他者の報告(言語による表現)の真理性はどこで判断するか


最近気になっている問題は、他者の報告の真理性の問題だ。特に、言葉で語られたことに対して、それが正しいことをどうやって確かめるかという問題を考えている。言葉で語られたことは、意図的な嘘である場合もあるし、勘違いをしているときもある。他者の言葉を信じる基準というものをどこに置くかという問題は案外と難しいものだと思う。

他者の表現が論理的なものである場合は、それが論理的に正しいかどうかを判定することは可能だ。複雑な場合はやはり難しさはあるものの、それが判定不可能だということは原理的にはない。問題は、その表現が論理的なものであるかどうかという判断だろう。論理的な表現は、真か偽かがどちらかに決められなければならないので、いくつもの解釈を許すような表現であっては困る。その表現の解釈が明確に一つに定まって、その解釈の論理性を検討できるようなものであれば、論理を判定することは出来る。あるいはいくつかの解釈を許すものであっても、場合分けが出来て、その場合については明確に意味が一つに定まるなら論理的な取扱いが出来る。

問題は事実性を巡る表現の場合だ。ある事柄の報告が事実である、確かにそういうことがあったというものであった場合、それが正しいことをどうやって判断したらいいかということだ。これは原理的には不可能だということを宮台氏が語っていた。

宮台氏がよく語る例は、自分自身を宮台真司であるということを事実として証明しようとしても、それが出来ないということだ。例えば何らかの身分証明書を持って証明しようとすると、その身分証明書が本物であることを証明する必要が出てくる。つまり、自らを宮台真司であることを証明することが、身分証明書が本物であることの証明に入れ替わるだけで、証明そのものは少しも前進していないということになる。

誰か、宮台真司という人物を知っている人に証明してもらおうとする場合も同じだ。例えば大学の職員に証明してもらおうとした場合、今度はその人物が大学の職員であるという事実の証明が必要になってくる。事実の証明の場合は、因果関係の連鎖のようなものの絶対的な出発点が見つからず、無限に後退してしまう。証明が完結することがないので、原理的に事実性の証明ができないというのが宮台氏の説明だった。

これが論理性の問題であれば、例えば今の問題は次のような論理の問題に帰着する。

 ある人物が大学の職員である 
     ↓(ならば)
 ある人物が宮台真司氏であることを証明できる


この論理には、さらに細かい前提として、大学の職員ならば、宮台真司氏が誰であるかを知っているということが論理的に設定されている。そのような前提があれば、論理的な帰結として、誰が宮台真司氏であるかが判定できる。しかし、論理の前提である、その人物が大学の職員であるかどうかという事実性は、論理の範囲では証明できないものとして現れてくる。

事実性は論理では証明できない。それは論理が扱う範疇の問題ではないのだ。しかし、事実性というのは論理の出発点である前提の成立にかかわってくる問題だ。論理が直接扱う範疇ではないとしても、それが正しいか間違っているかは、論理的な帰結に大きくかかわってくるので、論理にとって無視できない問題でもある。そこで、事実性の判断というものを、論理が判断できないのであれば、どのような基準で判断するかを考えなければならない。

このような問題意識が生まれたのは、沖縄の集団自決の問題で、それが日本の軍隊によって強要されたということが事実だったかどうかを巡って対立する見解が存在することを知ったからだ。今までは教科書の記述などでは、日本軍が住民に自決を強要したというような記述が見られたようだ。つまり、強要したのは事実だったと考えられていたらしい。

それは、集団自決した人々の中で生き残った人の証言があったことで、それが事実だという判断がされたようだ。つまり、他者の証言が、事実であるかどうかを決定したと考えられる。しかし、その証言をした人が、実はその証言が嘘だったことを告白したということがあったらしい。それは、嘘をつくだけの理由があったのだということが報告された。「沖縄集団自決の「軍命令」は創作だった」に詳しくかかれている。

最初の証言が嘘だったということを当事者が語っているのだから、自決の強要はなかったのだという判断をしたくなるが、それは果たして事実としてそう判断してもいいものになるだろうか。確かに、その証言者は、強要をした場面を見ていなかっただろうが、どこか他のところでも強要をしていなかったということの事実性は、その証言だけからは出てこない。以前語ったことが嘘だったということは、その反対が真理だということを必ずしも意味しない。強要の場面を、単にその証言者が見なかっただけであるか、あるいは強要の場面があったにもかかわらず勘違いしていたという可能性も残る。自分が証言したことについては、嘘であることは確認できるが、そうでないことについては確かな証言は出来ないのではないだろうか。

事実性の確認は、証言だけからは出来ない。他者の証言が信頼に足るものであるかどうかは、証言を積み重ねることでは得られない。それは蓋然性の高さ(信じるに足るものであるかどうか)を論理で判断するしかないのではないかと思う。

自然科学の場合は、他者の証言は、科学として語られた言語表現の真理性として考えられる。これは、抽象理論の範囲においては、言語の論理性の問題になるので事実性は入ってこない。抽象理論の範囲では、抽象化された対象に成立する法則性の記述になる。だから、抽象化された対象がどのようなものであるか明確に定義されていれば、その定義の範囲の性質のみを持っている対象が従う法則性が論理的に導かれる。これは、真理性が論理の範囲だけで確定することを意味する。

自然科学が、この抽象論理の範囲から、現実との結びつきをもって法則性の成立を主張するときは、実際に実験によって現実との結びつきが確認される。この実験で確認されるということが、科学における信頼性を生み、抽象論理の範囲だけでなく、現実との結びつきという事実性においても、その記述が信頼できるという判断を生む。科学の場合は、証言だけではなく、実験によって確かめられるということが信頼性の高さを生む。

しかし、普通の人にとっては実験できないような複雑な理論もある。そのような場合は、我々は科学者の証言を信じるしかない。仮説実験授業でも、自分たちが確認できるような法則性については実験をするが、大掛かりな装置を必要とするようなことに対しては、読み物として科学者の話を記述することでその真理性を伝えている。これは、科学者の話を信じることによって真理性を確認していることになる。

これは、科学者の証言は、信じるに足るだけの蓋然性を持っているからだと思う。科学はその真理性を提出するときに、必ず追試できるような形で出される。それは、普通の人では出来ないような追試でも、専門家であれば出来るような形で提出される。その実験が、それを提出した人だけが、世界で一人だけ出来るような実験であった場合は、科学者はそれを信用しない。追試できないような実験は捏造を疑われてしまうのだ。

これは、同じレベルに到達している科学者が複数いることが重要なのだろうと思う。科学者の証言の信頼性は、追試できるレベルにいる科学者がたくさんいることで担保される。嘘や勘違いは淘汰されるという信頼感が基礎にあるので、言葉による証言だけであっても、我々は深い信頼を持つことが出来る。

科学における証言の信頼性は、実験による追試の可能性が支えている。板倉さんの実験観では、自然科学だけでなく、社会科学においても実験が出来ると考えるので、社会科学においても、同じように科学者が語ることの証言の信頼性が得られるはずだ。しかし、追試ということの意味が、社会科学においてはまだ確立されていないので、自然科学ほどの証言の信頼性の高さはまだないように感じる。

社会科学においても、対象を抽象化して、現実の属性を捨てていけば、その法則性は論理の範囲だけで求めることが出来る。問題は、その抽象理論がどれだけ現実にうまく合うかという問題だ。そこに事実性の問題が入り込み、証言の信頼性という問題が生まれる。社会科学者が言うことをどこまで信じることが出来るかという問題だ。

自然科学者のように、社会科学者が、誰もが同じように追試できる形で理論を語っていれば、同じレベルにいる科学者の間で嘘や勘違いは淘汰されていくだろうが、どうもそれはまだそのようになっていないようだ。社会科学者の語る事実性は、まだそこまで信頼が高まっていないようだ。

抽象理論である社会科学においてもまだこの段階にとどまっているとすれば、歴史的事実に対する蓋然性の判断は、証言だけではまだ信頼性を確認することは出来ないと考えなければならないだろう。証言を補う、論理を使っての思考実験で信頼性を考える必要があるのではないだろうか。

沖縄における集団自決で、軍の強要があったかどうかの問題は、一つの証言だけで判断できる問題ではなく、当時の状況の全体性から推測される蓋然性を考えることで判断すべき問題ではないかと思う。そう考えると、日本軍が基本的にどのような性格を持っていた軍隊であるかをよく知らなければならないのではないかと思う。

僕が今まで持っていた日本軍に対するイメージは、非科学的・体育会系的な恣意的暴力・上意下達の徹底した非論理性・剥き出しの暴力性、などというマイナスイメージが強かった。このようなイメージを持っていると、自決の強要をしたということのほうが高い蓋然性を持って感じられてくる。しかし、違うイメージを持っていれば、この蓋然性はまた違ってきてしまう。

僕が持っていたようなイメージは、日本軍の一面を見ればそのようなことが見られるのではないかと思う。しかし、それが一般的な特徴だということが本当に言えるだろうかということに最近は疑問を感じている。硫黄島の戦闘指導者である栗林中将を見ると、このような日本軍に対するイメージが違ってくる。また、日清・日露における日本軍の強さを見ると、上のようなイメージで捉えていると、その強さがまったく理解できなくなる。

日本の軍人の中には、非常に立派でりりしい青年が多くいたことも感じる。日本の軍隊は、マイナスイメージだけではなく、多くのプラスイメージを感じさせるものもあったのではないかと思える。問題は、そのような軍隊が、ある状況下においてはとんでもなく腐敗した面を見せてしまうという原因をどこに求めるかということが、日本軍の一般的イメージの正しい理解に必要なのではないかと感じるようになった。日本軍の本当に正しい姿という事実性を捉えることが出来ないものかと思う。

なお僕は、「座間味島・梅澤少佐の場合」として語られている問題に関しては、

「では、なぜ村の長老たちは宮城さんにウソの証言をさせたかといえば、厚生省の方針で、非戦闘員が遺族年金など各種の補償を受けるには単なる自決では足りなく、軍の命令があった場合にだけ認められるという事情があったからだ。座間味村(そん)の遺族が国から補償を受けるためには、ウソでも軍の命令で集団自決したという証言が必要だったのだ。」


と報告されている判断が蓋然性が高いと感じている。このように解釈したほうが論理的につじつまが合うと思われるからだ。しかし、沖縄において集団自決の強要がまったくなかったかどうかは、日本軍の本当の姿ということから蓋然性を考えなければならないのではないかと思っている。