仮説実験の論理


仮説実験の論理とは、仮説が科学になるという飛躍をもたらす論理のことである。僕はこの論理を板倉聖宣さんを通じて知った。科学というのは、一般的・抽象的な意味での真理のことを指すのだが、これは全称命題の形を取る。したがって厳密に考えれば、それが現実に成立することはあり得ないと考えられる。

だから、科学というのはどこまでいっても仮説に過ぎないもので、真理とは呼べないという主張も出てくる。だが、このような認識で科学を捉えてしまうと、例外的な事実が一つ見つかっただけで科学の信頼性は失われてしまう。もし科学が語る命題に反するような事実が見つかったとしても、それが捨象と抽象を経て得られた命題からは例外的なものだと判断できれば、例外であるがゆえに捨象できるはずだ。そうすれば、その事実は科学を否定するものではなく、科学の適用の限界を知らせるものとして役立てることが出来る。

仮説を科学として理解するというのは、論理的には飛躍が存在する。現実の世界というのはすべてを把握することは出来ない。いつでも知られない側面・未知の側面というものが存在しうる。新たな発見がなされる可能性があるという点で、現実は無限に多様なのである。だから、その現実に対してベタに「すべて」を主張することは間違いになる。「すべて」を確かめる手段がないからだ。

では、全称命題としての科学は何故に真理だと主張されるのだろうか。それが成立しない可能性があると理解されているのに、仮説ではなく真理だといわれる理由はどこにあるのだろうか。それは科学的命題は、一般化・抽象化の過程を経ているからである。現実をベタに表現したものではないのだ。

エンゲルスの『反デューリング論』にも書かれている有名な「ボイルの法則」という科学的命題がある。これは温度が一定のときの、気体の圧力と体積の関係を語った命題になっている。「ボイルの法則について」というページによれば、

「シリンダーの中に空気をいれ、栓をします。空気が漏れないように栓を押していくと、シリンダー内の空気の体積は小さくなります。これは、まるでバネのように押せば縮み、離すと元に戻るのです。

どうしてでしょうか。ボイルは、空気は分子とすき間で構成されていて、押せばそのすき間が狭くなると考えました。そして、すき間が半分になれば分子の衝突回数も2倍になり、衝突によって圧力が大きくなると考えました。つまり、ボイルによるとこの時の気体の圧力と体積の間には反比例の関係があると結論付けました。これを、ボイルの法則といいます。」


と説明されている。ボイルの法則には、温度が一定という前提がある。温度が一定ということの中には、気体中の分子のエネルギーが一定で変わらないという前提が含まれている。また、気体は個体や液体のようにその構成分子がくっつきあっているのではなく、自由に空中を運動していると考えられている。そして、圧力というのは、この自由に運動している気体分子の衝突によって生じる力だと解釈されている。これはランダムに確率的に起こる現象であり、個々の分子の運動は不定だが、全体としての気体の圧力としては安定したものとして観測される。

この前提の中に、すでにいくつもの捨象と抽象が含まれている。そして、この捨象と抽象を経て捉えられた気体という対象は、この前提の下に論理を適用すれば、「すき間が半分になれば分子の衝突回数も2倍になり、衝突によって圧力が大きくなると」考えられる。これは論理によって導かれた結論なので個々の事象に制限されることなく、全称命題として成立するものになる。

科学としての命題における、全称命題の側面は、このように抽象化を経て得られた対象に対する全称命題なのである。だから、この全称命題は、抽象的な対象に限って主張する範囲では、論理的に正しい命題として真理だということを主張できる。これは数学とまったく同じである。数学は、その対象が抽象的なものであると最初から断っているので、現実とはまったく関係なく全称命題としてその真理性を、論理の範囲だけで主張できる。

科学的真理としての科学の命題は、数学のように論理的な意味での真理なのである。しかし、これが自然科学と呼ばれる場合は、現実の自然に対してもその真理が妥当に適用できるという主張を含んでいる。自然科学においては、論理と自然との結びつきにおいて、それが妥当であることが言えなければ、それは自然科学としての真理だという主張は出来ない。論理の範囲だけでの真理性を考えるなら、それは自然科学ではなく論理学で判断すればいい。だが自然科学だという主張をするには、仮説実験の論理で、それが現実の自然を対象にしても成立するという論理の飛躍が必要なのである。

抽象的な論理的命題が、実験によって現実にも成立することを言うというのは、個別的な確認の範囲を出ないのであれば、いつまでも仮説の範囲にとどまる。ある気体に対してボイルの法則が確かめられたという実験がなされたとしよう。このとき、この実験から直ちに「すべての気体」に対してボイルの法則が成り立つということは言えない。その気体という特称命題に関しては成立したことが確かめられたのだが、個別的な事実だけでは全体に関する言明は主張できない。

この飛躍をもたらすのが、「未知なる対象」というものだ。「未知なる対象」に対する実験でも、その命題が成り立つならば、「未知」であるという属性が「任意性」を保証し、それが「すべて」という全称命題への飛躍をもたらす。

ボイルの法則の証明には、その法則が成り立つかどうかまだ確かめられていない未知なる気体に対して、温度が一定のときに体積と圧力が反比例するかということを実験的に確かめるということが、仮説実験の論理によって科学であるかどうかを確定することになる。そして、未知なる気体に対して、常にボイルの法則が成り立つならば、ボイルの法則は、ある段階で仮説から科学へと飛躍する。

未知なる気体は、いつでも見つかる可能性があるから、それをすべて確かめることは出来ない。だから、それをいくつ確認すれば、「すべて」と言ってもいいかは数量的には確定できないが、ある程度確認すれば十分だと言えるということは確かだろうと思う。

この科学的命題は抽象的なものだから、現実には例外的なものが存在しうる。それは、精度が高すぎる実験を行うときに生じる誤差の問題などに現れる。ある事象が反比例をするというような単純な法則として現れるのは、誤差を無視しうる測定をするときである。もし、無視しうる範囲を超えて精密に測定できてしまったりすると、正確には反比例という結果は出なくなる。

「ボイルの法則 典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」では、

「ただし実在気体の体積とこの法則で計算される体積との間にはわずかながら差ができる。これは理想気体ではその分子自身の大きさや分子間力がないものとして考えているが、実在気体ではそれらの影響が完全には無視できないからである。」


と記述されている。これは、分子自身の大きさや分子間力などというものが影響を与えるほど精密な測定が出来てしまうと、それを捨象して成立している科学的命題が、その捨象したものが影響を与えるという例外によって結果がずれてしまうということが起こる。だが、これはそのような捨象が出来るような測定をするならば無視できるので、これは例外的なものと理解することが出来る。科学を現実に適用するときは、このように例外を例外として正しく認識することが必要だ。捨象したものが影響してくるような条件があれば、それは例外として判断できるのである。

ウィキペディアでは、

「またボイルの法則では、気体は温度一定で圧力を上げればいくらでも体積が小さくなることを示しているが、実際にはそのようなことはありえない。なぜならある程度の圧力を超えると気体は液化(もしくは昇華して固化)し始め、さらに圧力を増加させると最後には全て液体(または固体)になってしまい、もはや気体の性質をもたないからである。」


ということも記述されている。これは例外として排除できる現象ではない。分子自身の大きさや分子間力については、対象が気体であるから、気体に関する法則という点で例外として扱うという判断が出来た。しかし、液化する状況においては、その対象はもはや気体ではないのだから、それを気体の法則として記述することは出来ない。そこではもはや捨象した一般的な命題が成立するという状況ではないのだ。

これは、気体の法則であるボイルの法則の限界を示したものとして理解すべきものだろう。このような状況ではボイルの法則は成立しないのである。だが、これは対象がボイルの法則で考察すべきものではないということを示しているのであって、ボイルの法則を否定しているのではない。ボイルの法則はあくまでも気体の法則として科学的命題として成立するのである。それが、エンゲルスが『反デューリング論』で語ったことなのだ。

自然科学においては例外の存在はきわめて低い確率で生じる。しかし、社会科学においては、例外が生じる確率は高い。それは、社会科学の対象は人間行動であり、人間には意志の自由があるからだ。社会科学の場合は、どの程度を例外だと考え、どの程度当てはまれば科学として認めるかという判断は重要になるだろう。

板倉聖宣さんは、『子どもの学力 教師の学力』という本で、仮説実験授業が子どもたちに歓迎されるということを社会科学的真理だという判断をしている。それは、仮説実験授業の後に子どもたちに感想文を書いてもらってそう判断しているのだが、「仮説実験授業がよかった」という感想文だけを集めて、その主張をしているのではない。

感想文を実際に読む前に、つまりまだそれが「未知」な段階であるときに、「子どもたちに歓迎される」という仮説が、どの程度確認できるかという予想を持ってそれを公表するという実験を行って、その結果によって科学だという主張をする。未知である段階で、予想を持って結果を問い掛けるということが、仮説実験の論理における実験という考え方なのである。

板倉さんは、この社会科学における妥当性を、90%以上の確立というものにおいている。9割主義と呼んでいるものだ。仮説実験授業を知らない子どもたちが、それを歓迎するという感想を書く確率が90%を超えていれば、それは一般化して主張できる社会科学的真理だと捉えるのだ。もし歓迎されないようなときがあっても、それが10%以下であれば、例外的なものと捉える。そして、なぜ例外が生じたかが正しく理解できれば、それは仮説実験授業の限界を知らせるものとして、貴重な知識になると判断するのである。僕は、この科学の捉え方に大いに共感するものだ。