国家とは何か


萱野稔人さんが『国家とは何か』(以文社)という本を書いている。この本の前書きに当たる部分の「イントロダクション」というところで、この本が目指しているところの全体像について書いている。それは、タイトルにあるとおり、「国家とは何か」ということなのだが、その中に物事を考える方法論のようなものがあるのを感じた。

「国家とは何か」という問いに対して、こういうものだという答を提示するのがこの本の目的ではない。そもそもこの問いは、国家というものがいかに捉えにくい複雑なものであって、単純に答が出せるような対象ではないのだということを自覚させるためにあるような気がする。

国家の捉えがたさは、国家というのは直接目で見ることが出来ないものだからだろうと思う。つまり、実体としての国家そのものはどこにも見出せないのだ。国家を構成するであろう要素や機能は見ることが出来る。国民一人一人という存在は、現実の我々自身であり、これは幻ではなく実体的に存在する。国家を構成するであろう政治的な装置(国会・議員・地方議会など)もその存在を見ることが出来る。

国家の機能である法的拘束力も日々感じることが出来る。外国との間にトラブルが発生すれば、それを解決するための国家の働きを見ることが出来る。パスポートを使って海外旅行をするときは、そのパスポートによって外国での身の安全や自由が保障されていることを感じれば、国家の機能を感じることが出来るだろう。だが、そのときにも国家の姿は見えてこない。

このように捉えどころのない、眼に見えないものを考察する出発点になるのは、

「国家とは何か。国家などというものがなぜ存在しているのか。そもそも国家が存在しているというのはどういうことなのか。」


というような発想だ。これが方法論的な側面を考えさせる。国家に限らず、目に見えない捉えどころのないものを考えるときは、このような出発点から始める方法があるだろう。「国家」という言葉を「言語」に置き換えると次のようになる。

「言語とは何か。言語などというものがなぜ存在しているのか。そもそも言語が存在しているというのはどういうことなのか。」


このような発想で言語論を展開すると、三浦さんが語るような言語論になるのではないかと思う。方法論的に見て、この出発点はいろいろなものに応用できる。法律・道徳・教育などという単純ではない対象に対しては、いつでも上のような問いが立てられるだろう。

しかし、これは問いを立てただけでは問題は解決しない。この問いに答えうる方法がまた見出されなければならない。問いを立てただけでは問題の解決にならないのだ。その問いが答えられうる方向を見出せるような仕方で問われなければならない。萱野さんが解説する解の方向は、「いわゆる経験科学的なアプローチ」ではない。概念的な考察として提出される。

これはどういう意味かといえば次のように考えられるのではないだろうか。経験科学的アプローチとは、現実に国家と呼ばれる対象を観察して、その属性を記述し、その属性から国家の特徴を抽象していこうとする方法だ。これは、対象の概念がはっきりとしていて、ある存在が考察している対象であるかどうかが明確に判断できるときに正当性をもちうる方法だ。経験科学が科学であるためには、あらかじめその対象の範囲が明確に定められていなければならない。つまり、経験科学として国家を考えるなら、すでにその時点で「国家とは何か」がもう決まっていなければならないのだ。

「国家とは何か」を決めるために経験科学的なアプローチをすれば、今まで対象にはしていなかったまったく新しい形態で、しかも国家のように見えるものをどう扱うかということが判断できなくなる。経験科学は、それが国家であれば国家として扱うことが出来るが、経験科学を用いてそれが国家であるかどうかを証明しようということは出来ない。

このように考えると、経験科学で国家を考える場合は、その経験科学で明らかにしたい法則に関して、なくてはならない部分を抽象して、例外的なものとして捨象してもいいものを捨てて国家の概念を作るだろう。つまり、経験科学では、その取り扱う範囲によって国家の概念は違ってくる場合もある。そして、それが違ったとしても、その抽象の下での法則性が論理的整合性を持っていれば科学としては合格点なのである。それが、現実をよく反映しているものであれば、科学としての有効性も持っているといえるだろう。

概念というのは、対象の持っている属性を抽象して作り上げるのだが、どれだけ多くの部分を捨象するかで抽象のレベルが上がっていく。属性のほとんどすべてを捨て去れば、ほとんどあらゆるものがその概念に入ってくるがその代わりに、対象固有の属性の考察は出来なくなる。他と区別される対象固有の属性を残しながらも出来るだけ高い抽象をしていくというのが、萱野さんが国家の考察に関して取っているアプローチのように感じる。

「人間の思考の対象になるもの」という抽象はレベルの高い抽象であり、ほとんどすべての存在がそこに入ってくる。当然のことながら、国家と他のものを区別する指標は、この概念からは得られない。だから、有効な概念を作るには、国家と似たような機能を有するにもかかわらず、それが国家にならない・国家と呼ばれないのはなぜかということが整合的に説明されるような概念が求められなければならない。

萱野さんは、暴力の行使という面から国家を捉えて、その概念を作り出そうとしているように見える。同じように暴力を行使して人々を支配しようとする集団が人間社会には他にもある。これとの違いや、これらが暴力の行使で不当だと判断されるのに、国家の暴力の行使は正当化されるのはなぜかが整合的に説明されるなら、この概念は役に立つ・有効だと言えるだろう。

萱野さんは、イントロダクションの段階では

「国家について言えば、しばしば次のように問われてきた。それは実体なのか、それとも人々の間に打ち立てられる関係なのか、と。
 しかし国家は実体でもなければ関係でもない。さしあたってこう言っておこう。国家は一つの運動である。暴力にかかわる運動である。」


と書いている。僕は、この本をまだ全部読んでいないので、この主張をこの段階で理解することは難しいが、実体的に眼に見える国家の現れの中で、偶然的なものを捨てて本質を抽象すると、「運動」という側面こそが本質として残るのだという説明だと思う。これは、機能的な側面を静的に捉えるのではなく、動的に捉えることによって「運動」だという見方をするのではないだろうか。本質を機能に見ているのではないかと感じる。

僕は、眼に見えない存在は関数的に捉えることがその本質をつかむことになるのではないかと思っている。関数は機能に注目することになり、機能を本質として捉えることになる。ある意味で「機能主義」と呼んでもいいだろう。「機能主義」というのは、すべての存在は機能こそが本質であると主張するもので、対象の属性を考えることなしに結論付けているので、「主義」と呼ばれ、間違ったものとして扱われている。だが、対象が目に見えない存在であり、見えるのは機能・働きとしての入力と出力の関係だけであれば、それは機能こそが本質だと捉えてもいいのではないかと思う。対象が実態的なものではないという属性を持っているとき、機能主義が真理となるのではないだろうか。

萱野さんは、国家の有効な概念を見出すことでどんな問題を解決したいと思っているのだろうか。経験科学的アプローチでは、対象の持っている法則性を明らかにして、それを人間にとって有効に活用できるようにすることを目的にしているように感じる。法則に従った扱いをすれば、対象は人間の自由になる。そのために役に立つ概念を設定して出発点にしているように見える。

三浦さんが確立した言語学も、言語の法則性を明らかにすることによって、言語による伝達の正確さを高めたり、誤謬の可能性を分析することが出来るという有効性があるように感じる。三浦さんが言語を表現として捉えるのも、その概念把握の中には、言語が伝えるものは人間の認識であり、それを正確に伝えることが言語の有効な使い方だと考えるものが入っているのではないかと思われる。

言語を表現として捉えるのは概念把握としてはレベルが高く、絵画や音楽との区別がつかなくなる。それを区別がつくレベルにするには、表現把握のときに捨象された認識の区別の部分で、一般的・抽象的な認識に対応する部分が言語表現と結びつくというのが三浦さんの言語特有の概念だった。これによって、言語表現の正確な理解は、一般化・抽象化の過程を理解することに対応することになる。これは、言語表現の理解と創造において有効に働く法則になる。

萱野さんが語る国家の概念は、それが明らかになったとき、どのような有効性を持つだろうか。それは萱野さんの本を読み終えなければ分からないかもしれないが、目次を見る限りで予測するのは、国家にとっての暴力の必然性と正当性を理解することが基礎になるのではないかと感じる。

暴力がまったく存在しない社会というのはユートピア的な想像の中にはあるかもしれないが、現実にはあり得ないだろう。そうであれば、マル激の中でも語っていたが、「管理されない暴力」と「管理された暴力」とではどちらがいいかという話になる。萱野さんは、もちろん「管理された暴力」のほうがいいに決まっているというようなことを語っていた。そのとおりだろうと思う。

「管理されない暴力」とは、その行使の正当性があるかどうかはどうでもいいような暴力になる。暴力を持っているものがそれを恣意的に使うというものが「管理されない暴力」だ。その恣意性を、不十分とはいえ、正当性を認められたものだけに限るというのが「管理された」暴力だ。

素朴に暴力のすべてに反対する、あるいは戦争のすべてに反対するという運動が、現象的にも成立しなくなってきているが、これは理論的に成功し得ないのではないかという気が今はしている。暴力のすべてに反対するのではなく、「管理された暴力」の管理の仕方について意見を言うという方向こそが、現実的な運動の方向なのではないかと感じる。国家にとって暴力が不可欠の要素であるなら、それをなくそうという運動は国家を解体しようという運動になってしまうだろう。

暴力をなくすために暴力を使うのは不合理だし、暴力なしに強大な暴力をなくすようなことも出来ないだろう。どちらにしても、国家にとって暴力が不可欠なものなら、暴力そのものを消滅させようとする運動は、理論的に不可能になる。理論的に不可能な問題ならば、その問題の解決の方向を捨てて、他の問題を設定して解決の方向を見出したほうがいいのではないかと思う。

オイラーは、一筆書きが出来るか出来ないかの条件を見出した。その条件から考えて、一筆書きが不可能な図形に対して、いつまでも一筆書きの答を探しつづけるのはばかげている。萱野さんの思考は、無駄な努力から人間を解放してくれるような有効性を持っているのではないかと思う。そのような予想を持ってこの本を読んでみよう。