萱野稔人さんの国家に関する考察を方法論として読んでみる


萱野さんの国家論というのはたいへんユニークで面白いものだと思う。国家論というのは、どちらかというとこれまではマルクス主義的な観点から論じられたりすることが多く、イデオロギー的な前提を強く持っていたように感じる。国家というものが民衆にとってどのような存在である「べき」かという「べき」論の観点から語られることが多く、対象の客観的認識よりも価値判断のほうが先行してきたように感じる。

マル激で宮台氏が語っていたが、「べき」論で考えてもいいのだが、それが現実にそうなっていなければ、いくら「べき」論を主張してもあまり意味がないということが出来る。価値判断的に、そのような方向である「べき」だと考えたとしても、現実には客観的法則性を認識して、その法則に従う方向で変革を考えなければ「べき」も実現しないと考えなければならない。

価値判断よりも客観的認識のほうを優先させて、まずは対象理解を徹底させるというのは、理科系にとってはごく当たり前の科学的な発想だ。それは、理解系の対象が自然科学的なものを基礎にしているので、価値判断をせずに考察の対象に出来るということもあるのだが、社会科学に関しても、それが「科学」と呼ばれるのなら同じような発想をするというのは、理科系にとっては極めて分かりやすい。萱野さんの論説に心惹かれるものを感じるのはそのせいだろう。

萱野さんは『国家とは何か』(以文社)と『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)の2冊の本で国家について論じているが、後者は前者の続編のようなものだという。出版の期日を見ても前者のほうが先に発行されている。また、その内容も、前者が基礎的な理論を語っているのに比べて、後者は具体的な「カネと暴力」というものがどのように社会に現れているかという現象の解釈を語っている。

だから順番としては『国家とは何か』から読んだほうがいいのかもしれないが、僕はたまたま『カネと暴力の系譜学』のほうを先に手に入れてこちらから読んでいる。これは、理解の仕方としてはこちらのほうがよかったかもしれないと思っている。基礎理論というのは、かなり抽象的な議論をしなければならないので、一度そのことをある程度理解してから行きつ戻りつしながら読んだほうが理解が深まるような気がする。それに比べて、具体的なものに沿って解説したものは、その具体的なイメージが理解の助けになって分かりやすくなる。

具体的なものを助けとしてイメージを作りながら理解し、その理解の下で基礎理論的なことを見た方が理解としてはしやすいのではないかと思われる。理論を展開する人間にとっては逆の方向が、理解という教育面ではかえって有効になるというのは、これもまた面白いことではないかと感じた。教育の方法論としても、萱野さんの本は読めるのではないかと感じた。

さて、考察を進める方法として、国家についてどのように考えていくかという観点で、『カネと暴力の系譜額』に書かれた文章を読んでみようと思う。萱野さんは、国家が税金を徴収する面を見て、それを「他人から金を奪う」現象であると捉えて考察を進める。このような捉え方に対して違和感を感じる人もいるだろうと萱野さんは予測している。

税金の徴収というのは、多くの人にとって正当な行為のように映り、「他人から金を奪う」という、どちらかというと犯罪的なものだというような言い方に違和感を感じる人が多いだろう。この違和感は、価値判断が認識に先行しているために起こると思われる。しかし、価値判断を抜いて、税金が徴収されるという現象だけに注目して、その本質を抽象していけば国民が所持している金の一部が国家のものになるというものが見えてくる。これを「徴収する」というか「奪う」というかは表現の問題であって、同じことを語っている。「奪う」という言い方が、道徳的な価値判断の観点から見て認められないというのは、認識の方法としては問題があるだろう。

このような観点を認めることに免疫性をつけるためにも、「徴収する」といわずに、あえて「奪う」という表現を使っているようにも見える。そして、この「奪う」という表現を使うことによって、国家でないものが同じように「奪う」という行為をしたときの違いを考察するきっかけをつかむことも出来る。これを「徴収する」という表現を使えば、国家以外に「徴収する」行為をすることが出来るものが見当たらないので、国家の特性を抽象することが難しくなり、考察の方向が展開するようなものになりにくいのではないかと思われる。あえて「奪う」という表現を使うというのは、方法論的にも受け止めることが出来るだろう。これは、税金の徴収という行為を、さらに上位の抽象をしたときに得られるものではないかと思われる。その行為が正当であるかそうでないかということが捨象されているのだと受け取ったほうがいいのではないかと思われる。

税金について、国家がそれを徴収するという見方から、我々がそれを納めるという国民の側からの見方に変えていくと、多くの国民はそれが大切なものであるという考えから自発的に納めているのだと考えられる。国家は、国民のためになるような政治を行うことによって、社会に貢献し・国民に貢献しているという正当性があるからこそ税金を納めるということの正当性が出てくるというわけだ。自発的に税金を払うという、国民一人ひとりの意識が税金の徴収ということの考察で一つの要素として取り上げられていると思われる。

この「意識」というものを考察の中で取り上げる(抽象する)か、無視する(捨象する)かは、方法論として重要ではないかと思われる。「意識」を取り上げることが価値判断の先行にかかわってくるように思われるからだ。萱野さんは、国家の考察においては、この「意識」を捨てて考える方向で考察を進めている。『カネと暴力の系譜額』では次のように書かれている。

「もちろん、気持ちの上では自発的に税を納めている人はたくさんいるだろう。しかしそれはあくまでも、納めることが強制されているという枠内での自発性でしかない。
 社会の中には喜んで税を納める人もいれば、いやいやそれをする人もいる。そうした各人の動機の違いを超えて税の徴収を可能にしているのは、それが強制的なものだという事実である。」


税の本質にとって動機を重視すれば、自発的に支払うものこそが税だという発想になるだろう。いやいや取られるようなものは税ではない、あるいは不純な税だという捉え方になってくるだろう。価値判断が認識に先行していることになる。しかし、自発的だろうとそうでなかろうと、税として徴収された金の使い方が変わることはないだろう。どちらも結果的には税として機能する。そうであれば、この意識の違いを重視する必要が果たしてあるだろうか。その意識の違いは本質とはかかわりのない、偶然的な属性ではないのだろうか。

税の徴収の本質を見ると、それが強制的なものだから徴収できるということが見えてくる。強制的なものでなければ徴収が出来ない。自発性という意識よりも、強制的かどうかということのほうが、税の徴収にとってそれが可能かどうかの判断にかかわってくる。つまり、そこで行われている行為が「税の徴収」という正当な行為なのか、単に「金を奪う」という不当な行為になっているかの判断にかかわってくる。そうであれば、このことこそが本質にかかわっているといえるのではないだろうか。

このあたりの考察を、萱野さん自身の言葉では次のように書いている。

「税が徴収されるのは公共のためだ、としばしば言われる。税金を自発的に支払っているという人は、おそらく、税は公共のためのものだという理由からそうしているのだろう。国家が税の徴収を正当化するのも同じような理由からだ。
 しかし、どのような理由で根拠付けられようとも、税が強制的なものであるということ自体は変わらない。君主のためであろうと、公共のためであろうと、さらには国民自身のためであろうと、そうである。
 税を成り立たせているのは理由ではない。強制的にカネが持っていかれるという点に税の基盤はある。」


最後に語られている「税の基盤」というものが萱野さんのここでの主張のポイントだろう。気分的には、税が徴収されることの正当性を納得しなければ、単にカネが持っていかれることだけに注目するのは、国家に不当な仕打ちを受けているように感じてしまう。だから、その気分をすっきりさせるために、税の徴収の正当な「理由」が欲しくなる。

その「理由」は、自分の価値判断という心の問題として生ずるのであって、税という現象に付属している属性として客観的に観察されるものではない。客観的に観察できる現象は、「強制的にカネが持っていかれるという点」であり、この事実性こそが「税の基盤」である、すなわち税の本質なのだという主張だというふうに僕は読んだ。

この考察は、方法論的にも面白い。価値判断が先行して、客観的な認識が価値判断を揺さぶるようなとき、価値判断を守るために「理由」を探さなければならないという「論理的強制」が働くように見えるからだ。「論理的強制」というのは、三浦つとむさんがよく使った言葉で、ある種の前提を無意識のうちに持っていながら考察を進めると、その前提から論理的に導かれる結論が、考察の全体を支配してしまうというのが「論理的強制」だ。

経済学における自由主義のように、自由こそが正しいという前提を持っていると、どのような問題が生じようとも、それは自由が侵されているからだという発想で対象を見るようになる。それは、自由こそが正しいという前提から導かれる「論理的強制」のように思われる。

税の徴収が強制的になされるのは、国家に何らかの正当性が存在して、その正当性ゆえにという「理由」で税の徴収が肯定されるのではない。むしろ、事実として税の徴収が強制的になされるというものがあって、それが強制的になされなければならないという現実性が、それを正当化する理由を要請するのだと考えるほうが、客観的に正しい見方だといえるだろう。

萱野さんは「国家はもともと「軍事的捕食者」であった」と書いている。つまり、もともとは強盗と変わらない犯罪的な起源をもっているのが国家なのだ。しかし、それが強盗のような犯罪者ではなく、「カネを奪う」ことの正当性を見つけることが出来て国家となっていく。価値判断を先行させない国家の認識はそういうものだろう。

このように国家を捉えると愛国心の問題も簡単になる。とてもじゃないが、このような単なる機能に過ぎないものを愛せよといわれても困ってしまう。愛する対象は国家ではないのだ。パトリとも呼ばれる郷土などの精神的対象こそが愛の対象になるものだろう。

価値判断と認識を区別するというのは、イデオロギー批判の方法論として有効なのではないかと感じる。その区別を混同してしまうと捨象と抽象にゆがみをもたらすというのは、方法論的に一般化できるのではないかと思う。マルクシズムやフェミニズムという「イズム(主義)」の批判に有効性を発揮するのではないかと思う。応用してみようと思う。