何かを語る必要はないだろう。

もし誰かが、その対象を「黒いカラス」ではないということがあれば、どちらの判断が客観的に正しいかが問題になるが、そうでなければ何も問題にすることはないと思う。この命題が個別的な事実を語るものである限りでは、そこに科学が登場する余地はない。科学の問題ではなくなる。

もし、この命題が科学として登場するのであるなら、「カラス」「黒い」という二つの言葉が、具体的な対象を指すものではなく、そこから抽象された一般的な対象を指すものであると理解しなければならない。科学は、抽象された対象に対する一般的な法則性を述べる命題であり、それが実験によって真理であることが確かめられるというものになっている。果たして、「カラスは黒い」という命題は、そのような科学の資格を持ったものになっているだろうか。

この命題が掲示板で最初に語られた文脈を見る限りでは、「カラス」という言葉も「黒い」という言葉も、厳密に定義された学術用語として語られているのではなく日常的で辞書的な意味で登場しているように感じる。その意味では、この言葉は抽象化されておらず科学としての資格をもっていないように感じる。誰もが同じ判断をするという客観性を持っていない。グレーゾーンにあるような対象が存在したときの判断が違ってくる。黒いのか黒くないのかが正しく判断できないことも考えられる。

この命題は科学としてはなじまないというのが僕の印象だが、それでは「カラス」と「黒い」という言葉を厳密に定義して、誰もが同じ判断をするなら、これは科学として考察できるようになるだろうか。たとえば、「カラス」に関しては、遺伝子を調べて、ある遺伝子をもった動物として定義すれば、これは誰もが同じ判断をするかもしれない。また、「黒い」という現象は、光のスペクトルを調べてそのスペクトルの範囲を数値的に決めて判断すれば、感覚というような曖昧なものではない判断が出来る。

このようにすれば科学になる可能性が出てくるかもしれない。しかし、僕はこのような考察は科学として価値がないという意味で「意味がない」という感じがしている。そのことの発見が一体何に寄与するかということが問題になる。思考実験として、科学というものが何であるかを考えるヒントとして考えるにはいいかもしれないが、実際にそんなことをしても何のためにやっているのかが分からない。

科学として考察するなら、さらに一般的な性質が求められるような抽象化が必要ではないかと思う。単に個別的な「カラス」という存在にとどまるのではなく、もっと広く、例えば動物とその体の色というようなもののつながりということなどの考察だ。動物の色は似たようなものもあればかなり違うものもある。その色を決定する要素はいったいどこにあるのか。環境にあるのか遺伝的体質にあるのか。

動物の体の色というのは、偶然そのようになっているものなのか、何かの必然性を伴っているものなのか。そこまでの抽象化が進み、一般化がされれば科学として扱う余地が生まれてくるような気がする。

個別的な事実というのは、異論が出るものでなければ個人の感覚を信用して、そのように見えるなら実際もそうなのだと思ってもあまり大きな間違いはないだろう。「カラスが黒い」という言い方は、個別的に出会うカラスがいつも黒かったなら、事実としてそうだったと語ることに何の問題もないだろうと思う。むしろ、このようなことは科学として考える必要のないものではないかと思う。科学は、科学として語るのにふさわしい対象をもっているのだと思う。

それでは異論が多く存在する言明については、それを科学的に決定できるだろうか。これも、個別的な事実の問題であるときは、僕は科学にはなじまないと思う。科学はあくまでも抽象化と一般化を経て語られるものだと思うからだ。

カラスの色と違って、「南京大虐殺」と呼ばれる事実は、そこで行われたことが「虐殺」であるかどうかに多くの異論が存在するものだ。カラスが「黒い」ということに関しては、よほどのことがない限り異論を提出する人はいないだろうが、南京で行われた行為が「虐殺」であるかどうかには、まったく正反対の異論が存在する。

これは、考察する対象の質の違いがまず上げられる。カラスの色は、カラスの属性として我々の意識から離れて客観的に存在する。しかし、「虐殺」という現象は「行為」であり、「行為」というものは、宮台氏を持ち出すまでもなく「意味的なもの」であるということはすぐに分かるだろう。「意味的」であるということは、外見が同じであっても違う解釈ができるということだ。外見がすぐに判断と結びつくカラスの色とは質が違う。

この「意味的」なものは科学の対象になるだろうか。僕はならないと思う。意味の中には価値観による選択というものが入ってくるからだ。それは客観性を持つことが出来ない。意味そのものは、宮台氏がやったように、選びなおしを可能にする選択肢群のプールという定義を使えば、価値観を含まずに客観的に定義することが出来る。だから、意味を伴った「行為」を科学的に考察することが出来る。しかし、どんな「意味」を選び取ったかということは、価値観抜きに考察することが出来ないので、その選び方が正しいという結論は出せない。それも一つの選び方だという相対化しか出来ないのが科学だ。

南京で行われた行為が「虐殺」であるかどうかは、ある価値観を伴った選択による判断にならざるを得ない。その価値観はどうしても党派的にならざるを得ない。だから「虐殺」であるかどうかを科学的に決定することは出来ない。それはおそらく抽象化も出来ないだろう。国際法違反行為を「虐殺」と呼ぶというような定義を使えば科学的になるような感じもするが、もともとが感情的な思いから出発している「虐殺」という行為が、そのような機械的な定義で覆い尽くされると考えるほうが変ではないかと思う。無理やり客観性を持たせているだけなのではないだろうか。このような定義の仕方をすれば、国際法に違反していなければ「虐殺」ではないということが論理的にいえてしまう。そうすれば、今まで誰もやったことのないような残虐な殺し方をすれば、それは「虐殺」ではないというような変な結論も出さなくてはいけなくなる。誰もやったことがなければ、国際法で問われることもなくなるからだ。

このように「虐殺」という言葉の定義が客観性を持たないものである以上、そこで何人が「虐殺」されたかと問うことは、何らかの積極的な意味を持つということは考えられない。その数字は、「虐殺」という言葉の定義によっていくらでも変わってしまうものになる。

その中でも、「虐殺」数が0(ゼロ)だという日本の国粋主義的な勢力の主張と、30万人だという中国共産党の主張は、両極端のものとしてばかげたものだと考えられる。0(ゼロ)という主張は、事実としての主張とは考えられない。それは、事実の中にはいくらでもグレーゾーンが存在するので、もし0(ゼロ)だということを主張するのなら、すべての死者は「虐殺」ではない、という論理的前提を立てるしかなくなるからだ。これは、党派的な主張であり、客観性を求める人間は賛成できないだろう。

同じように、中国共産党の主張する30万人という数字も、すべての死者を「虐殺」された者に数えない限り実現しない数字であり、下手をすれば、死者の数よりも「虐殺」された数のほうが上回るという論理的な破綻を起こしかねない数なのである。

「虐殺」を考察するということは客観性を持つことが極めて難しい。いくらでもグレーゾーンが存在するし、党派性によって判断が違ってくる。だから、本来はこのようなものは、歴史科学としての対象にするべきではないだろう。そういう意味では、南京での事件を「南京大虐殺」と呼ぶ時点で、もはや客観的な判断を放棄しているとも僕は感じる。やはりこれは歴史科学として考える際には「南京事件」と呼ぶべきだろう。

政治的には「南京大虐殺」というものは大きな意味を持っている。中国にとっては外交カードとしての威力があるものとしてまだ存在しているだろう。しかし、中国の優秀さを考えると、これが外交カードとしての有効性を失うか、あるいは変化をした時点で、30万人説を撤回してくるのではないかと思う。

そのためには、日本が中国にとってどれだけ重要な位置を占めることが出来るかにかかっているような気がする。日本は、経済大国であり、技術的にも優秀なものを持っている。中国にとって、アメリカとの交渉で必要になってくるものと思われる。そのときに、日本が重要な位置を占めることが出来るようになれば、したたかな中国は案外あっさりと30万人説を引っ込めて日本との友好を築こうとするかもしれない。中国にとって30万人説などは、単に外交政策上のものとして語っているだけなのだから。

日本では、その将来のためにも、虐殺0(ゼロ)などという、南京事件そのものがなかったという言説が、ばかげたものとして影響力をもたないことが当り前というふうにしなければならないだろう。個別的な事実に関しては科学的な普遍的真理を求めることは出来ないが、極端なばかげた主張は論理的に排除できるということが、科学を考える上でも大事なことではないかと思う。