義務教育における7つの教育方針 1


『バカをつくる学校』(成甲書房)からジョン・テイラー・ガットさんの主張を細かく見ていこうと思う。まずは最初の章から「7つの大罪」として断罪されているものを見ていこう。前回の最後に紹介した、「一貫性のなさ」がその第1番目なのだが、これは、教育の全体を見渡す人間がおらず、それぞれが専門分化された自分の狭い利権の範囲で重要性を主張することによってこの「一貫性のなさ」が現れていると僕は思っていた。

しかし、よく考えてみると教育の全体を見渡すなどということができるものかという疑問も湧いてくる。もともと教育というのは単純なものではなくとても難しいもので、計画的に全体を設計してもそのとおりにいかないものではないだろうか。むしろ、計画どおりに行かないものだからこそ、偶然遭遇したすばらしさを的確にキャッチしてそれを生かすことのほうが大事になってくるのではないかと思う。

そういう意味では、全体を把握していないことによる「一貫性のなさ」の弊害よりも、「一貫性がない」にもかかわらずそれがあるかのように装って押し付けてくることのほうが害が大きいのではないだろうか。正しい捉え方は、学校で教えていることが必要不可欠のものであると考えるのではなく、かなり無駄も多いんだけれど、興味と関心が強ければものになるかもしれない、という捉え方ではないだろうか。必要不可欠なものはごくわずかなのではないだろうか。

実際ジョン・テイラー・ガットさんは、読み書きと計算は100時間もあればものになると言っている。つまり必要不可欠なものはごくわずかの時間で身についてしまうのだ。それもそれほどの苦労をせずに身についてしまう。板倉さんも、仮説実験授業の基礎になるのは、日本語が理解できるという言語能力だけで十分で、科学の知識などはまったく要らないと語っていた。

必要不可欠な知識がごくわずかのものであると、実は学校に利権がある人間にとってははなはだ都合が悪い。それなら学校などはそれほど必要ではなくなるからだ。ジョン・テイラー・ガットさんは、まさに学校などいらないという主張をしているのだが、それは余計なことをすることによる害が大きすぎると考えているからだ。この余計なことは、ものを考えない、刺激に対して快感を求める資本主義社会の維持に都合のいい大衆を育てるのには役立つ教育となる。一貫性のない学校に対する次の批判は痛烈で爽快なものである。

「まともな人間が求めるのは、バラバラの事実ではなく、意味である。教育とは、生のデータから意味を引き出させることなのだ。パッチワークのような時間割や、事実と理論ばかりを優先する授業の中では、意味を模索することなど出来ない。これは小学校ではもっと難しい。そこでは、子どもに出来るだけ多くの体験をさせることが望ましいとされ、親たちはまだその嘘に気づいていない。
 そもそも物事には自然な順序というものがある。人間がまず歩くことを覚え、それから話すことを覚えるように、日の出から日没までの太陽の動きや、鍛冶や農作業といった昔ながらの手仕事、あるいは感謝祭のご馳走の準備など、どんなことにも流れというものがある。そこでは、一つ一つの動きに正当な理由があり、前後との結びつきによって、全体が完全に調和している。ところが、学校教育においては、一つの授業にしろ、一日の時間割にしろ、常に順序がめちゃくちゃである。教師も教師で、学校の方針には逆らえないため、批判の手段になるようなことは決して教えない。生徒が何かを「学ぶ」とすれば、それは宗教の教理問答を暗記するようなものだ。」


時間割というものは、あまりにもそれに慣れすぎているので、あるのが当たり前だと思っているが、実はそれが一貫性のなさを象徴するものだという指摘は目から鱗が落ちるように感じる新鮮なものだ。なぜその教科の学習が選ばれているのか。理論的な妥当性は多分ない。どうして好きな教科に専念してはいけないのか、僕は中学生のころからそう思っていたが、それが教育的に間違っているということの理由をいまだに見つけられないでいる。満遍なく何でもやらなければいけないということの弊害はきわめて大きいのではないかと僕は感じる。

批判の手段になることを教えない教員という指摘もまったくそのとおりだと思う。個人主義が徹底しているアメリカでさえそうなのだから、日本ではさらにこれは深刻だ。日本では、教員がそれを教えないというよりも、教員自身が批判ということをしたことがないので、批判そのものがどういうものかというはっきりした確信をもっていないように思う。

多くの場合教員の批判は的外れだと思うからだ。教員が語ることは批判ではなく要望であることが多い。それをすることが正しいという主張ではなく、自分は困っているからこうしてほしいという言い方のほうが多い。要望がかなえられていないという文句は多いが、それはこうあるべきだという正当な主張は少ない。真理を主張して批判するということの経験が多分少ないからだろう。

アメリカの教員は自分に不利になるから批判の方法を教えないが、日本の教員は、批判そのものを知らないので教えることが出来ないように僕は感じる。もちろん、どちらの国でもまともな批判が出来る人は育たない。しかし、エリート教育が行われているアメリカでは、エリートの間では正しい批判が行われているようでもある。日本では、学校エリートには正しい批判が出来ていないような感じがする。宮台氏のような、学校エリートからはみ出した人間が本当の意味での批判を行っているように見える。

次にジョン・テイラー・ガットさんが指摘するのは「クラス分け」の弊害だ。これも、学校においてはまったく当たり前に存在するものだけに、これがどれほど悪いものであるかはまったく気づかない。ジョン・テイラー・ガットさんが指摘するのは次のようなことだ。

  • クラス分けは、生徒が望んだものではなく、学校が勝手に決めたもので、生徒の自主性を破壊する。
  • クラスでは生徒に番号をつけ、彼らを管理することを目的にする。逃げ出してもすぐに連れ戻せるようにする。(自由を脅かす)
  • クラスは同年齢のものだけを集めて、同質の集団を作る。そこでのコミュニケーションは特殊なものであり、一般社会のモデルとしての人間関係を築くことが出来ない。


このようなクラスの特徴からどのような弊害が生み出されるかといえば、ジョン・テイラー・ガットさんは次のように語っている。

「いずれにせよ、私の仕事は、生徒を番号によってクラスへ閉じ込め、それに順応させることだ。上のクラスは厳しいもの、下のクラスはダメなものという先入観を植え付ければ、彼らは自分の地位に満足し、クラスは軍隊のようにびしっとまとまる。」


つまり、この特徴が最も生かせるのは、生徒を支配する道具として働くときなのだ。どこかに気の合った友達がいても、クラスを越えてその友達と過ごすことは出来ない。また、年少者の扱いがうまいものがいても、同年齢集団には入り込めない。年長者の手伝いがあればうまくいくようなときもそのような助けは得られない。一般社会であれば、指導したりされたりという役割が演じられるが、同質集団であるクラスではそのようなことはうまく運べない。

クラスでは、指導の役割はすべて教員が独占し、生徒の役割としては、教員の意思をうまく伝えることが出来る優等生になったり、指導に従う従順な生徒として、未来の有能な労働者への道を歩む生徒になることだ。自立して自分の頭でものを考えるような子どもは、それが出来ない優等生からは憎まれ、足を引っ張られることだろう。

ジョン・テイラー・ガットさんは、「クラス分けの目的は、子どもたちに自分のレベルを自覚させ、そこから脱出するには、点数を上げるしかないと信じ込ませることである」と語っている。これはアメリカのことであるのに、僕には妙にリアリティを持って、日本の学校のことだと思えるから不思議だ。

クラス分けを子どもの自由にしたらどうなるだろうか。おそらく混乱し秩序を破壊するだろう。その中で教員はあたふたして困るに違いない。しかし、混乱するからそれは駄目なんだろうか。秩序がないから間違っているのだろうか。教員が困るからそれはやってはいけないことなのだろうか。

クラス分けをすることで、教育的にどれだけの意味があったのか。それは積極的に教育を進める意味はまったくなかったのではないか。管理という面で役立つだけで、それは本来の意味での教育ではないのだ。

教育的に意味がなくても、それが害悪として働かないのであれば、どうでもいいんだよという意味で偶然そういうクラス分けになっていると受け止めればいい。しかし、明らかに害悪として働いているときは、それはやはりなくしたほうがいいのではないかと思う。

内藤朝雄さんや宮台氏は、いじめをコントロールするためにはクラスをなくしたほうがいいという提言をしている。東京の単位制高校では、実際に制度的にクラスを無くして成功している。クラスは、今の時代はもはや無用の長物になってしまっているのではないだろうか。

学校がある種の混乱を経て、その反省の結果としてより建設的な方向へ向かうという可能性はあるだろうか。日本社会ではこれはきわめて難しいように感じる。学力観を変えることで学校を変えようとした「ゆとり教育」は、ある種の混乱を学校にもたらし、学力低下を招いているということで非難された。このとき、その混乱を経てもなお、「ゆとり教育」が目指している方向が正しいのだという確信があれば、混乱の回避のために昔に戻るという選択は取らなかっただろう。

ゆとり教育で減った分の時間をまた増やすことで学力低下に歯止めをかけようという動きが学校には見られる。昨夏には、東京都葛飾区の中学校が夏休みを縮めて授業時間を確保するということをした。しかし、その年の学力テストでは葛飾区は23区の最下位に落ちてしまったという笑えない結果になった。前年は最下位ではなかった。時間だけを増やしても中身を変えない学習は、少しも学力低下をとどめることはできないということを証明したようなものだ。

残りの5つの指摘に対しても細かく考えていこうと思う。