治安問題に対する関心


都知事選での石原慎太郎氏の圧勝を考えたとき、あるブログで見た「治安問題」への取り組みが大きな要素だったということに頷いたものだった。他の候補に比べて、石原氏が主張する治安対策のほうが、多くの人の信頼を勝ち得たという指摘は正しいものだと感じた。

治安対策というのは強権的な警察権力を有効に発揮しなければならない。その意味では石原氏の強い姿勢のほうが何となく安心できそうな感じはする。萱野稔人さんの指摘にもあったが、他を圧倒する強い暴力でなければ、暴力を制圧するという治安は保てない。弱い暴力では治安問題の解決には不安が生じてしまうだろう。

治安問題を主張すれば一定の支持が得られるというのは石原氏だけにとどまらず、保守政治家は気づいているような感じがする。自民党を離れた亀井静香氏も、今度の参院選での争点を治安問題に求めているようだ。多くの人が不安を感じている時代は、その不安をあおることによって、不安を鎮めることが出来る強いイメージを持った政治家がポピュリズムを獲得する。小泉さんがそうだったし、フランスにおけるサルコジもそのようなイメージがあるのではないだろうか。しかし、この治安の不安というのは、本当に深刻に迫っているものだろうか。

最近の事件報道というのは、確かに理解を超えるようなものが多い。母親を殺害してその頭部を持って自首した高校生のニュースなどは、その猟奇性が理解を超えている。また、拳銃を持って立てこもった暴力団員の事件は、拳銃所持が違法であるにもかかわらず、日本ではかなり多いことを予想させる。横浜で幼児が刺された事件では、外見からは人を刺すように見えない人が突然そのような行為をしてしまうという怖さを感じさせる。精神的な問題があって行動の予測がつかない人間は、外見からはまったくわからない。

これらの事件が、それは特殊なケースで平凡な日常においては稀にしか起こらないのだと理解できれば、それはさほどの不安は生まない。しかし、いつ自分の身に降りかかるか分からない、どこにでも起こり得ることだと感じれば不安は高まるだろう。

現在の社会は流動性が高く、周りに生活している人々がどのような人々であるかが見えなくなっている。自分の周りにいる人がどんな人であるかを知らない。そういう意味で、誰がこのような事件を起こすかということが分からず、分からないからこそ、いつ自分の身に降りかかってくるかという不安が生まれてくる。

「人を見たら泥棒だと思え」ということは、他人がよく分からない社会では、そのような感覚が起こってくるだろう。都市伝説と呼ばれる噂話は、そのような不安が物語になったものだ。得体の知れない、よく理解できない他者が、何かとんでもなく悪いことをしたり考えたりしているのではないかという憶測は、他者を知らない不安から生まれてくる。

このような不安が高まるのは現代社会ではある意味では仕方のないことであろう。それでは、その不安は、治安の強化によって静めることが出来るかどうかをもっとよく考えなくてはならないのではないかと思う。気分的には、治安が強化されれば不安は静まるだろうが、それは実質的にも不安の根源を取り除くことに効果を持っているのか。治安の強化は、気分的に不安を静めるだけで、実質的には危険は少しも減っていないのではないだろうか。

萱野稔人さんの指摘では、国家の持つ強大な暴力は、他に暴力を行使しようとする私的な存在を抑止し、合法的な暴力として唯一認められることで他の暴力を抑えることができるという。これは整合的な考え方だ。治安維持にとって強大な暴力は必要不可欠なものだ。しかし、ここで抑圧される他者の暴力は、違法な暴力を使えば合法的な暴力によって押さえ込まれるのだと自覚しているような暴力だ。

つまり、確信犯的に暴力を用いる人間は、それが露見しないように使うことに注意を集中するということで暴力の抑止になる。あからさまに恣意的に暴力がふるえないようにするという意味で、警察権力の治安維持の効果が生まれる。この抑止力は、暴力を使ってある種の支配をもくろんでいる人々に対して有効に働く抑止力だ。暴力による支配は、国家以外には許さないという国家の意思が、恣意的な私的暴力の抑止になる。

昨今の治安の不安を引き起こしている暴力事件は、どうもこのような確信犯的な暴力の行使には見えない。誰が、いつ引き起こすか予測が出来ない、そのような暴力に対して強大な暴力を用いて抑えることが出来るだろうか。国家による強大な暴力で抑えられる暴力というのは、意図的に暴力をふるって自分の利益を引き出そうとする人間にしか有効に作用しないのではないだろうか。

その暴力行使が意図的なものでなく、追い詰められ暴発したことによって表れてしまったものなら、どれほど強大な暴力で、その発生後にそれを取り押さえたとしても、次に同じような事件が発生する可能性があったとき、その事件を引き起こすものに抑止力が働くだろうか。現在の諸事件に対しては、事件が発生した後に事後的に対応するしかないのではないかという感じがする。そのために治安の強化がどれほど必要なのかはよく考えたほうがいいことではないかと思う。

今東京の学校では監視カメラの設置が進められている。これは、治安強化の一つの現れだろう。これによって学校の安全はどのくらい強められることになるだろうか。実質的にはほとんど安全を高めることにはならないのではないかと思う。監視カメラは、何か事件が起こったときに、その事件の目撃証拠としては役立つだろうと思う。だが、役立つのは事件が起きた後であり、事件が起こる前にはさほど役に立つとは思えない。監視カメラがあることで、どれほど抑止になるかということは未知数だ。

現在不安を大きくしている犯罪事件は、それが発生した後に取締りを強化することで次の事件の抑止にはならない種類のものになっているのではないだろうか。それは、発生の原因が確定されておらず、どこで誰が起こすか分からないというものになっている。このような事件に対して治安を強化するというのは、実質的な対策としては的外れなのではないだろうか。

自分の家に放火して母親と兄弟を死なせてしまった高校生について、父親の存在が彼を精神的に追い詰めたという報道があった。医師である父親が、自らの後を継ぐことを期待して、厳しく勉強に追い立てたという。この報道を見ると、何とひどい父親だと思う人が多いだろう。

しかし、この父親が特にひどい父親なのだろうか。子どもに期待をして厳しく接するなどというのは、「巨人の星」などのスポコン漫画の世代には、むしろ美談として語られていた時代があったのを思い出す。野球なら美談で、勉強なら悪として語られるのだろうか。

この父親が恣意的な暴力をふるって虐待していたというのなら非難されても仕方がないと思う。しかしそこまでひどくなかったのなら、むしろ高校生の息子が、それがいやだったらいやだという意思表示をして逃げ出すのではなく、いきなり家に放火するという行為になってその意思が現れてしまうことを問題にしたほうがいいのではないかと思う。

家に放火するという行為に至るまでは、おそらく長い間の行為の蓄積があったのだろうと思うが、その間じっと我慢して、いやだという意思表示がまったく出来なかったという状況にこそ問題があるのではないかと僕は感じる。どこかで、それがいやだということを主張してぶつかり合うことがあれば、いきなり放火をするというカタストロフ(破局)の発生は避けられたのではないだろうか。

そのような小さな軋轢を許さない絶対的権力を父親が振るっていたとしたら、その点は非難されるべきだろう。資本主義的には成熟社会になっているのに、そのような封建的な支配関係で自由を縛ってしまえば、今の時代には何らかの問題が発生するということを大人である父親は知らなければならなかっただろう。僕は、この父親が特にひどいとは思わないが、現代社会の特徴に関しては無知だったのではないかと感じる。

地震というのは、小さな地震でエネルギーを放出しておけば、いきなり大きな地震で被害が起こることはないという。それまでまったく地震がなかった地域に地震が起こると、溜め込まれた大きなエネルギーの地震になるために破局的な被害になるという。人間の精神的な危機もそうではないだろうか。

不満や恐怖というのも、小出しに出していることによって大きく溜め込まれることが防げるのではないだろうか。それをいつも押さえ込んで我慢していれば、それは大きなエネルギーを溜め込んでいくのではないだろうか。先の高校生は、もう父親を殺すしか自分が救われる道がないというほど大きなエネルギーを溜め込んでいたようだ。それが一気に噴出すれば放火をするというカタストロフになってしまうのだろう。

この犯罪事件を抑止するには、治安の強化は効果がないのではないかと思われる。むしろ、どうすれば小さなエネルギーの間に不満を吐き出して、それが大きくならないようにコントロールするかということが抑止の効果になるのではないだろうか。現在の、原因が特定できない犯罪事件の抑止には、それがカタストロフになるような大きなものになる前に、小さなうちに露見するような工夫をすることこそが大事なのではないだろうか。

このような効果を生むには、治安の強化に金を使うよりも、人間の心の研究に金をつぎ込んだほうがいいのではないかとも思うのだが、それはすぐに目に見えるような成果が現れないので、気分的には治安の強化のほうが安心できるように見えるかもしれない。それが治安問題で強いと思われる政治家のポピュリズムにつながるのだろう。さらに、治安強化の方向が大衆的な支持が得られるとなれば、そこに金が流れるということで利権が発生する。

学校に設置される監視カメラのことを考えれば、監視カメラ業界の利益はかなりのものになるだろうと思う。そうなれば、それが実質的には有効でなかったとしても、業界としてはどんどん監視カメラが設置されることを望むだろう。一度発生した利権を抑えて、無駄な金を使うのをやめるというのは、長野県の脱ダム宣言が、利権を持っている人たちの大きな反発を呼んだように、とても難しいことだろうと思う。

鶏と卵のようなジレンマを感じるが、今の治安強化の方向は、実質的には余り効果がない的外れな対策のように僕には見える。もっと実質的に有効な対策を考えることで、治安強化の方向がポピュリズムを失う方向を僕は望んでいる。治安強化の方向は、実質的には本当の意味で大衆的な不安を除くことには効果を生まないが、監視カメラの設置に見られるように、我々の監視や管理の強化には役立つだろう。国家権力が必要以上に肥大化する恐れがあると思う。

萱野さんの指摘によって、国家が強大な暴力である警察権力をもつことの必要性は理解できる。しかし、それが必要以上に肥大化することは弊害も生むのではないかとも感じる。その弊害は自由の制限に向かうのではないかと思う。治安問題は誰もが関心を持つものだが、気分的な不安を静める方向ではなく、実質的な安全を確保する方向はどちらなのかをよく考えたいと思う。それは、単純な警察権力の強化ではないと思う。