社会主義国家の誤りについて


社会主義国家が崩壊したとき、その現象をどう解釈するかというのはマルクス主義の陣営にとっては深刻な問題だっただろうと思う。これが、マルクス主義の理論的な誤りを証明する実験と捉えるのか、理論には誤りがなかったが、その現実の適用において失敗した実践的な誤りと見るのかは大きな違いがあるだろうと思う。

マルクス主義を信奉して、そのパラダイムで自分の思想を形作っていた人々は、その理論が間違っているという前提そのものの否定はなかなか出来なかっただろうと思う。目に付くのは、現実の社会主義国家の指導者たちの具体的な失敗のほうだ。スターリン主義に見られるような大衆の弾圧と強権的な政治に失敗を見たり、特権的な指導者層の物質的な贅沢さに個人的な堕落を見たりすることのほうが多かったのではないかと思う。

マルクス主義理論そのものの間違いを認識するというのはかなり難しいことだったに違いない。理論が間違えているのではなく、人間の認識の中に誤りがあったと思いたくなるのではないだろうか。しかし、社会主義国家が例外なく倒れ、生き残った中国などは、もはや社会主義とは呼べないような国になっている。むしろ資本主義国家以上に資本主義的な生産が浸透し、国家が巨大な資本家になって資本主義を運営しているようにも見える。社会主義国家として唯一残っているように見える「北朝鮮」にしても、資本主義化して生産を発展させなければ国家の存続が危うくなっている。

具体的な実践がすべて失敗しているときに、それでもなお理論には誤りがなく、それを適用している人間に間違いがあるだけだと解釈していられるだろうか。これは、理論に誤りがあるために、どんなに優れた人間がそれを実践しようとしても、必ず失敗をするようなメカニズムがあるのだと解釈したほうが整合的だろうと思う。社会主義国家の指導者は、その時代の最高の優秀性を持っていた人々だったと思う。その人々たちがすべて間違えたのなら、やはり理論そのものに誤りがあったと理解したほうがいいだろう。

この点ですごいと思うのは中国の指導者の優秀さだ。中国は、共産主義というパラダイムそのものを捨てたように僕には見える。中国は、経済においても政治においてももはや共産主義ではないように見える。むしろ資本主義を取り入れ、政治においても資本主義において不可欠な民主主義を少しずつ取り入れようとしているように見える。パラダイムの転換を、パラダイムによって利益を得ている特権的な階級の中から行えるというところに、中国の指導者のすごさを僕は感じる。中国ではゴルバチョフが多数派を占めているのではないかと感じる。

僕は、師と仰ぐ三浦つとむさんがマルクス主義であったにもかかわらず、マルクス主義の信奉者にはならなかった。これは、僕が左翼的な指導者、特に共産党に対してあまりいいイメージを持っていなかったので、マルクス主義を信奉する気にならなかったことがある。三浦さんは、共産党マルクス主義を「官許マルクス主義」と呼んで、本当のマルクス主義ではないのだと批判していたが、僕は、マルクス主義に本当のものとニセモノがあると考えるよりは、理論そのものにそのような誤りを呼び起こすような原因があるのではないかと感じていた。

三浦さんの「官許マルクス主義」批判を読んでいると、そのようなものを信じている共産党の指導者はみんなバカではないかと思えてくる。しかし、実際に自分の身近にいる組合の指導者である共産党関係の人々は、むしろ仕事に対して熱心で能力の高い人々だった。もちろん、三浦さんが指摘するような欠点には気づいていないところがあったが、それはパラダイムに影響された人間には仕方のないことだとも思っていた。つまり、間違いは能力の問題ではなく、パラダイムそのものにあるのだというのが、僕の仕事の日常から感じる実感だった。

社会主義国家が倒れたとき、僕はその間違いの根本にあるのは「プロレタリアート独裁」という理論ではないかと思った。僕は自由を信奉する人間で、自由の価値に対しては無前提に、一つのパラダイムとして捉えているところがある。だから、「独裁」という言葉には、そのイメージだけで拒否反応が起こるようなところもある。これこそが間違いの究極的な原因となるものではないかと思った。

独裁というのは、何もかも独り占めすることで批判を許さないものだ。スターリン主義に見られるような、反国家的な人間に対する弾圧というのは、おそらくその徹底ぶりに関しては、戦前・戦中の日本の軍国主義的弾圧よりもひどかったのではないかと思う。それは、思想的な基礎があるだけに、人々が善意を持って弾圧が正しいと思ってしまうだけに、よりひどいものになるだろうと感じる。

三浦さんは、この「プロレタリアート独裁」は、過渡期には必要なものとして考えていたようだ。人々の熱狂で革命が成功した時は、革命そのものは人々の感情の高まりで動員した力(ある種の暴力)で成功することがある。しかし、その人々は、革命後の国家の建設までは考えていない。とにかく現状が絶望的なものであれば、破壊して新しいものが生まれるという希望だけで、破壊に賛成する心情が生まれてくるものだろう。

革命後の国家建設に対しては、そこまでよく考えている指導層が独裁的に国民を引っ張っていく必要がある。そうでなければ、国家はその歩む道を間違えるだろう。そして、指導者層が正しい指導をしている間に国民を教育して、独裁を民主主義にゆだねても正しい判断が出来るようになったときに、過渡的な「プロレタリアート独裁」は終わりを遂げる。

理論的にはこんな展開だったと思う。これは論理的には間違っていないだろうと思う。しかし、この論理には隠された前提がいくつかある。一つは、革命後の指導者が、独裁的に指導をするだけの能力があるということだ。つまり、間違いのない判断ができるという前提がなければ、上の論理展開は狂ってしまう。共産党の無謬神話というのは、それがなければ「プロレタリアート独裁」を正当化できないので、どこの社会主義国家でもそのようになっていったと考えられる。

また、その優秀な指導者層は、「プロレタリアート独裁」が過渡的なものであり、その間に国民を賢く教育できるという前提がなければならない。ところが、この両方ともに現実には困難な要請だった。権力を握った人間が、それが過渡的なものであるから、過渡期を過ぎれば権力を離れるということを自発的に考えるということはまったく期待できなかった。むしろいつまでも権力にしがみつくということのほうが普通だということを人々は悟った。当然のことながら、そのような指導者は優秀性も失うことになった。

さらに困難だったのは国民を賢く教育するということだった。これは、利害関係がなくてさえ、本当の意味で進歩するような教育が困難であることは、教育という営みに本気で携わったことのある人間だったらすぐにわかるだろう。ましてや利害がある相手に対する教育で、本当に優れたものを作り上げるのは困難だ。ジョン・テイラー・ガットさんの指摘を待つまでもなく、権力を維持したい人々にとっては、国民は賢くあるよりも愚かであったほうが都合がいいのである。

三浦さんのように論理を考えれば、「プロレタリアート独裁」は論理的には正当化しうる。しかし、その前提はまったく非現実的なものであり、実現不可能なものであるように僕は感じる。「プロレタリアート独裁」の社会主義国家がすべて倒れていったというのは、やはりこの理論には根本的な欠陥があったのではないかという感じがしている。

プロレタリアート独裁」であるにもかかわらず中国がいまだに倒れないのは、中国の「独裁」は、「独裁」といいながらも、共産党の決定において指導者層の判断だけではなく、民意をそれなりに評価して判断しているからではないかとも思われる。中国の「独裁」は、指導者層の優秀さが、その生き残りをまだ可能にしているといえるのではないかと感じる。この指導者層が、優秀さの発揮よりも、自己の権力の維持のほうを重視するようになったら、ソビエトのように崩壊への道を歩むのではないかと思う。しかし、中国の指導者層の優秀さは、ソビエトの失敗に学んでいるとも思えるので、権力の維持のためにはむしろ権力の独裁を避けたほうがいいということも考えているのではないかと思う。

僕は、「プロレタリアート独裁」という過程を経ずに共産主義へ至る道はないのではないかと思っている。独裁なしに、人々が自己決定で共産主義を民主的に選ぶというのは想像できないのだ。それはある意味では人々がみんな自分のエゴを捨てて、社会全体の利益のほうをこそ優先するという社会の実現を意味すると思う。それは、理想ではあっても実現不可能ではないかと思う。

人間が多様性を持っているなら、それぞれの人の希望や幸せは分岐してしまう。エゴをすべて捨て去ることは出来ない。何が価値あるものかという合意は、多様性を認める限りでは不可能だ。つまり、共産主義の実現は、多様性を否定し、一つのイデオロギー的な価値観の下での合意にゆだねるしかない。「プロレタリアート独裁」や、そのためのイデオロギー的統制が社会主義国家にとって必要不可欠なものになる。社会全体の利益というのは、何か一つに決まるのではなく、多くのものが並存するものになり、何を優先させるかという決定は出来ないだろう。

プロレタリアート独裁」がなくてはならないものであることが、共産主義体制の論理的帰結なら、共産主義社会に民主主義はあり得ない。人々の多様な考えを保障し、たとえ間違っていようとも、その意見の表明の自由を保障する民主主義社会は、共産主義体制の破壊をもたらすだろう。

中国が共産主義国家という体制を続ける限りでは、中国には民主主義の実現はないだろう。これは、中国に対して非難をしているのではない。民主主義が何もかも優れているすばらしい政治体制ではないからだ。民主主義にも根本的な欠陥がある。中国が民主主義国家でないということは、そのような欠陥からは免れているということでもある。

今までは、民主主義を実現しているアメリカ的な社会が人々を幸せにすると思われてきたが、中国の行く末によっては、民主主義ではない国のほうが幸せだということも可能性としてはありうる。物質的な豊かさにおいては、資本主義体制が社会主義体制よりも優れているというのは、社会主義国家の崩壊で結論が出たと思う。また、資本主義体制のためには民主主義が不可欠なので、物質的な豊かさのためには民主主義は必要だ。だから、中国でさえも一部の民主主義は取り入れている。国家は、もはや民意を無視して政策の決定が出来ないようになっている。

物質的な豊かさという点では勝負がついた。それでは精神的な豊かさという幸せ感においては、やはり民主主義が勝ったと言えるだろうか。これは結論を出すにはまだ早いような気がする。中国の行く末を見なければならないだろう。

日本においては、共産主義の実現は、もはや進歩ではなくて後戻りになってしまうのではないかと僕は感じる。中国のような方向が、国民に幸せ感をもたらしたとしても、そうでない感覚を身につけてしまった日本人には、いまさら民主主義を捨てることは出来ないだろう。資本主義でもない、共産主義でもない新しいパラダイムを我々は発見することが出来るだろうか。それは困難な発見ではあるだろうが、もし見つからないときは、幸せ感という点では、中国をうらやみながらも、それを真似できないフラストレーションを感じる時代がくるかもしれない。多くの人々が幸せを感じられない日本の資本主義と民主主義は、確実に曲がり角にきているのだと思う。