資本主義的搾取の不当性


萱野稔人さんは『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)の中で、資本に関して「他人を働かせて、その上前をはねる」ということとの関連を語っている。これは、かつてのマルクス主義的な用語で言えば、「資本主義的搾取」と呼ばれるものになるのではないだろうか。

マルクスは、この「資本主義的搾取」が、資本主義に本質的に伴うものであることを証明した。萱野さんがここで語っていることも同じことのように見える。「他人を働かせて、その上前をはねる」という行為を伴わない資本主義などは考えられないという記述が見られる。萱野さんは、

「企業の仕組みを例にとろう。企業とは、まとまったカネ(資金)をもとに事業を起こし、従業員を雇って利潤を上げようとする経済主体のことである。
 この場合、企業は売上のすべてを従業員に給与として与えることはない。ある程度の売上は、事業をさらに展開するための資金として(あるいは出資者への配当として)ストックしておかなくてはならないからである。利潤を上げることが目的である以上、事業が展開するにつれ、資金は最初の額より増えていかなくてはならない。」


と書いている。資本主義的生産は、大量生産によるコストダウンを目指す。その大量生産のためには、設備投資という資本投下をしなければならない。その資本投下の金は、最初は起業家が請け負うが、いったん企業が動き出して資本主義的生産のサイクルに入れば、その生産によって得られる利益の中から資金を供出していかなければならない。

このときに、利益のすべてを労働者に支払ってしまえば、資本主義的な発展はそこで止まってしまう。資本主義というのは、発展が止まるとそれを維持することさえできなくなるというシステムなのではないかと思う。常に資本投下をして発展しつづけなければならない資本主義は、労働者の上前をはねて、その分を資本投下に向けなければならないという意味で、「搾取」という行為が恒常的に存在するといえるのではないかと思う。

マルクス主義は、この資本投下のコントロールを国家が統制することによって、労働者への富の分配を適切に行うことで労働者の平等化を目指したものだと思われる。しかし、このコントロールは国家にはできなかったというのが、社会主義国家の経済的破綻として現れたのだと思う。資本投下のコントロールは、適切に行った企業が成長し、それを間違えた企業が衰退して退場するという、市場の自由によるコントロールのほうが合理的だということが証明されたのだと思う。

資本主義的搾取は、資本主義を続ける限りでは避けられないものだ。そのような意味では、価値判断とはなれて、客観的に現象として存在するものだと捉えることも出来る。この認識を価値判断と切り離すことも出来ただろう。しかし、「搾取」という、どちらかというとそれは不当なものだというような価値判断と結びついた用語がマルクス主義では採用された。

おそらく、マルクスの時代には、資本主義的搾取のマイナス面しか社会に現れていなかったのではないかと思う。資本主義発展のために必要な額以上のものが資本家に独占されて、労働者はやっと生きていくだけのものしかもらえなかったという状況が、搾取に対する不当性のイメージに結びついたのではないだろうか。このような時代に、搾取にも正当なものがあるという発想をする人間は、おそらくひどい資本家と一緒の側にいるとんでもないやつだと思われたことだろう。

しかし、価値判断と認識を切り離して考えれば、そのような発想も生まれる。これは三浦つとむさんが「差別」というものを論じたときの発想も同じものだ。三浦さんが「差別」を論じたときは、「差別」そのものが不当性を持っていて、すべての「差別」が糾弾の対象だった。しかし、三浦さんは、そのような価値判断を先行させるような発想を捨てて、「差別」こそが言語表現の基礎にあるもので、言語表現は「差別性」を免れることができないということから論理の展開をスタートさせた。そして、「差別」の中に、正当なものと不当なものを区別するという発想で、不当なものは糾弾されなければならないが、正当な「差別」を糾弾するのは間違いだという展開をしていた。

正当な「差別」という言い方は、「差別」はすべて悪いものだという価値判断を先行させる人間には受け入れがたいものだろう。それは「差別」ではなく、「差異性の現れ」あるいは「区別」であると言いたくなるかもしれない。しかし、この両者の表現は、対象の属性を観察した結果を示しているだけで、その差異を示しているという状態に応じた「行為」を伴う概念を表現しているとは言いがたい。

交通運賃において大人と子どもを区別するのは料金表の違いに現れている。この料金表に現れたものを「区別」あるいは「差異性の現れ」と呼んでもいいだろう。しかし、その料金表にしたがって、違う運賃を徴収するという「行為」は、単に区別しただけではなく、「行為」を伴う「差別」だと捉えたほうが概念的にも正確だろう。そして、これは正当な差別である。この「差別」は、平等化して、大人も子どもも同じ料金を徴収するということのほうが不当になるのではないだろうか。

「上前をはねる」という搾取の事実を、このように表現することに、価値判断が先行する人はやはり感情的な反発をするかもしれない。反資本主義的なイデオロギーを持っている人は、資本主義が悪いというイメージになるような「搾取」という言い方に反発しないだろうが、資本主義に価値を見出している人は、正当な企業活動に対して、「上前をはねる」という搾取だという指摘に反発を感じるかもしれない。これは、正当な「差別」という言い方に反発する感情とよく似ているのではないかと思う。

これに対して萱野さんは次のように書いている。

「しかしこの反発は感情的なものでしかない。
 どのような言い方をするにせよ、他人を働かせてその成果の一部(ないしは全部)をかすめるという手続きがなければ、もともとあった資本が増殖するということはあり得ない。この点では、まっとうな企業も悪質な企業も変わりがない。両者の違いはただ、働かされる人がどれぐらい納得していて、どれぐらいの上前がはねられるか、という「程度の違い」だけである。」


「まっとう」か「悪質」かという違いは、資本主義の本質から見ればその違いは捨象されるということがここで語られている。つまり、それは資本主義にとっては偶然性であって必然性ではないということが指摘されている。「まっとう」な企業でなければ資本主義的でないとは言えない。もちろん、資本主義的な企業がすべて「悪質」だとも言えない。価値判断とは関係なく、「上前をはねる」ということは、資本主義においては、それなしには企業としては存在し得ないという必然性なのだということだ。

本質を考察することにおいて、その本質にとって何が必然性で、何が偶然性なのかを考えるのは、方法論としては非常に重要になると思う。そして、必然性が抽象されて、偶然性が捨象されることで理論というものが構築されていく。萱野さんの考察では、「まっとう」か「悪質」かという属性だけでなく、それを示す指標である「程度の違い」さえも、資本主義の本質においては捨象される属性となる。萱野さんは次のように書いている。

「とはいえ、程度の違いを超えてその仕組みだけを見れば、上前をはねるという手続きそのものはあらゆる企業活動の基礎にある。ひどいケースを問題にすることとは別に、この点は認めなくてはならない。」


この点を認めるかどうかで、価値判断と認識を切り離せるかどうかということが大きくかかわってくる。それを切り離せないメンタリティを萱野さんは「ナイーヴ」という言葉で表現している。これは宮台氏などもよく使う言葉で、日本語で言い直せば「素朴」という言葉に対応するものだろうか。短絡的に感情と結びついてしまい、よく考えて到達した認識ではなくなる。

萱野さんは「しかしナイーブな発想にとどまっている限り、社会の仕組みを理論的に把握することは決して出来ない」と指摘している。これは噛みしめる価値のある指摘だろう。社会というのは、個人の認識がそのまま肥大して大きくなっただけのものではない。感情と直結するようなナイーヴな感覚は、社会と個人の構造の違いを発見するという「理論的な把握」は出来なくさせるだろう。

仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、資本の発明のすばらしさを語っていた。このような発想は、マルクス主義的なイデオロギーを持っていたら決して生まれてこないだろう。資本主義というのは、大量生産によるコストダウンで物質的な豊かさをもたらすシステムだ。物を個人がバラバラに作っていたような時代は、生産にかかるコストが高くなり、人間は生産活動に従事する時間が長くなり物の豊かさは実現されなかっただろう。

資本というメカニズムが発明されて、多くの人の協働体制が作れるようになると、一人で作るよりもたくさんの物が作れるようになり、物の値段が下がる。物の値段が下がると、その物を買える人も増えていき、社会の総体としての豊かさが増大していくことになる。

マルクスのころの初期資本主義においては、社会全体が豊かになるというよりも、一部の資本家が富を独占しているという状況が見えやすかったのではないかと思う。このような時代に資本主義のすばらしさを語れば反発を受けただろう。だが、資本主義は、一部の金持ちに富が集中したのでは発展することが出来ない。大量生産されたものは、大量消費をしてサイクルをまわさなければ、資本主義は発展していかないのだ。

大量消費を前提とした大量生産は、結果的に社会に豊かさをもたらす。資本主義で成功する人間は、他人の裏をかいて富をかすめとった人間ではなく、大量消費のルートを見つけて大量生産したものを売り切った人間になることで資本主義は発展した。資本主義は、資本家だけでなく、労働者をも豊かにすることに成功した。このことが、社会主義の必要性を消してしまったのだと思う。むしろ、社会主義は、市場淘汰という合理性を持たなかったために豊かさの実現に失敗したといえるので、資本主義が提供する豊かさの前に敗北したといっていいのではないかと思う。

資本主義は、分業というシステムの合理性も証明したのだと思う。そして、合理的な分業システムを作るためにも、資本の発明は貢献したのではないかと思う。分業が社会を発展させるという面では、フェミニズムの攻撃の対象になっている男女の分業のシステムというのも、価値判断と切り離して認識してみる必要があるのではないかとも感じる。人間は長い歴史の間、ほとんどずっと男女の分業体制を社会的に作ってきた。そこに合理性を見出すにはどうすればいいのか。男女の分業体制に、男の不当な支配欲のみを見るのは、価値判断が先行しているのではないだろうか。その前提から出発するという面がフェミニズムというイズム(主義)にはないだろうか。価値判断と切り離して、その存在の合理性のみをまずは認識したいと思うものだ。不当性の考察はその後にしたほうがいいのではないかと思う。