合理的判断を拒否するメンタリティ


郵政民営化問題をマル激で議論していたとき、小泉自民党が提出していた「郵政法案」が論理的にいかに間違っているかということを荒井広幸さんや山崎養世さんの話を聞いているとよく分かった。郵政省に限らず、役所の改革が必要だということは分かるのだが、このとき提出された「郵政法案」がそのような構造改革にはならずに、結果的には郵貯簡保が持っている国民の財産を外資に提供するだけのものになるだろうというのは説得的な論理展開だった。

表面的には改革のように見えるものが、よく考えてみれば一部の利権に奉仕するだけのものになっているというのが「郵政法案」に対する合理的な判断ではないかと思った。しかし、選挙では郵政改革を訴える小泉自民党が圧勝し、どう見ても合理的判断では改革になっていない「郵政法案」が、その欠点を指摘されることなく成立してしまった。

合理的判断で正しいと思われることと反対のものが選ばれてしまうというのは、その問題が難しいために、人々がトリックにだまされているのだというのが僕の理解だった。どうすれば人々が合理的判断の正しさを理解できるようになるか、というのが教育に携わる人間としても、教育という面で社会に貢献するという一つの問題意識として感じていたことだった。

小泉政権や安倍政権のような右翼的な政府が多くの支持を集めるというのも、合理的な判断の間違いではないかという感じもしていた。両者ともに「構造改革」の方向へ向かっている政権だと思うが、この「構造改革」は、肥大してお荷物になってきた福祉的な部分を、政府の責任から切り離して自助努力にゆだねることで、政府負担を減らして改革しようとする方向だ。いわゆる「小さな政府」というものだろうか。

この路線は、虐げられた部分を救い上げるのではなく、完全に切り捨てることで生き延びようとするものなのだが、切り捨てられる対象ではないかと思える人々が、むしろこの路線を進める政権を支持するという、これもまた合理的判断からは逆の現象が起きている。

これは、最近のフランス大統領選の結果などを見ると、右翼的な政策を進めるサルコジ候補が当選するなどということからも、日本だけの傾向ではなく世界的にその方向へ向かっているのかもしれない。サルコジの政策によって切り捨てられる人々がむしろサルコジを支持するという結果は、どのようにして整合的に理解できるのだろうか。彼らが間違った判断をしているということだけでその理解が終わったようには見えない。

間違った判断に対しては、正しい批判がそのカウンターパンチとなるはずだ。だが、荒井さんや山崎さんの正しい批判が、必ずしも力を持ちえていない。それはマスコミの動因という宣伝力が違うからだということも出来るだろうが、正しい判断というものに最初から関心を示さない人々が生まれているのではないかと思わされるところもある。

マル激では、たとえ正しい論理であっても、その展開が絶望的な方向しか見せてくれないなら、そんなものはもういいという意見が寄せられるそうだ。希望を見せてくれないのなら、そんなものは教えてくれないほうがいいというメンタリティだ。「どうせ世の中はそんなものだ」というあきらめの気分だろうか。

このような気分は、たとえ正論であっても、それが実現不可能な空理空論にしか見えないようなものなら、きれい事を主張して何もしてくれないという勢力に対する怒りと恨みを生み出すようだ。一時期の行き過ぎたとも思える左翼たたきの裏には、このようなメンタリティが隠れていたように考えると整合的に理解できるのではないだろうか。そして、この左翼たたきが、その反動として右翼的なものの支持に結びつくとも考えられる。

マル激の議論では、近代成熟期が再帰的に社会の存在の前提を反省させる方向で進んだために、どのような思考展開も、究極的な基礎には恣意性が潜んでいるということを明らかにしてきたというようなことが語られていた。これは、批判の視座を失わせる。ある事柄を論理的に正当に批判したとしても、その前提としている基礎は恣意的に選ばれたものであり、ある立場からの批判をまぬかれないというのだ。批判をしている当人も、その批判の論理が再帰的に適用されて批判されてしまう場合がある。誰もが同じ穴の狢になりかねない。

このような時代は、批判が力を失い、正論を吐くことが現実離れをしたばかげたことのようにも見えてしまう。今週配信されたマル激では、このような社会状況が象徴的に語られていた。ゲストの萱野稔人氏は、客観的な状況を述べるだけで自分の考えを語っていないと批判されることが多いそうだが、それは扱っている問題が難しくて自信を持って断言できる部分がないからだといっていた。それに対して、自信過剰とも思えるくらいに断言的に語る宮台真司氏は、断言する分だけ矛盾したことを語ってしまうのだという。

宮台氏に言わせると、ある前提を持って論理的に展開をすれば、その前提のもとで正しいことを断言することはできるということだ。しかし、その前提が選ばれたのは恣意的なものであり、他の前提を選ぶことも出来る。そして、他の前提を選べば、その結論はまったく違うものになり、正反対になることさえある。だから、いくつかの前提が可能な選択肢として存在する場合は、それぞれの前提の場合について論理を展開していけば、語ることが、結論において矛盾してしまうということだ。

現在の時点において、正しいことを語るということは、この二つの方向しかないのではないかと僕は感じた。一つは、断言することを控えて、客観的な状況を深く分析するような言説だ。そしてもう一つは、宮台氏がフィージビリティスタディと呼ぶような、あらゆる可能性を吟味して、その可能性の下での結論を列挙することだ。どちらも、かつてのように、これが正しい意見だというものを一つ提出するということは出来ない。結論が一つに決まらないことのもやもやした気分に耐える必要がある。

もはや正しい結論というのは、ある立場から提出した一つの見解ではなくなってしまっている。それは、人々が社会の中で立っている位置というものが、一つに決まるような単純なものではなくなったということを意味しているのだろうと思う。誰もが同じ立場に立っていると信じていた時代、かつてのマルクス主義が人々を魅了していた時代には、誰もが同じ陣営の仲間として一つのイデオロギー的な結論を信じることが出来ただろう。しかし、今はそのような立場はない。

僕は、どちらかというと萱野稔人氏のように、状況を客観的に記述するほうに関心が高い。出来るだけ価値観から離れて、客観的に正しいと思えることが何かという認識を深めることに関心を持っている。それが、最近では自分と反対の発想をするような小室直樹氏の影響などから、宮台氏が提出するような、フィージビリティスタディ的な、多角的な視点から問題を捉えてみようという方向に行きつつあると思っている。

しかし、多様な視点を持つことは難しい。価値観から離れることはそれほど難しくはない。自分の好みや個性というものをいったんどこかに棚上げして対象を見ることで何とか解決できる。しかし、多様な視点というのは、好みや個性を棚上げしただけでは出来ない。ある意味では、自分がもっていない感性を、それがあたかも自分のものであるかのように振舞って、ロールプレイの元で考察するということがなければ実感として考察を進めることが出来ない。

僕は右翼的な感性にはかなりの拒否感を持っていた。だから、その立場に立ってものを考えるというのはとても難しい。山本七平氏を評価するというのもかなり難しいことだった。かつては、小室直樹氏に対しても、天皇制主義の右翼ということで、その主張を読む前に、そのイメージから拒否感を抱いていた。宮台氏に出会って、宮台氏の師であるということがなければ、おそらくその文章を目にすることはなかっただろう。

気分的な拒否感がありながらも、小室直樹氏のすごさは今ではよく分かるようになった。天皇制主義の右翼という面はまだ共感は出来ないが、その論理展開の見事さは十分感じることが出来る。天皇制というイメージに関しても、かつてのようにそれを日本の後進性の現れだと素朴に感じることはなくなった。現天皇に関する気持ちとしては、時に尊敬の念さえ生じることもある。今までの自分が信じていたこととは違う立場へ立つことの、ある意味での拒否感はかなり薄れてきたことは確かだ。その代わりに、今までは疑いもせずに信じていたことがほとんどなくなってきたことも感じている。本当の意味で、すべては疑いうるという感じになってきた。

しかし、今週のマル激で語られていた、合理的判断を拒否するメンタリティに関しては、その立場に立つことはもしかしたら永久に出来ないかもしれないと感じてしまった。小室氏にしても、山本七平氏にしても、その語るところが整合的に理解できるので、たとえ自分とは違う立場であっても、それを理解してその立場で考えることを実感としてロールプレイできるという気がする。だが、合理的判断ではないことを、ある立場からの考えを実感をもって追体験するということは難しい。それは、ある意味では合理性ではなく、感情的な判断になっているのだが、そもそもその感情をもっていないので、ロールプレイにしろ、そう振舞ってその気持ちになることが出来ないのだ。

それは、一部で話題になっていたということで紹介されていた「赤木論文」というものだった。それは「戦争こそが希望だ」と主張するものとして紹介されていた。すべてに見放されて、絶望的になっている人間にとって、それが逆転されるかもしれない戦争にこそ一つの希望を見出せるという主張として僕は受け取った。

僕は深い絶望は必要だと思うのだが、その絶望から生まれた破壊を望む気持ちが、破壊後の新しい道を少しでも考えるものでなければ絶望の淵にいるだけでは、感情的な共感が出来ない。ここで紹介されていた赤木氏の主張というのは、とにかく何もかも行き詰まって、何かが変わらない限り、そのどん詰まり状態が変わらないという絶望が感じられた。つまり、破壊後にこうなってほしいという希望を伴った絶望ではなく、とにかく何でもいいから破壊されてしまうことを願っていて、その後はどうなろうと、今より悪くなることはないだろうというような、そのような感情の表れを感じた。

徹底的に持たざる者は、将来の希望などという発想をもてないのではないかと感じる。むしろ、今より悪くなることはないのだから、変化があったほうが楽しいという気分になれるのかもしれない。どん詰まりの状態でいつまでも虐げられていればルサンチマンがたまるばかりだという感じになるのではないかと感じる。しかし、僕はこの感情に自分を重ねて実感としてロールプレイすることが出来ない。僕は裕福な人間ではないが、ある程度は満足して毎日の生活を送れる、社会の中では既得権益に預かっている「持てる者」の一員なのかもしれない。徹底的に持たざる者に、本当の意味で共感することが出来ないのを感じている。

徹底的に持たざる者の絶望感というメンタリティが生まれてくるメカニズムについては、宮台氏が主張する、教育における承認の不足が原因しているのではないかと感じている。僕は、幸いなことに自分が育てられた過程で、いろいろな面で自分が承認されたことを感じてきたので、徹底的に持たざる者の絶望感を育てずにすんだのではないかと思える。このことは、メカニズムとしては理解できそうだ。しかし、このようなメンタリティが、民主的な決定に影響するくらい増えてきたとき、それがどのような結果をもたらすかについてはまったく予想が出来ない。それは、僕自身がこのメンタリティを実感的に考察することが出来ないからだ。

合理的判断を拒否したメンタリティが、どのような結論に行くか、合理的に見出すことが出来るものだろうか。右傾化やバックラッシュの現状を整合的に理解したいと思っていたが、それが整合的でない感情によって規定されていたとしたら、果たして整合的に理解できるだろうか。とても難しい壁に突き当たったのを今感じている。