道徳と法律の社会法則


板倉聖宣さんは、社会法則を学ぶための授業書として「生類憐れみの令」と「禁酒法と民主主義」というものを作った。これは仮説実験授業の授業書として作られたもので、社会にも法則性があるのだという科学的視点を教えるための授業所だ。過去にこういうことがあったという事実を知るためのものではない。

ここで語られている法則を抽象的に言えば、道徳を法律化したときの社会に対する影響というものがどういう現れ方をするか、ということを法則化したものと言える。道徳的に正しいことは、善悪の判断から言えば、いいことに決まっている。いいことだからそれを実現することが正しいと誰もが思う。そういうものは、人々の自発的な意志にゆだねて実現すべきもので、法律化して強制的に実現すべきものではない。もし、誰もがいいと思うことを法律によって強制化して実現しようとすると、予想に反して道徳的には堕落するという結果を招く。これが社会の法則なのだということを、具体的な法律である「生類憐れみの令」と「禁酒法」を通じて学ぼうというのが、この授業のねらいだ。

「生類憐れみの令」というのは、生き物を大事にしなければならないという道徳を法律化したものだ。これは、俗に言われているように、生き物のすべてを殺してはいけないというばかげたものではなく、むやみな殺生をしてはいけないという道徳を実現しようとするものだった。生き物をすべて殺してはいけないということでは、我々には食べるものがなくなってしまうということがあるので、そこまで極端ではなかったようだ。しかし、殺生が可能な限り制限されたことは確かだったようだ。

この法律を制定した将軍綱吉は、自らも生き物を殺して食うことを厳しく制限した人で、道徳的に非常に立派な人だったようだ。この授業をすると、子どもたちはたいていは綱吉が好きになり、尊敬感を抱くという。犬を殺すことを厳しく取り締まったのでそれが有名だが、犬というのはそれを殺すことに必然性がないものであるから、生き物を大事にするという象徴としてはふさわしかったのだろうと思う。

犬を大事にするということは、それ自体では問題がないようにも見えるが、実際には弁証法性を持っているので、現実の条件からそれが問題を引き起こす場合がある。大事にしたために犬が増えすぎたり、我が物顔で振舞う犬が増えて迷惑がかかるということが出てくるだろう。この時は犬を懲らしめなければならないのだが、それが法律で禁止されていると、問題が解決されず迷惑だけが残るということになる。

道徳というのは、それを守ることが原則的にはいいことなのだが、現実の条件からはそれが守りきれないときや、守らないで対処することが正しいという場合が出てくる。弁証法性を持っている対象だ。それは、現実の条件を把握しながら、臨機応変に対処することが正しい。機械的に形式論理で判断すれば対応を間違える。

それに対して法律というのは、条文解釈はただ一つに決めなければならない。これは、他の解釈が出来る可能性があっても、それを否定して機械的に決める必要がある。法律というのは、対象を吟味して臨機応変に決定することが出来ない。解釈によって適用される範囲が揺れ動いてはいけないのだ。その合法性の判断は、形式論理的な展開によって決められなければならない。

法律は、社会秩序を保つための道具であって、人々の道徳性を高めるための教育的意義を持っているものではないのだ。社会秩序を保つためには、誰にとっても平等に機能しなければならない。特殊な事情があるからといってそれを事後的に判断してはならない。特殊な事情そのもでさえ、事前にこのような事情がある場合は、このような配慮をするという規定を設けて対処しなければならない。臨機応変に、対象の特性が分かってから、後から解釈を変えることは出来ない。法律は、制定された後に適用されるのであって、制定される前にさかのぼってその法律が適用されることはない。

道徳は弁証法的なものであり、法律は形式論理的なものであるところに、これを混同した政策が社会を混乱させ、道徳を堕落させるというメカニズムを働かせるという社会の法則を生む根拠がある。「生類憐れみの令」は、生き物である犬を大事にするようにという目的で設定されたが、その法律があることによって、人々は犬にかかわることを恐れ、犬を避けるようになり、犬を大事にしようという心情を持てなくなった。道徳的には堕落したのだ。人々はかえって犬を恨むようになり、誰も見ていなければ、犬をいじめてやろうとさえ思ったことだろう。

違法性というのはそれが露見さえしなければ人々は守ろうという動機を持たなくなる。それに対して、道徳性のほうは、その善である価値を自覚して自発的意志で守ろうとするので、誰かが見ているかどうかには関係なくなる。同じような行為でも、法的に守られているのか、道徳として守られているのかというのは意味が違ってくる。

法的に守られていることは、動機ではなく、見かけの行為だけが問題になる。動機はどうであれ法に違反していなければ罰を受けることはない。守っている振りをして、面従腹背の行為をするということが出来る。しかし、道徳はそういうわけにはいかない。法律によって、道徳的規範が面従腹背されるということは、道徳にとってはこれ以上の堕落はないのではないかと思う。

綱吉は、動物だけではなく人間に対しても大事にしなければならないという思想を持っていた。俗っぽい知識では、人間よりも動物を大事にしたと言われているようだが、どちらも同じように大事にしたと解釈したほうが正しいだろうと思う。綱吉は、囚人の待遇の改善という問題も取り組んだからだ。人間が大事にされていないように見えるのは、動物は法律を守る義務はないが、人間にはそれがあるということからくるのではないかと思う。

囚人というのは、放っておけば虐待される恐れがある。それは道徳感情によっていたわりの対象になるものではない。むしろ社会的には軽蔑の対象であり、いじめたとしても何ら良心がとがめるという道徳性を呼び起こすことがない。このような対象に対しては、道徳ではなく法律によって、虐待という扱いを制限する必要が出てくるだろう。法律化する意味が出てくる。綱吉が、このことにとどまるような法律を作っていれば、社会の混乱と道徳の堕落もなかったのではないかと思う。

「生類憐れみの令」は、綱吉という個人が法律を作って社会に混乱を招いたのだが、「禁酒法」のほうは、民主的な手続きによって制定されたところが違う。しかし、これも「酒を飲んではいけない」という道徳を法律化したものとして社会に混乱を招き、隠れて酒を飲む人が増え、道徳的には堕落した。しかも、この「禁酒法」は、酒の入手を困難にしたため、酒の値段が上がりギャングの資金源としても大きな利権を生んだ。社会的にはさらに大きな問題を引き起こしたといえる。

「生類憐れみの令」は、綱吉が死んでからは、その法律の問題が誰の目にも明らかだったのですぐに廃止されたようだ。しかし、「禁酒法」のほうは、そのような節目がなかなか見つからず、廃止に至るまではかなり苦労したようだ。民主的にみんなが決めたことは、それが弊害を生むとわかってもなかなかやめられないということがあるようだ。民主主義の困った一面として記憶しておいたほうがいいのではないかと思う。

さて「愛国について語るのはもうやめませんか」という内田樹さんの文章を読んでいたら、このような社会の法則を語った板倉さんのことばが浮かんできた。内田さんがここで語っていることも、道徳的規範を法律化しようとすることの間違いの指摘ではないかと思ったからだ。

愛国心を持つということは、それがなければ社会の秩序が破壊されるというような、規範に対する違反行為が直ちに反社会的な行為になるものではない。戦前の日本社会ならいざ知らず、自由が認められている近代民主主義国である日本では、愛国心の発露を見せないというだけで社会を破壊するのだという判断はできない。

だいたいが、愛国心の発露というのが、どのようなものであるかという行為の判断が形式論理的にはできないものだ。それは同じ行為がある時は愛国的になり、ある時は反愛国的になるという弁証法性を持っている。アメリカ合衆国では、合衆国憲法によって、政府が国民に対してふさわしい政治を行っていないなら、その政府を倒す革命こそが愛国的行為だということが語られている。反政府・反権力という行為は、ある場合には愛国心の発露となる。2・26事件の青年将校たちこそが、最も愛国心の高い人たちだとするような判断だ。

愛国心を持つということは道徳的規範の問題だと捉えたほうがいい。行為の現象が同じでも意味が違えば判断が違ってくるという弁証法性を持っている。また、自発的意志によって持たなければ、そのような振りをしていたとしても何の価値もないものになる。法律として、形式論理的に愛国心を定義することは出来ないのだ。

愛国心という道徳を、法律によって強制するようなことをすれば、板倉さんが発見した社会の法則によって、そこには面従腹背が充満し、愛国心という道徳は堕落するに違いない。目的に反して、真の愛国心を持つと考えられる人が極めて少なくなるだろう。人々は愛国心に嫌気がさし、愛国心を持っている振りをすれば利益となるというような利権のことだけを考えることになるだろう。

内田さんが語るナチスドイツのエピソードは、論理的強制という観点から面白いものであり、教訓的なものだ。ドイツは、その行為の科学性にこだわった国で、優生思想というものによって、ユダヤ人虐殺でさえ科学的に正当化しようとした国だ。科学に強いということは、形式論理に強いということであって、これは出発点にある前提を間違えれば、論理的に正しく考えれば考えるほどその結論が間違ったものに傾いていく。

昨今の日本人の困った問題の根源に、愛国心という道徳の欠如を見ている人々は、その道徳さえ復活すれば問題が解決すると思っているかもしれない。実際はそのように単純なものではないのだが。この道徳心の復活に法律を利用しようとする前提は、これまでの歴史から見て明らかな間違いであることが分かる。この出発点を間違えた行為は、論理的強制によってばかげた結論へ導くのではないかと思う。

日本人はドイツ人ほど科学的ではないので、論理的強制という面ではドイツほどの深刻さは生じないかもしれない。その点では、日本人の非論理性はいいほうに作用する可能性はある。だが、法律という対象が形式論理的であるという性格を考えると、日本社会は非論理的であっても、法律の持っている形式論理性が、論理的強制をもたらす恐れはある。愛国心という道徳を法律化することは、社会の法則から言って百害あって一理なしだろう。愛国心という道徳は、自発的な自由意志にこそゆだねられるべきなのだ。もし、今の日本人に愛国心が足りないと考えるなら、それは法律によって強制するのではなく、愛国心を持てなくなった社会的条件のほうをこそ改善していかなければならないのだ。

道徳というのはみなそういうものである。それを守れなくなったのは、守れない社会的条件がそこにあるのである。誰もが酒を飲みすぎるのは、酒を飲まないではいられない状況が社会にあるからだ。酒を飲みすぎてはいけないという道徳を確立するには、そのような社会状況をこそ改善しなければならないのだ。