実数の連続性


実数の連続性に関しては、数学的にはデデキントの切断という考えを使うことが多い。これは、その発想が「連続」というイメージによく合うからだろうと思う。これは、直感的に言ってしまえば、実数を大きさの順に一直線に並べたとき、その直線のどの部分を切っても(任意の場所でということ)そこには隙間がない・すなわち実数が存在しているというイメージになる。

もし切断した部分に実数がなかったら、一直線に並べた実数の点は隙間があることになる。そうなれば、そこで切り離された状態になっていたことになるだろう。つまり連続ではないということになる。どこで切っても隙間がないということが連続であるということの確認になるわけだ。これは、無限に多くの点を持っている実数を対象にした場合は、連続性の確認が実無限の把握というものを伴ってくる。これは現実には人間には確認できない事柄になる。

現実の連続性の確認は、誤差を含んだ判断として連続であるか否かを判断することになるだろう。見た目に隙間が見つからないという連続性であれば、人間が目で判断できるもっとも短い幅を持ったナイフで空間を切ったときに隙間があるかどうかという判断になる。その短い幅の間は、視覚によって二つの点を区別することが出来ない限界になっているので、たとえ隙間があったとしても隙間としての判断ができない。つまり、隙間が存在しないということになって、それは連続だということになる。

現実には、視覚で判断できる限界を超えた隙間は確認できないので、それはすべて連続だと判断されるようになるか、現実には連続というものは、確認される限りでは存在しないが、確認できない対象に対しては判断できないので、連続である可能性だけは残るという判断になるだろうか。

物質を構成する最小単位として考えられた原子においても、それを構成する電子や陽子というもっと小さいものが考えられている。それらは、人間が視覚で判定できる限界を超えた小ささを持っている。顕微鏡でもそれを見ることが出来ない。それを見ることが出来れば、陽子と電子の間にある隙間を確認することが出来て、現実には連続という存在はないのだと判断することが出来るだろう。

しかし、これらが確認できないということは、これらが誤差を含んで連続の範囲にあると考えることも出来る。粒子性が不連続のイメージとつながり、波動性が連続のイメージにつながっているように感じる。波動性として粒子を捉えた場合は、隙間があるかどうかを確認できない。隙間がある確率・逆にいえば電子が存在する確率を示すことしかできないので、隙間があるかないかという二者択一的な判断ができない。つまり、連続性の実際の確認が出来ないことになる。この場合は、形式論理としては、どちらかに決めてしまって理論展開を図ることになる。どちらでもないという状態にしたままでは、形式論理としては扱えなくなるだろう。形式論理としては、どちらであるかは確かなのだが、それは確率的にしか言えないという前提でそれを見ることになる。

数学は現実を対象にしたものではないので、切断のナイフの幅も無限に小さくすることが出来る。その無限に小さい幅のナイフで切断したときにも、必ず一つの実数にぶつかるというのが、数学における実数の連続性のイメージになるだろうか。これは、現実的な連続性における、視覚で判断できる限界というものを抽象して、限界をなくした形での連続性ということになる。この限界を超えたナイフの切断では、どちらか分からないということは原則としてはあり得ない。形式論理を適用する限りではどちらかに決めなければならない。肯定と否定のどちらでもないという排中律の否定は出来ない。無限に薄いナイフであるから、それは二つの実数を区別できるはずであり、その間に隙間があるかないか、どちらであるかが判断できることになる。

しかし、この作業は、ナイフが無限に薄いものであれば、確認の手順も無限の手順を踏んで行われることになる。この手順は次のようになるだろうか。まずは有理数を順番に並べたものを考える。有理数というのは、整数を分数の形にしたものとして定義できる。それは無限にたくさんあるものだが、構成的に作り上げることが出来るので、可能無限として任意に有理数を取り出すことができるという、形式論理で扱うことが可能な無限になる。

実数を並べたものを切断したとき、その中にその切断された実数に近い有理数を見つけることが出来る。これはどこでもいい。それをだんだんと切断された実数に近づけるということをする。この手順で、その切断された実数が有理数とぴったり一致すれば、それは有限の手順で終わり、切断されたところに隙間がなかったことが肯定的に判断される。しかし、有理数と一致しない時は、その手順は無限に続くことになり、無限の果てにそこに隙間があるかないかが判断される。これは無限の果てであるから、現実には人間には行うことが出来ない。現実には出来ないことが正しく結論されるかどうかということが問題になる。

実際の数学では、有理数と一致しない実数のことを「無理数」と呼んで、切断された部分には「無理数」が存在しているのであって、隙間がないことが肯定的に判断される。しかし、これは作業の結果として得られた肯定判断ではない。作業は無限の果てに結論されるのであるから終わりがない。いつまでも結論が言えないというのが原理的なものになる。

√2が有理数で近似される過程というのを想像してみると、それは、まず

    1<√2<2

という範囲で、√2に近い数字を見つける。これをだんだんと近づけていく。

   1.41421356 < √2 < 1.41421357

この作業はどこまでも行われる。√2は一致する有理数は存在しないことが証明されている。それが存在すると、矛盾律に反するため形式論理そのものが破綻してしまう。だから、形式論理で理論展開をしていく限りでは、それは有理数と一致してはいけないのである。だから、この作業は無限の手順で行われる。結論として切断された部分が√2であるかどうかは、無限の手順を続けていたのでは結論が出せない。ゼノンのパラドックスが成立してしまう。どこまでいっても√2には到達しないのである。

現実には、数学の世界といえども実数の連続性を確認することは出来ない。無限の手順を把握して結論を出すということが出来なければ連続性の確認が出来ない。そこで数学は、この連続性を考察の結果として提出するのではなく、実数の把握の前提として置くという逆転した発想をする。実数が連続していることは、数学においては公理という前提になる。

数学は、実数が連続していることを前提として理論展開したとき、それが形式論理を破綻させない展開をしていれば、数学として整合性があるものだとして解釈する。今のところは整合性が取れているので、数学は数学として完結した世界を作っているのではないかと思う。もっとも、整合性を破るような事態が発見されると、そのようなものが起こらないように制限を設けて、整合性を保つ工夫をしてきたのが数学であるともいえるかもしれない。

実数の連続性というのは、素朴に考えると、実数という実体がどこかにあって、その実体が持っている属性として連続性が確認されるというイメージがあるのではないかと思う。人間が現実に存在するものを対象として考察する時は、そのような手順を踏んで考察を進んでいくだろう。

しかし数学の場合は、現実に存在するものを抽象して、形式論理的な扱いが可能な対象に加工して理論展開をするという性質がある。実数の場合も、現実に存在する物質に対応した量から抽象されて、それが連続性という性質を持つものとして改めて設定しなおされて数学の対象になる。

実数の連続性というのは、考察の結論として提出されるものではなく、理論の出発点として設定されるものになる。数学の場合は、形式論理の特殊な形として、数学独特のある前提から形式論理で導かれる結論がどのようなものになるかが重要になる。それが、結論として導かれるかどうかということよりも、ある前提を持ったときに論理的に帰結されるという構造になっているかの方が関心の対象になる。それが結論であるか、前提であるかということはさして重要ではない。重要なのは、形式論理に従った考察でつながっているかどうかということなのである。

数学は、現実存在から完全に離れてしまった抽象性を持っているので、このようなことが数学の特徴となる。数学を利用している自然科学やその他の科学においては、現実の条件から、何が前提とされるかの妥当性が問題になってくる。数学においては、連続性や無限が前提とされても、現実世界ではそれが前提には出来ない場合があるだろう。それを前提にしてしまえばゼノンのパラドックスを引き起こす。現実には抽象的な意味での無限は存在しないということが前提になるのではないだろうか。

原子論というのは、現実には無限が存在しないということから必然的に導かれるものではないかと思う。もし、物質がどこまでも分割可能な連続したもので、無限に小さいものに出来るとしたら、それで一定の大きさを持つものを割り算すれば、答は無限に大きくなっていくと結論しなければならなくなる。物質を構成する要素が無限にたくさんあるとしたとき、それが有限の大きさに収まると考えれば矛盾したケースが引き起こされる。ゼノンのパラドックスの本質はここにあるのではないかと思う。

無限に小さいものは、無限に寄せ集めたとき、極限として有限の範囲に収まるときもある。数学ではそのような計算も出来る。だから、ゼノンのパラドックスも、「アキレスと亀」などは追いつく時間の計算が数学的に意味を持つのであって、極限の問題に解消されるという解釈も出来る。しかし、問題は、無限に小さい存在の把握と、それを無限に集めて合成するという作業が現実にできるかどうかというのがゼノンのパラドックスで提出されていることではないかと思う。

現実にはそれが出来ないのだとすれば、現実の存在は無限に小さく分割できるのではなく、最小単位が存在するというのが、論理的な帰結として得られるだろうと思う。最小単位の存在というのは、現実に確認できることだろうか。僕は、それは出来ないのではないかと思う。人間の認識には限界があるので、その限界の範囲内においては最小であることは確認できるけれども、それより小さい存在がないという判断は、絶対的なものにはならないのではないかと思う。それ以上はもう確認できないので、存在するかどうかを考えても意味がないということなのではないかと思う。

現実存在の物質的な最小単位が存在するというのは、現実には確認できないことだけれども、それを前提にして物質を考察すれば、形式論理に反するようなことがまだ観察されていないといえるのではないだろうか。一見矛盾のように見えることであっても、それは形式論理的に整合性をもった解釈が出来るというのが、今までの観察結果なのではないだろうか。

このような意味では、原子論という考え方も、数学的な前提である公理に似たようなものだという感じがする。違うのは、原子論の論理的帰結は、形式論理に反していないということだけではなく、現実の観察もその帰結に反してはいけないという制限があることではないかと思う。数学においては、形式論理に反していないということだけがその真理の資格であって、現実とは無関係に考察を進めることが出来る。しかし理論展開の構造はまったく同じではないかと思う。

ある種の連続性の前提も、それを肯定してもいいし否定してもいい。その際に、数学では形式論理との整合性だけが問題になり、自然科学および社会科学では、現実の観察結果との整合性も問題になるということではないかと思う。