教育の荒廃に対する日教組批判


メーデーの集会の後に寄った書店で、買わなかったのだが手にしてぱらぱらとめくってみた本が『マンガ 日狂組の教室』という本だった。これは、日の丸君が代に反対し、自虐史観の歴史を教える日教組教員を揶揄しているような漫画だった。この漫画の表現はあまり公平な感じがせず、日教組に対する深い恨みがこもっているように感じた。

右翼的な勢力の、極端な日教組批判を知るには役立つ本かなと思った。批判としては的外れで説得力がないと感じたが、このような恨みを抱かせた事実はやはりあるのではないかとも感じた。この漫画で描かれた学校は、まるで洗脳されたかのような左翼思想の生徒が登場するのだが、極端な左翼思想の押し付け教育がされる場面が描かれている。

実際にこのような学校があるのか、という批判もあるだろうが、漫画の場合にこのような批判をしてもあまり意味がないように感じる。漫画はフィクションであり事実を描いているわけではないからだ。むしろ、このようなイメージを抱かせた反日教組の感情というものがどのような事実から生まれたものかを考えたほうがいいのではないかと思う。

この漫画は高校が舞台になっているのだが、そこには通称名として日本風の名前を名乗っている在日朝鮮人の少女が出てくる。その少女に対して、日教組の教員と、その教員に洗脳されたクラスメイトは、通称名ではなく本名を名乗れと言って迫ってくる。その背景があまり描かれていないので、通称名と本名との本当の問題というのがここには描かれていないのだが、無理やりに価値観を押し付けてくる教員によって少女が不登校になってしまうように描かれていた。

漫画の描き方としては、イデオロギーに凝り固まったまるで新興宗教的な狂信的な教員によって、生徒が毒されていくというイメージを与えるように感じた。このような教育が学校の荒廃を招き、人生を狂わせたのだと考えている右翼的な人々はけっこう多いのではないだろうか。これは日教組に対する正しい批判になっているようには感じないのだが、感情的な恨みの気持ちとしてはよく分かる。僕も、押し付けに対しては抵抗したい人間だったからだ。

本編とはあまり関係がないかもしれないが、この少女に対して、教師が「強制連行で日本に来た在日朝鮮人の子どもたち」と呼んでいたのが印象的だった。日教組的な左翼歴史観ではそのように教えられたのだと、この漫画の著者は考えているのだろう。それはどこからきているのだろうか。著者自身の体験なのか、それともどこかにそういう教育実践があるのか、知りたいものである。

僕は、日教組の間違いは、このような反体制的なところにあるのではなく、本来は党派性のある組織であるのに、そこが教育という客観性を持った営みに対して正しい方向を提出できると考えたところにあるのではないかと思う。教育研究を日教組がリードできると考えたところが、最も大きな間違いであり、そここそが批判されなければならないのではないかと思う。

日教組という組織の本来の存在意義は、教員という労働者の労働条件を守ることにある。それこそが本来の役割であり、そこにとどまる限りでは、日教組は大きな間違いはしなかったのではないかと思う。教師は労働者かという議論がかつてはあったが、働いて給料をもらっているのだから労働者であることが当然で、組合があるのなら、その組合は労働者としての教員の条件を守るためにあるのが当然であると思う。

しかし、教育という仕事の内容に関しては、労働組合がかかわる問題ではなかったと僕は思う。それは、なにが正しいかということが問われるべき問題であり、何が利益となるかという問題とは本来は関係ないはずだ。それに、正しい教育なら、組合員であるかないかにかかわらず、教員の財産として共有すべきものになるだろう。

自由な研究・研修というものがなかったので組合がかかわらざるを得なかったという歴史的背景があるにしても、組合は教員の利益を代表しているので、中立的な組織ではないという自覚は忘れてはならなかっただろうと思う。組合はしょせん利害代表組織であり、難しい深刻な問題では、利害当事者として判断を間違える可能性があることを忘れてはならなかっただろう。

最初は組合がかかわらざるを得なかったとしても、それはやがては中立的な組織による運営を目指し、客観性を持った研究をする方向にいかなければならなかっただろう。それが、組合的な党派性の歯止めがないまま研究が進んだために、必ずしも客観的に正しいとはいえないような教育が無理やり押し付けられたということがあったのではないかと僕は感じる。

僕がかつていた養護学校では「発達保証論」という理論が正しいものとして、学校全体の実践にそれが押し付けられていた。僕は少人数で担当できるクラスを担当することにして、その押し付けから逃れることを考えたが、この理論は、障害児教育としては間違っていたと今でも僕は思っている。

党派性というイデオロギーは客観的判断を曇らせる。そういう意味では、行政側という統治権力が押し付けてくる教育も客観性はない。それは、現在の支配勢力の意向を反映した、利権の維持に役立つような教育に都合のいいものを提出してくると考えたほうがいい。それと同様に、反体制の組合的な発想の教育は、やはり反体制的なイデオロギーに都合のいい教育が提出されてくると考えたほうがいいだろう。

両者が歩み寄って協力すれば、どちらにもいいものができるかというと、これはそれほど単純ではない。たいていの場合は、両者が歩み寄ると、両方にとって都合が悪いと思われる部分を切り捨てることに同意したものが結果的に現れてくるようだ。毒にも薬にもならないものが出て、利権の維持に役立つということになるのだろう。

本当に客観的な科学的な研究をするには、どちらからも一定の距離をおいた、党派性を越えた存在が必要なのだが、これがおそらくたいへんな難しさを持っている。どちらからも距離をおかなければならないので、それをしたいという人間が自発的に、自分の金で参加してくるようなシステムでなければならないのだが、組合的な発想では、研修は教員の権利であり仕事であるからそれに金を出させるのは当然だという発想になり、行政の側は金を出しているのだからそれを管理統制するのは当然だという発想になり、ここには研究にとって最も重要な自由というものがなくなる。

ひも付きにならず、どちらにも縛られない自立した人間として研究をするというのは、日本社会では意外なくらい難しい。研究というのはノルマに従ってするものではない。それを必要とする人間が、自分の関心の強さにしたがって進めるものだ。日教組の大きな罪を告発するなら、教員の中から、そのような自発性をそぐようにシステムが働いてしまったことではないかと僕は思う。

日教組批判の最も肝心な部分は、日教組の活動は、教員の仕事を楽にしてはくれたけれど、それと引き換えに教員の仕事の魅力を捨てさせたことではないかと思う。自虐史観の問題や日の丸・君が代の反対は、日教組批判としては、学校に混乱をもたらせた現象としても的外れの批判なのではないかと感じる。

日教組は労働者としての面を代表しているに過ぎない。それは重要なことではあるだろうけれど、教育の中身に関しては、自由で自立した教員が自主的に研究して確立しなければならない。教育の中身まで組合に任せてはいけないのだと思う。

教育研究の中身にまで干渉してくるようなら、相手が行政であろうと組合であろうとも、それに客観性があるかどうかの批判をしなければならない。少なくともそれが教員の専門性というものだろう。

以前から右派勢力の日教組批判はピントがずれていると思っていたのだが、それがかなり深い恨みから生じているのではないかというのが、この漫画をぱらぱらとめくっているとわかった。このような恨みを抱かせたというのは、やはり教育の内容としては間違っていたのではないかと思う。妥当性のある日教組批判というものを内部からも考えていきたいものだと思う。僕は、昔も今も日教組組合員だから。