「従軍慰安婦問題」と米下院の「対日非難決議案」


少々古くなってきた話題だが、ようやく考えがまとまってきたのでそれを記しておこうと思う。この話題が出始めたころ、マル激の中で宮台真司氏が、この非難決議案のひどさというのを語っていた。それは全く歴史的事実に基づいたものではなく、ある意味ではでたらめなでっち上げに近いもので日本を非難しているもので、これに正しく反論しなければならないものだと語っていた。

もしこれに反論しなければ、そのでたらめを受け入れたことになってしまうので、いわれのない非難に対して反論することは外交的にも必要だというのが宮台氏の主張だった。そして、そのときの安倍首相の発言として、日本が国家として、あるいは軍として組織的に強制連行したと取られるような言説に反論したものとして、その主張を一定の範囲で支持していたことを思い出す。

僕も、この問題は歴史科学の問題として捉えるのではなく、外交の問題として考えるべきではないかと感じていた。それは、日本の戦争責任を正しく告発したものではなく、ある種のプロパガンダとして、反日的なイメージを高めるために提出された外交問題として処理すべきだろうと感じていた。だから、この問題で戦争責任を告発しているとか、正しい歴史認識をもつべきだというような議論をするのは間違っているのではないかという違和感を抱いていた。

宮台氏の言葉を借りれば、この問題で重要なのは、すべての責任を国家に帰するのではなく、どの程度の責任なのか、どの部分の責任を国家が負うべきなのかという、具体的な責任の帰属の問題を議論すべきだという点を確認することなのではないかと思った。そういう意味では、強制連行というような事実も、どの程度までが軍の組織的関与と言えるのかという、具体的な分析が必要なのではないかと思う。

宮台氏によると、この種の議論が日本で行われると、100%軍が悪いか、あるいは軍にまったく責任がないという0%の議論になってしまう。結論が両極端に分かれてしまうのだ。しかし、現実というのはそれほど単純ではないので、実際には曖昧な部分がたくさんあるはずだ。軍が正式な命令を下しているかという問題では、おそらくそのようなものは見つからないだろう。慰安所を建設するということは、本来の軍の任務とは関係がないからだ。

それでは、正式な命令がないから責任はまったくないという話になるかといえば、これもそう単純ではない。慰安所を軍が利用して役に立てたことも確かな事実だろうと思う。ストレスを抱えた兵士のガス抜きにもなっただろうし、明らかな犯罪行為に流れるのを防いだということもあるだろう。それなりに利用価値があったのであれば、何らかの関与があっただろうことは確かだと思う。便宜を図ったり、その利権を握って私服を肥やした人間もいたことだろう。

これらの責任がどこに帰属するかというのは単純な話ではない。宮台氏の「連載第一三回:「行為」とは何か?」によれば、行為は意味的なものであり、物理的な現象として外見は同じであっても、その文脈的な意味は違うものでありうる。そして、その意味の違いによって、責任の帰属する先も違ってくる。

何らかの犯罪行為が行われたとき、その犯罪行為を、その実行者である個人が主体的に判断して行ったのなら、その行為の責任はその実行者個人に帰するだろう。売春行為というものが犯罪行為ではなくても、強制連行のようなものは犯罪行為として当時でも告発できるものだと思われる。その犯罪行為の際に、主体的に判断したのが、その連行をした個人であったのか、連行をするように命令したほかの個人であったのかで責任の帰属先は異なる。そして、命令の系統をたどったときに、軍に到達すれば日本軍の責任が問われなければならないし、国家に到達するようであれば日本という国の責任が問われなければならない。

強制連行に関しては、それの責任を国家に問うのはいろいろな背景から言って蓋然性がないということを宮台氏は語っていた。これは僕もそう思う。慰安所の設置を国家が計画するということ自体はやはり考え方としては無理がある。国家に責任があるとすれば、その設置に際して違法行為があったのにそれを取り締まらなかったという面に絞るべきではないかと思う。もしこのようなことさえも国家に責任を問うならば、道徳面でも国家は国民を管理すべきだというような間違った方向の議論に発展しかねないのではないかと思う。

強制連行に関する「狭義」と「広義」という考え方は、本来はこのような観点から議論されるべきだっただろう。責任の重さを測る見方として提出されるべきだった。しかし、安倍首相の言い方が、何か言い逃れをしているように受け取られたり、日本はまったく反省していないのではないかという、0%の責任の主張のように受け取られたのは外交の失敗ではないかと思う。

その後マル激のゲストに出ていた首相補佐官の世耕議員も、最初のミスを取り戻すために、責任の部分を認めるような方向を取ることを語っていた。しかし、それが今度は逆の失敗につながりかねない様相を呈してきた。責任が0%ではないということを語っているはずなのに、今度は100%日本が悪いという受け取られ方をしかねないような印象を与えている。これもまた困ったことだと思う。相応の責任を負うことは僕も賛成だが、いわれのないことにまで責任を背負わされるようなら、それは不当な非難ではないかと感じる。宮台氏が語っていたが、そんなときに自らを左翼だと思っていた人間も、自分の中のナショナリズムという愛国心に気づくようになる。いわれのない非難というのは、一時のプロパガンダとしては大衆動員的な成功をもたらすかもしれないが、長期的には、正しい判断をする人々を離反させるようなマイナスとして働くのではないかと思う。

田中宇さんの「日米同盟を揺るがす慰安婦問題 2007年4月3日」によれば、「今回の騒動の最大のポイントは、なぜアメリカの側が、今のタイミングでこの問題を持ち出してきたのかということである」そうだ。そして、それを考えると、これは明らかに政治的な意図があり、外交的な処理として対処することが正しいと思われるものだ。

田中さんによれば、「日本では、下院で対日非難決議の提案を主導した日系のマイク・ホンダ議員が、戦争犯罪問題で日本を非難する市民運動を続けている自分の選挙区の中国系アメリカ人から政治献金を受けていたことから「中国政府が日本を陥れるために在米団体を使ってホンダ議員を動かした」「これは中国の陰謀だ」といった見方が出ている」という。ホンダ議員にはこの決議案を提出するだけの政治的な意味があったということだ。

そして、「米下院の外交委員会では、2月中旬に慰安婦問題を審議したが、その際に証人として呼ばれた元慰安婦らは、いずれも以前から反日運動を展開してきた活動家として知られている人々だった」ということも報告されている。これらの事実から伺えるのは、この決議案による告発は、政治的運動の一環として行われているということだ。民意の反映というよりは政治的プロパガンダとして出されている可能性が高いものと思われる。

日本政府の外交問題として最も大きなものは、この決議案に対して当然米政府の側は、日本との親密さから言っても一蹴してくれるくらいの扱いをしてくれるものと思ったらしいところだ。ところが、これがそうはならずに議会を通りそうになったところから、日本の外交の迷走が始まったようだ。

田中さんは「米議会で審議されている日本非難決議を見ると、その内容は、左派の人々の主張の中でも過激な方のトーンを採用していると感じられる。決議案は、慰安所での日本軍の行為について「ギャング的な強姦、強制堕胎、性的暴行、人身売買など、多数の非人道的な犯罪行為が、20世紀最大の規模で行われた。前代未聞の残虐さと広範囲を持った犯罪だった」と書いている」と語っている。そして、これを翻訳したものとしても、「honyakushaの日記 2007-04-16」を見ると、

  • 1930年代および第二次世界大戦の間、若い女性を性奴隷(一般には「慰安婦」と呼ばれる)にした責任を日本政府は公式に認めるべきである」という意見を表明する。

日本政府は「性奴隷」にする目的で慰安婦を「組織的に誘拐、隷属」させた。

  • 慰安婦は家庭から誘拐されたか、または嘘の勧誘によって性奴隷にされた」

日本政府の慰安婦制度は慰安婦に対して「人道に反する数え切れない犯罪」という苦痛をもたらした。

  • 史家は20万人もの女性が「性奴隷にされた」と結論付けた。
  • 本の歴史教科書の中の慰安婦制度に関する記述を縮小または削除しようと日本政府は努力してきた。
  • 本政府は「この人道に反する恐ろしい罪」を現在および将来の世代に教育するべきであり、慰安婦への支配と隷属はなかったという主張を公式に否定するべきである。
  • 本政府は慰安婦に関して国連とアムネスティ・インターナショナルの勧告を受け入れるべきである。


というような記述が見られる。慰安婦の問題が国家の責任がどの程度かというのは議論の余地のあるものであり、「「組織的に誘拐、隷属」させた」と主張したのでは、かえってそのようなことはなかったと反論されるのではないだろうか。

ここで語られている告発は、日本の国家的イメージを引き下げるには大いに役立つだろうが、それが本当のことなのかということにはかなり疑いを入れざるを得ない。プロパガンダとしては短期的には役立つかもしれないが、それが嘘だとわかったときには、取り返しのつかないダメージを左翼の側に与えるだろう。

特にこのような主張が日本国内で受け入れられるとは到底思えない。むしろ、今まで左翼だと思っていた人間にさえナショナリズムの高まりを感じさせるようになるだろう。アメリカの一議員の選挙対策のために日本のイメージダウンが利用されるなんて我慢がならないと思う人間のほうが多いのではないだろうか。

日本政府にとって困ったのは、米政府の立場が必ずしも日本を守るほうへと向いていなかったことだろう。そこで安倍首相も、ブッシュ大統領と直接会った時にこの話を持ち出したのだろう。謝罪の意を語るなら、ブッシュ大統領ではなく被害者である慰安婦のほうではないかという主張も見られたが、これが外交問題であるという捉え方をすれば、ブッシュ大統領に謝罪の意があることを語るのは、外交的には当たり前のことではないかと思われる。被害者である慰安婦個人に対してそのように言った場合、100%の責任を認めていると受け取られかねないので、むしろ言わないほうが普通ではないだろうか。

外交的には、日本政府はこの問題では大きな失敗をした。米政府に大きな借りをつくり、有効な外交カードを与えたというのがこの問題の妥当な解釈ではないだろうか。歴史科学としての戦争責任の問題は、この決議案の問題とは切り離して考察しなければ間違えるのではないかと思う。

この外交的失敗を取り戻すには、田中さんが「改善しそうな日中関係 2007年4月12日」の中で報告しているように、中国との関係改善によってアメリカに対して有効な外交カードを作る道ではないかと思う。そういう意味では、今年の8月に安部さんが靖国神社へ行かないと決断すれば、日本の外交は中国との関係改善に向かっているのだなと判断できるのではないかと思う。