極めて論理的・合理的に考察する人間が最終的にはなぜ感情に任せた行動をするのか


僕は、マル激で紹介された『論座』の「赤木論文」なるものを読んでいないのだが、この赤木氏がネット上で公開している他の文章を見つけて読んでみた。「なぜ左翼は若者が自分たちの味方になるなどと、馬鹿面下げて思っているのか」と題された文章だった。

このテーマは、以前から僕が関心を持っているもので、それが不思議だとは思いながら、僕自身がそのような感覚を持っていなかったので、実感的に考察することが難しいと思っていた事柄だった。

宮台真司氏が、以前にアメリカの民主党共和党について、大多数のアメリカ国民にとって、政策的には民主党を支持する層が多いほうが合理的なのに、結果的には共和党支持のほうが多くなり、民主的な制度のもとに共和党政権が誕生すると語っていた。それは、共和党のほうがマスコミ操作がうまく、宣伝によって非合理的な判断をするように働きかけるからだとも語っていたが、それが成功するのはなぜなのかということに関してはよくわからなかった。

日本においても、合理的に考えれば右翼的なネオリベ政権は、大多数の国民にとってはむしろ不利益になるような政策を展開するだろうことが合理的には予測できる。それが、どうして合理性から眼をそむけて、マスコミの大量宣伝とはいえ、逆の主張が正しいというトリックが成功するのかということの理解がよく出来なかった。

このような興味深いテーマを扱った赤木氏の文章を読んで、なるほどこのように考えると、僕が不思議に思っていた事柄の整合性を理解することが出来るかもしれないと感じた。赤木氏の主張に全面的に賛同するわけではないが、論理の展開としては、このように考えれば、自らの不利益になることを選択する人々が、例外的にごくわずかではなくてなぜこうもたくさんいるのかということの理解が出来そうな気がした。

特になるほどと思ったのは、「「左翼は我々の敵」なのである」と主張するその、左翼に対する恨みの感情の深さが逆の行動に走らせるのかもしれないという指摘だ。直接的に不利益をもたらすのは左翼の側ではない。むしろ統治権力を握っている保守の側であり、右翼の側ではないかと思われる。ところが、虐げられている若者の恨みは、右翼のほうへは向かわずにむしろ左翼に対して深いルサンチマンが積み上げられる。

これは左翼の側にとってはいわれのない非難を浴びているようにも感じてしまうだろうが、左翼の善意というものが、実は非常に深い欺瞞のもとに提出されている、ある種の免罪符としての意味しか持っていないことの鋭い指摘なのではないかと思った。

左翼は言葉の上では虐げられた人々(彼の主張の中では社会からはじき出された若者たちを指すのだと思うのだが)に対して、彼らの状況を改善するべきだというきれい事を並べる。しかし、実質的には左翼が達成したことは何一つないということが、当の虐げられた人々の実感であることを語る。左翼は、言葉で語ることで自分たちの善意を吐露しているが、そこで責任が終わっていると考えているならば、それは欺瞞ではないかという指摘がここにあるのを感じる。

もちろん、左翼の側からすれば、現実の改革は難しく、理想どおりにことは運ばないのだからたとえ失敗したとしても、その努力は評価されるべきだという反論があるかもしれない。しかし、自民党の政治は、国民を物質的に豊かにするという目標を掲げて、実際にそれを達成したのではないかということを考えると、言葉だけで何も出来なかった左翼に対して、結果的に何も達成されていないという批判をすることはある意味では正当ではないかとも感じる。

もちろん、物質的に豊かになることが本当にいいことかどうかという議論はある。しかし、それを目標に掲げて、国民の多くもそれに賛同して、結果的に豊かになったのであれば自民党の政治は結果において成功したと評価できるのではないかと思う。

自民党あるいは保守勢力の主張が、ネオリベ路線の自助努力を言うものであっても、本当に実力のある人間が成功するような現実があれば、たとえすべての若者が成功できるのではなくても、それが嘘だとは感じないだろう。ホリエモンの成功に多くの人が喝采を浴びせたのはそのような気分があったのではないかと思う。

ところが、言葉の上では虐げられた人々を救うべきだと語っていても、現実には誰も救っていないとしたら、それは言葉だけいいことを言って支持を得ようとしているが嘘を言っているだけではないかと思われてしまうのではないだろうか。この場合、言葉がいいものであればあるほど、そのきれい事の言い方に反発が強まっていくのではないかと思われる。

しかも、この実現不可能なきれい事を言うような人間が、社会的にはある種の成功者で、その立場が虐げられた人々とは決して重ならないと思われていれば、その欺瞞性と、嘘だという感覚はさらに強まるのではないかと思われる。

このように考えると、バックラッシュ現象として見られるいわゆる「左翼たたき」の基礎にある社会的要因というものが整合的に理解できるような気がする。左翼に対する深い恨みというのは、実現できないきれい事を語って、人々に希望を持たせながらもそれを裏切るということから生まれる。しかも、言葉の上では自分たちの側のことを語っているように見えるのに、その存在の仕方においては実は自分たちの側ではない、既得権益を維持しようとする勢力の側のように見えるということが、その感情の増加にさらに拍車をかける。

赤木氏が『論座』で語ったといわれる「戦争こそが希望だ」という主張は、その主張だけを聞くとまったく整合性のない感情的な主張のように見える。しかし、赤木氏のこのネット上に公開された文章を読むと、彼が合理的思考に優れた人間で、むしろ徹底的に論理的に考えを展開しているように感じる。しかもその論理能力はきわめて優れているように感じる。

カタカナのウヨという言葉で揶揄された若者たちが小泉さんを支持したことについても、赤木氏は、小泉さんが論理的には自分たちに利益をもたらさないことを十分承知した上で、その破壊という面を支持したのだと指摘している。この指摘は、左翼が欺瞞性を持ち、むしろ既得権益の上に乗っかっている腹立たしい存在であるという恨みの気持ちを前提にすれば、小泉さんの押し進める破壊によってその存在も壊れていくことを期待したのだと受け止めれば整合的に理解できる。

現実の破壊をこそ支持するという気持ちは、深い絶望と恨みの気持ちから生まれてくる。そう理解することが、一見非合理的だと思われる主張の底に潜んでいる合理性なのではないかと思った。「戦争こそが希望だ」という主張も、自暴自棄の放言というよりは、もはやそれ以外に、既得権益のシステムを壊す方向が見つからないということの主張だと理解できる。すべての基礎にあるのは、規制のシステムの下では絶望しかないということだ。まったく希望のない状況にいる人間にとっては、破壊こそが希望になる。

破壊というのは社会のシステムにとってダメージを与えるものだ。社会を維持したいと思う人間は、その破壊のエネルギーが例外的なものであって、まだ小さいうちに手当てをしないとならないと、合理的思考をするなら考えなければならない。今の状況は、この破壊のエネルギーが、例外的な少数ではなくなり、一定の影響力をもつような多数派を形成しているように感じる。

既得権益を守るために社会の秩序を維持しようというのではないが、一般論的に社会にとってある種の秩序は必要だという観点からも、この破壊のエネルギーは手当てされるべきだという感じがする。それを、赤木氏のように感じる若者の利益を図れという方向で主張するのは、赤木氏が今までの左翼に感じていたような、実現不可能なきれい事を語っているようにしかならないのではないかと思う。

これは非常に解決が困難な問題ではあるが、赤木氏が抱いているような破壊のエネルギーの感情を、社会秩序をただ壊すだけではなく、壊した後に建設するような方向に結びつけるようなものとして転換する方向を見出すことが本当の意味での解決に向かうのではないかと思う。これも、きれい事のように聞こえるだろうが、単なる破壊だけの行為ではテロリズムとして非難されるだけに終わってしまうが、その後により整合的なシステムの建築が出来れば、これは「革命」と呼ばれる進歩をもたらすのではないかと思う。

明治維新というのはまさにそういうものだったのではないかと思う。黒船がやってきたとき、当時の指導者にとっては絶望しか見えなかったのではないかと思う。圧倒的な武力の差は、他のアジア諸国と同じように日本も植民地化されるのではないかという不安を抱かせただろう。とにかく、既存の幕府体制は壊さなければならないというのが多くの人間の意識だっただろう。

この明治維新が、単に旧体制の破壊だけに終わったなら、日本はすぐに植民地化されたのではないかと思う。しかし、明治維新が「革命」になったのは、それまでの旧体制を破壊しただけではなく、新たに近代国家として出発することが出来たので、結果的に植民地化されなかったと解釈したほうがいいのではないかと思う。明治維新によって日本が近代化されたというのは、まだ異論が多くあることだろうが、そのように解釈したほうが整合性があるように思う。

赤木氏が語る破壊のエネルギーが、単に破壊しただけで終わるのか、それとも新たな社会の創造の出発点となれるのかは、最終的な行動において非合理的な感情の発露を選ぶのか、整合的な論理的判断の下に行動するほうを選ぶかで決まるのではないだろうか。赤木氏の論理的能力の優秀さは、その文章から随所に感じるところがある。出来れば整合的に納得できる方向を見出して欲しいものだと思う。

それが可能かどうかは、小室直樹氏が『硫黄島 栗林忠道大将の教訓』で語っている教訓を生かせるかにかかっているような気もする。栗林氏の状況は、まさに絶望以外のものがないというほど深刻なものだった。勝つ見込みはまったく0(ゼロ)であり、どれほどがんばっても死は免れない。自らの死による破壊という道しか選択肢はない。

このとき、感情の発露だけに終わるのであれば玉砕という道になる。少なくとも自分の思いは達成されたということの満足のうちに死ぬしかない。しかし、栗林氏は玉砕の道を選ぶのではなく、この絶望的な状況の下でも、最後まで整合的に作戦を組み立てて、味方の犠牲を最も少なくし、敵の犠牲を最も多くする方向を選んだ。それは、直接的に破壊の後の建設をしたものではなかったが、小室直樹氏のような読み取りをして、その教訓を生かすことが出来れば、栗林氏の破壊は建設的なものにつながる。

絶望的な状況の下でも、破壊のあとの創造にいかに貢献するかを考えたいと思う。僕の場合でいえば、学校教育の絶望的な状況と、それが破壊された後にくるべき新しい教育像の創造への貢献ということを考えることになる。これは難しい考察ではあるが、それが出来ない限り破壊は単なる感情の発露のカタルシスになってしまう。テロリズムで終わってしまうのだ。

赤木氏は、その後の『論座』の論文では、フリーターとしてつまらない死に方をするよりも、戦死して靖国に祀られたほうが、国家からの承認を得た死に方として名誉が得られるというような論理を展開しているらしいとマル激で語っていた。この展開は、残念ながらあまり建設的な方向ではなく、承認を得られなかったルサンチマンを満足させるための感情的なカタルシスのように見える。人間の尊厳を育てる際の承認の不足というのは教育の問題でもあるだけに、このことについてはより考えを深めたいと思うものだ。