みんな仲良し教育の欠陥


楽天ブログでmsk222さんが「みんなで仲よし、って…」というエントリーを書いている。ここに書かれていたことに、以前から問題意識を感じていたので、コメントを書かせてもらった。それは、みんな仲良し教育が、共同体主義を助長して、個人の主体性を育てることを阻害するという考えだった。

共同体の中で、よく知り合った仲間が阿吽の呼吸ですごすというのは、その中で何も問題が生じない時は、非常に幸せな気分をもたらしてくれるだろう。少々貧乏であっても、助け合って生きていくことに喜びを感じ、何が価値あるものであるか、何が善であるかがはっきりと決まっているという安心感を感じながら生きていくことが出来るだろう。

しかし、このような幸せな共同体は、前近代的な社会で過ごす場合にしか残らない。近代社会を構成する原則は、このような共同体を形式的には破壊してしまうことになる。近代社会は、さまざまな自由が認められ、もはや、生まれてから死ぬまで、一つの共同体の中で暖かい雰囲気の中ですごすということが出来なくなっている。共同体の中で安定してすごせる時代ではなくなってしまうのが近代社会というものだ。

近代社会は、どこでも同じ道徳が支配するという共同体的な規範のあり方ではなく、個々の人間が、個人の自由を実現すべく自己主張の基に行動していくことを原則とする。当然、他人の自由とぶつかって軋轢を生じることが起こるだろう。このときに、お互いの自由を調整してどこまでを認め合うかということを対話するというコミュニケーション能力が必要になる。

共同体の中では、何が許されて何が許されないかが伝統的に決まっているので、この判断に迷うことはない。長く生きている人間に裁定を任せればそれですむ。共同体の中では、知識のある長老こそが尊敬に値する人間だ。しかし、近代社会は、原則的な規範が違う人々が協働して生きていくという形態を取っている。ある人にとっては当然の規範であっても、それに従わない人が大勢いるということもありうる。このときに、社会の秩序を保ったまま協働していくということがどのように可能だろうか。

共同体の伝統的規範というのは、それがなぜあるのかという理由は述べることが出来ない。それは必然的な規範ではなく、伝統として長く守られてきたということが正統性になり、守ることが正当であるということになってきたものだ。その規範があるのは偶然の結果に過ぎないが、長く守られてきたためにそれが正しいとされてきたものだ。

その規範に従う人間が、共同体内部の人間だけである時は、それをなぜ守るかというような疑問は出てこない。守ることが当然の義務であるという意識があるだけだ。しかし、違う共同体の人間は、偶然その規範が立てられているだけだということをすぐに見抜いてしまう。それに従うだけの必然性を感じないので、当然規範を破る場合があっても、それを気にかけることはない。

規範が違う、共同体として違うものに属している人間同士が協働するには、この規範の違いを秩序を乱さないように機能させる工夫が必要だ。これが道徳と法律を分離するということではないかと思う。道徳的規範は、何が善であり何が善でないかを決める。これは恣意的で偶然的なものであり、共同体によって違う。しかし、それは破られたからといって社会に対して深刻な影響を与えるものではないと判断される。道徳が守られない場合は、秩序が乱れたとは解釈するものの、秩序が破壊されたとは解釈しない。そういう道徳は、罰則を伴ったものとしての強い規制はしないでおくことが、共同体の自由を守ることになる。

それに対して、ある規範は、それを破ることがすぐに社会秩序の破壊につながるようなものがある。社会の存続を危うくさせるような種類の規範に関しては、強権をもってそれを規制しなければならないだろう。それが法律化されるということになるのではないかと思う。殺人や窃盗を許さない法律があるのは、その行為が社会秩序そのものの破壊につながると判断されるからではないだろうか。

道徳の場合は、共同体が違えば違う規範になりうる。つまり、それはある場合は善であっても、ある場合は善ではないという視点の違いによって反対の判断になる弁証法的なものと考えられる。それに対して法律の場合は、誰が考えても同じ結論に導くような形式論理的なものでなければならない。共同体によって解釈が違ってしまえば、社会全体の秩序の維持が難しくなる。オウム真理教の教団は、自らの共同体にとっては地下鉄サリン事件が正しいと判断しただろうが、社会全体の秩序の観点からはそれは犯罪だと判断されて処罰される。道徳的規範なら法的に裁かれることはないが、地下鉄サリン事件は法に違反しているために国家権力によって処罰される。あの行為は、社会の秩序を破壊するものだと判断される。

道徳的規範を法的規範として強制することの間違いは、それが共同体の自由を侵すところにあるのではないかと思う。共同体の自由を侵すというのは、共同体を破壊するということでもある。ある場面で、違う行為をしても必ずしも社会の秩序を破壊しないのだというような行為は、近代社会の自由として認められなければならないのではないか。それを認めずに、すべてを法的に縛っていけば、社会に存在する共同体はすべて破壊され、個人は孤立した存在として社会の中で生きていかなければならなくなるのではないか。徹底した個人主義が貫ければいいが、そうでなければ近代社会の自由は、個人を孤立させる恐ろしいものになってしまうだろう。

みんな仲良し教育は、「みんな仲良し」という規範を強制する教育になる。つまり、道徳的規範である「みんな仲良し」というものを、ある意味では法的規範のように強制するという形態を取る教育である。道徳を強制することの弊害がここには現れる。一般論から導かれる結論としては、この道徳の強制は、より小さな共同体を破壊し、すべてを学校共同体というものの恣意的な規範に従うように働きかける。

より小さな共同体というのは、気の合った仲間同士という子どもの共同体だ。本当の意味での仲良しの共同体は、学校共同体的な意味での「みんな仲良し」の中では存在できない。気の合った仲良しで共同体を作り、その中である種の道徳的規範に従って、お互いに気持ちのいい遊び方をしていたとしても、その共同体は、気の合わない仲間は排除するという面をどうしてももたざるを得ないだろう。しかし、学校共同体の規範である「みんな仲良し」は、この「気の合った仲間集団」というより小さい共同体の規範を認めないので、これを破壊することになる。

実際には、気の合わない人間がいるというのは誰でも経験的にわかることだ。そしてそれは、必ずしも悪ではない。むしろ、気の合わない人間と、深いコミュニケーションを取らなくてすむような工夫をして、軋轢が必要以上に大きくならないようにすることが必要だ。気の合わない人間とは、深いコミュニケーションではないが、挨拶程度でお互いの存在を知らせるというコミュニケーションをとるというのは、その一つの技術だろう。挨拶もしないという態度では、「あなたが嫌いだ」というのを露骨に表してしまうが、挨拶程度が出来るなら、そのような態度を見せているのではないので、軋轢が大きくはならないだろう。そして、深く付き合うと、気の合わないことが大きな影響を与えてしまうが、挨拶程度の関係は、深いつき合いを生むことがないのでその弊害を避けることも出来るだろう。

社会秩序の維持には、「みんな仲良し」という規範よりも、気の合った仲間共同体では「仲良し」の関係で、そうでない共同体に対しては、薄く付き合うという規範のほうが有効に機能するだろう。気の合わない人とも無理をして付き合うという「みんな仲良し」という規範は、その我慢が限界に達したときにカタストロフ(破局)を起こす。これは、秩序の乱れにとどまらず、秩序の破壊につながってしまう。学校共同体の「みんな仲良し」という規範は、近代社会とは相容れない規範だろうと思う。

msk222さんは「「みんな仲良し」大批判」というエントリーで、僕のコメントに応えた文章を書いてくれている。ここでは、「長いものに巻かれる」という日本的な空気の悪影響が語られている。これは、本来は道徳的規範に過ぎないものなのに、強制力を持って押し付けられてくるものは、それを受け入れていたほうが楽だということから、このような気分が育てられる。自己主張を抑えておけば、「みんな仲良し」という規範は、どうしても受け入れられないというものではなくなる。

自己主張を抑えるという結果から、長いものに巻かれるという気分が育てられる。自己主張をどうしても抑えられない子どもは、学校共同体においては「わがまま」というレッテルを貼られて弾圧されるだろう。この自己主張の弾圧には、「みんな仲良し」という規範の押し付けがかなり有効に働いているものと思われる。

「みんな仲良し」教育は、いじめの温床にもなるという指摘は、社会学者の内藤朝雄さんがしていたものだが、これは道徳を押し付けるということから導かれるものだろう。道徳に違反するということは、その罰則は良心の責めというような自己の内面的な反省から生まれるものでなければならないだろう。それが強制力を伴う他者から押し付けられるものになれば、道徳ではなく法的な規範にしなければならないと思う。

道徳的規範が法的規範になれば、自己の意志から発する反省による規範破りの対処ではなく、強制的に処罰するという法的な規範破りの対処になるだろう。いじめをする子どもの大部分は、それはいじめではなく処罰をしているという意識を持っているという報告もある。板倉さんの指摘も、「いじめは正義感から起こる」というものだった。それは、規範破りに対する処罰という意識をもっているものが多いのではないかと思う。

道徳的規範を破っただけで処罰されるような社会では、そこではどのような道徳が支配しているのかという「空気」を読むことが重要になってくる。道徳であるのなら、それは違う共同体では規範となっていないこともありうるのに、それが法律のように守らなければならないものになってしまえば、「長いものに巻かれる」という気分も生まれてくるだろう。個人の主体的な判断が尊重されないというのは、日本社会の欠点として指摘する人も多い。

小室直樹氏や宮台真司氏は、旧日本軍における議論において、誰もが結果的に負けると分かっているような作戦でも、それに負けるかもしれないなどということを言い出すことが誰もできなかったということを語っていた。負けるということを言うことが許されないという道徳が支配していたのだ。負けるかもしれないということは、可能性として語る限りでは、善悪の範疇にあるものではない。しかし、この道徳が絶対視されて、誰もそれが言えないということになれば、カタストロフ(破局)が訪れなければその間違いに誰も気づかないということになってしまうだろう。

みんな仲良し教育は、主体性を破壊し、長いものに巻かれるという気分を育てるために、合理的判断を主張することを控えさせるという欠点を持っている。この欠陥は、日本社会のあらゆる場所に蔓延している。みんな仲良し教育の効果の大きさに驚くほどだ。しかし、いまや学校教育も、その内部でカタストロフ(破局)を迎えているのではないかとも感じる。ようやく、この教育の欠陥が誰の目にも明らかになってきたのかもしれない。

みんな仲良し教育は、一方ではmsk222さんが指摘するように、他者を蹴落として自己中心的に利益を追求するようなエリートを生み出す温床にもなっていたのではないかと思う。これは、みんな仲良しの反対の結果を生んでいるのだが、道徳を法のように押し付けるとき、結果的には正反対の効果を生むという社会の法則を思い出すと、これは論理的帰結だとも感じる。エリートになるような頭のいい子どもは、みんな仲良し教育の嘘を見抜き、それに恨みを抱くのかもしれない。だから、日本のエリートは、社会に貢献してみんなが幸せになるよりも、自己の利益のほうが大事になるのかもしれない。健全なエリートを育てるという面でも、みんな仲良し教育は欠陥があるのではないかと思う。