「意味」とは何か


宮台真司氏が「連載第一三回:「行為」とは何か?」の文章の中で「意味」について次のような記述をしている。

「意味とは、刺激を反応に短絡せずに、反応可能性を潜在的な選択肢群としてプールし、選び直しを可能にする機能でした。」


僕は、この「意味」の定義が最初よくわからなかった。あまりにも抽象的過ぎるし、よく知られている辞書的な定義とかけ離れているように感じたからだ。また、僕は「意味」という言葉を三浦つとむさんが『日本語はどういう言語か』という著書で説明しているように理解していたので、その理解とこの定義とがどう整合的につながるかということも釈然としなかった。つながりそうな感じはしていたが確信が持てなかった。

辞書的には「意味」という言葉は、「言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと」あるいは、「ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと」と説明されている。「内容」という言葉で言い換えられているのだ。しかし、この説明は、「内容」という言葉が「意味」という言葉よりもわかりやすくなっていないので、ある意味では定義としては不完全だ。「意味」を「内容」で説明するのなら、「内容」という言葉が明確につかまれていなければならない。

ところが、この「内容」という言葉が「意味」と同じ程度に難しい。それは、「形式」という言葉を対をなして、表に現れた形の裏に潜むものというようなニュアンスも持っている。そうすると、何が内容であるかの判断は、それを見る人間によって違ってくるということになり、客観的な定義が難しくなる。

三浦さんは、この難しい問題を「意味」は実体的な存在かどうかという観点から考察していた。つまり、意味という属性を、何らかの存在する物質的あるいは観念的なものが持っているのかという発想で考えていた。

例えば観念的な存在として認識というものを考えることが出来るが、「意味=認識」という捉え方をすることが出来る。「意味」というのは、それを受け取る人間の頭の中にある認識を指すという考え方だ。この考え方で「意味」を考えると、受け取り方の違う人がいたときは、「意味」が複数存在することになる。そして、その「意味」はどれが正しいかという判断をすることが出来ない。受け取った認識はすべて「意味」として同等の資格をもっているからだ。

この定義に基づいて「意味」を考えると、それは客観性というものを持たなくなる。恣意的な個人の判断によって意味があるかどうかが判断される。理論的な考察の道具としては「意味」という言葉を使えなくなる。日常的な用語として、自分の気持ちを伝える際には、そこに何らかの意味を読み取ったということを伝えるだけならいいのだろうが、その意味が、例えば社会においてはどのような機能をもっているかなどという考察には使えない。結論が恣意的なものになって説得力をもたなくなるからだ。

三浦さんは、「意味」を認識と捉える考えを、認識内容説と呼んでいたが、これには客観性がないということで排除した。次に、「意味」とは、それが指し示すもののことであるという、実体内容説の問題も三浦さんは指摘している。これは、個人の頭の中に存在する認識と違って、個人とは独立に外に存在しているという意味では客観性を持っている。しかし、実体的なものは、個人の外に存在しているだけに、それを受け取った個人とは関係なく消滅することがある。

実体が消滅して存在しなくなったとき、実体そのものが「意味」であると考えるなら、「意味」も消滅してなくなってしまったと考えざるを得ない。これは実感として変だという感じがする。実体がなくなってしまったときに「意味」もなくなるのなら、すべての歴史的事実には「意味」がないと言わなければならなくなる。また、複製の問題や翻訳の問題も難しくなる。複製は、形としては同じだが実体としては違うものをつくる。それは同じ「意味」を持っているのだろうか。翻訳においては、形もまったく違うものになる。英語を日本語にするとき、そこに同じ「意味」が含まれていると言えるのだろうか。

「意味」を実体として捉えた場合、「意味」における判断、例えばそこに「意味」が存在するかどうかという判断などにおいてそれを客観的に決定することが出来なくなる。そこで三浦さんは、「意味」は実体的に捉えるものではなく、関係として捉えるべきだという結論を提出する。そこに関係の存在を見ることが出来たとき、「意味」が存在するという判断をする。逆にいえば、関係の存在が見つからないときに「意味」がないという判断をする。

これは、関係という抽象的な言葉で指摘しているので、具体的にどんな関係があるかということは問題にしていない。だから、具体的な関係の捉え方で、違う関係を捉えているときは、具体的な部分で「意味」の違いが出てくる。しかし、関係という一般的な捉え方においては、存在するかしないかは客観的な判断が出来るだろうという主張のように僕は受け取った。

この関係という捉え方は、まだ具体的な事実をかなり含んだ概念になっている。関係そのものというのを我々は多分思い浮かべることは出来ないだろう。関係という言葉で頭に浮かんでいるのは、さまざまな具体的関係のイメージであり、その多くのイメージの共通点としてつかまれているものが関係というものではないかと思う。その具体的イメージと強く結びついた関係という概念を、さらに抽象化したものが宮台氏が定義する「意味」という言葉ではないかと感じる。

宮台氏の定義では、「意味」をある種の選択肢群と結び付けている。「行為の意味」という言葉を使ったときは、「行為の選択肢群」というものがそれと結び付けられる。人間がある種の行為を行うとき、その行為の種類があらかじめ選択肢群として与えられていると考える。人間がすることは、その中のどれかを選ぶことだ。そして、実際に事実として行為が現れるときは、そのどれかが選ばれていることになる。

このとき、実は他の行為を選ぶことも出来た、と考えるのが宮台氏が定義する「意味」の概念になる。ある行為が、必然的にそれしか選べないというものではなく、ほかの事をすることも出来たがあえてそれを選んだというとき、他に出来た行為の選択肢がプールされたと考え、次に同じような状況が起きたときに選びなおしが可能になるような機能として「意味」を定義している。

ここには具体的な関係性というものはもはや存在しない。具体性がほとんど捨象されている。高度な抽象性が語られている。しかし関係性という考え方は捨てられていない。それは選択肢群の連鎖という、選択接続という考え方の中に保存されている。ある種の行為の選択は、その選択に先行する行為の選択に規程される。また、後続する選択を考慮して、今現在の行為の選択がなされる。その意味で行為と行為の間に関係が存在する。行為の「意味」の関係性が、選択接続という形で表現される。そして、この概念は具体的なものがほとんど捨てられて、抽象的な記号的表現として書くことが出来る。

このような定義の仕方は極めて数学的に感じる。それも、古典的な数学ではなく、現代数学の匂いを感じるものだ。現代数学は、公理主義とも呼ばれていて、ある種の公理を満たすものだけを対象にして、そこから論理のみによって命題を導いていくというやり方をする。その公理は、抽象の過程を知らないときは、まったく恣意的に選ばれたもののように見えるが、実は具体性を可能な限り排除して、その本質だけを抽出したものとして公理が選ばれている。

自然数論においてはペアノの公理系というものが有名だが、そこでは、おなじみの「1,2,3,4……」というような具体的な自然数のイメージは排除されている。いくつかの公理を満たすような対象を自然数と定義している。これは、具体的な自然数に関して証明されているような命題のすべてを導くことが出来るように工夫されて公理が選ばれている。実際には、具体性がまずあって、その具体性が捨象された後にペアノの公理系が見出されるのだが、その過程を知らないと、何か勝手に自然数の定義をして、恣意的に論理を展開しているように見える。

宮台氏の「意味」の定義を見たときも、ちょうど同じような感覚を感じた。この「意味」は高度に抽象されたエッセンスとして提出されているのだが、その抽象過程がうまく飲み込めないと、「意味」の概念を自分に都合よく恣意的に設定しているだけのように見えてしまう。

しかし、宮台氏にとっては、「意味」を抽象的に定義することがぜひとも必要だったのではないかと思う。それは、「意味」という概念を社会の考察に利用するためであり、社会学を科学として確立するために抽象化が必要だったのだと感じる。

科学というのは、その判断に客観性がなければ科学とは呼べない。恣意的に、自分がそう思うからそうなのだという主張は科学にならない。だが客観性を持ちうるには、それが抽象的な対象にならなければならない。具体的な対象は、誰もがそう思うというわけにはいかないのだ。なぜなら、具体的な対象には、さまざまな側面が存在し、視点が違えば判断が違ってくるからだ。科学は、そのように判断が違ってくるような具体性を捨象して、誰もが同じ判断が出来るような抽象的な部分で理論を構築する必要がある。

宮台氏が、「意味」の定義として提出する選択肢群というものは、それが選択肢であるということだけが必要な属性で、どんな選択肢かということにはまったく言及しない。それは選択肢群でさえあればいいのである。それが、価値観的にいいものであるかどうかも関係ない。この価値観からも離れているということが、もう一つ客観性を支えるものになるだろう。

「意味」を辞書で引くと、「価値。重要性」などという言葉も出てくるが、このようなものを「意味」の定義に含んでしまえば、「意味」の判断に党派性が出てくる。価値のあるものを「意味がある」と呼び、価値のないものを「意味がない」と呼ぶような使い方は、客観的な表現としては成り立たない。価値というものがそもそも客観性を持ち得ない、恣意的な判断しか出来ないものだからだ。ある人にとって価値があるものが、万人にとって価値があるとは限らないからだ。

価値を「意味」の概念に含むのは、極めて文学的な香りがする。人間の感情に訴えるには便利かもしれない。しかし、科学として「意味」を考察の対象にするときは、その感情性というものが邪魔をするだろう。科学として「意味」を考察するには、宮台氏のように高度に抽象化して定義する必要があるのではないかと思う。