現実存在である人間が無限を捉えることの限界


「2006年03月03日 実無限と可能無限」というエントリーのコメント欄で、武田英夫さんという方が疑問を提出していることに、無限を捉えるときの難しさが現れているような感じがしたので、これを考えてみようと思う。

無限という対象は、数学屋の場合は、これを素朴に前提して理論を展開しているように見えるが、逆に数学とは無関係な人は、無限というものが得体の知れないものであるかのように感じて、これを対象にすること自体に疑問を感じるのではないかとも思える。武田英夫さんの素朴な疑問には、無限の難しさの本質が含まれている部分もあるのではないかと思う。

田英夫さんが語る疑問は二つに絞ることが出来るだろう。いずれも無限という対象の持つ弁証法性に関係するものだ。つまり、形式論理で取り扱うにはふさわしくない対象だ。それを形式論理で取り扱おうとすれば、そこには静止の論理で無限を表現するという難しさが出てくる。これは、運動の表現において、「止まっていて、かつ止まっていない」という矛盾した表現がどうしても必要だと、板倉さんが指摘したのと同じようなことが起こる。現実存在である人間には、無限は静止した状態として捉えることは出来ず、したがってそれを形式論理で表現することが出来ない。無限も、運動の過程として切り取って表現するしかないのだ。

さて、武田英夫さんが提出する最初の疑問は、


   s = 1-1+1-1.....


という無限級数の和に関するものだ。無限級数というのは、ある法則に従った数列の値を合計したものがどうなるかを考えるもので、それがどんどん大きくなるものであれば正の無限大に発散するといわれる。逆にどんどん小さくなるものであれば、負の無限大に発散するといわれる。「どんどん大きくなる」「どんどん小さくなる」という言い方は、数学的には正確ではなく・つまり形式論理での表現ではなく、運動をそのまま運動として表現した言い方になっている。

これを形式論理的に表現すれば次のようになる。級数をある有限の時点で切り取ったとき、それは無限であるから、必ずそれ以後の項の和を計算することが出来る。「任意」の、どの時点での和を求めても、それ以後の項の和で、その特定の時点の和を上回る大きいものが存在すれば、いつでもそれ以上に大きいものを計算できるという可能性の点から、これを正の無限大に発散すると判断する。具体的には、次のような級数が正の無限大に発散する。


   s= 1+2+3+4+5+ ……


この級数をある時点nまで合計した数値というのは計算できる。それに対して次の項であるn+1までを合計したものを考えれば、それは常にnまでの合計を上回る。このnは任意に取ることが出来るので、この任意性が無限級数の無限に対応し、これが正の無限大に発散するということが分かる。

級数の場合、収束という現象を見せることもある。ゼノンのパラドックスに語られているもので、ある目標地点の半分に達したら、そこから目標までの半分に達することを考え、さらに、同じように残りの半分に達することを考えるものがある。これは、数式で表せば次のようになる。


   s= 1/2+1/4+1/8+1/16+1/32 ……


これは、運動としてはどんどん目標地点に近づいていくことになる。しかし、目標を超えて遠くへ行くことはない。つまり発散はしないのである。無限に足し合わせているのに発散しないのは、足し合わせる項自体が無限に小さくなっていくからである。このような時、数学では収束するという言い方をする。

数学(形式論理)では、どんどん近づくという言い方は出来ないので、どこかの時点で切り取って、その任意性から無限の果ての可能性を把握するという表現をする。この場合は、目標地点と到達点の差が、任意に小さくできるということから、極限においては目標地点と一致するのだと考える。上の級数においては、任意のn番目の項における値は、1/2nというものになる。これは、どんなに小さい正の数e(普通はギリシア文字のイプシロンを使うのだがeで表しておく)を選んでも、


    1/2n < e (つまり 1/2e < n)


が成り立つようにnを選ぶことが出来る。これは、1/2eが有限の数なので、それに対してはいくらでも大きな自然数nを見つけることができるということだ。有限の世界ならそういうことが出来る。そして、このeの任意性から、どんなに小さな数であっても、目標地点との差がそれ以上に小さくなるのであるから、可能性として、極限という無限の果てには目標地点と一致するということが言えるわけだ。

さて、武田英夫さんが提出した級数は、実は発散も収束もしないものになっている。それは、有限のある時点で切り取ると+1と0 のどちらかになるものになる。どんどん大きくなったり、逆に小さくなることもない。ある目標地点に近づくこともない。二つの値のどちらかを行ったり来たりするだけなのだ。そしてそれは、どこで切り取ったかという有限の場合に確認できることで、無限にそれを足し合わせた状態は人間にはつかむことが出来ない。

この級数は、振動するといわれる。発散と収束が、運動の形態の表現であったように、この級数も振動という運動で表現すれば、想像可能になり、矛盾した表現にはならない。しかしこれを形式論理である数学で、その和を表現しようとすると矛盾した事態を引き起こす。

振動を繰り返すこの無限級数の和は、+1と0 の両方が繰り返し現れる。両者が登場する回数は、究極的には同じであると考えられる。有限の範囲では最初に登場する+1の回数が一回多い場合があるが、次の項の和を求めることによって、0 の回数は同じになる。究極的には同じと考える可能性がここには見つかる。

この二つの数が登場する回数が同じだと考えられれば、確率的には1/2ということになる。そこで、この級数の和を確率的に考えると、


   s= 1/2×1 + 1/2×0 = 1/2


有限の範囲では、+1か0 のどちらかしか取りえない級数であるはずなのに、無限の果ての確率を考えると、1/2という実際には取りえない数字を取ってしまう。これは、確率的な予測であるから、現実には取りえない数字であってもかまわないのだが、この1/2が実際にも現れるのだと考えると矛盾を引き起こす。

野球での打率が3割だというとき、それは1打席でヒットの出る確率が0.3だということなのだが、0.3本のヒットが出ると現実に考えている人はいないだろう。それはあくまでも確率的な数字なのだ。ヒットは、それが出れば1本であり、出なければ0本だ。これは現実には1か0 かのどちらかであって、その中間の数字はない。

無限の果てというのは、有限で捉えれば無限でなくなってしまうので、それは決して知りえないものとして確率的に表現するしかないとすれば、この無限級数の和は確率的には1/2だ、という表現も出てくるのである。静止で運動を表現すれば、このような矛盾した表現が必要になる。振動しているといえば、矛盾した表現は必要ないというところに、この無限の本質があるのではないかと思う。

田英夫さんの最初の疑問は、無限を有限の表現で捉えてしまったことからくる矛盾に対する疑問だと理解できる。無限は、有限の存在である人間にとっては、有限からの連想でしか捉えることが出来ないのだが、有限の表現をそのまま無限に当てはめることは出来ない。有限を無限にするための工夫、数学では「任意性」というものにその工夫が込められているのだが、それをしなければならない。

田英夫さんは、「奇数か偶数か良く分からないある無限大をnとし、m=n!
で与えられる無限大mを作る」と書いているが、無限をnと書いてしまうと、それを書いた時点でそれは有限のnになってしまい、無限でなくなってしまう。だから、それ以後の議論がいかに形式論理に従っていようと、それは無限という対象を展開した論理ではなくなってしまう。結論は、無限に対しての正しい判断ではなくなる。

それは、円周率の考察においても同じで、円周率という無限小数の値を、どこか有限の範囲で切り取ってしまえば、それは円周率の近似値ではあるけれども、無限小数で表現される円周率ではなくなってしまう。だから、それがいかに分数で表現されることを確認したとしても、それは有限小数である円周率の近似値が有理数であることを語っているだけで、循環しない無限小数である円周率が有理数であることを語るものではない。

循環しない無限小数である円周率は、その値を計算してみない限り、次に続く少数の値がわからないという無限小数だ。円周率の全体像を把握するのは人間には出来ないのだ。人間には、その近似値をつかむことしか出来ない。大体このくらいという感じが分かるしかない存在だ。

無限は人間には捉えられないということは、無限の果ては確率的に予測するしかないということにもなるのではないかと思う。量子力学の考察においては、何らかの意味で無限がかかわってくるのではないだろうか。考えてみたい方向だ。

田英夫さんのもう一つの疑問は、同等性に関するもののように見える。無限にたくさんある対象であっても、ある観点から同じだと判断できれば、有限の対象に出来てしまうのではないかということだ。言語などはその機能を有効に使っているものだろう。世の中に物質的存在はたくさんある。それに対してある共通点を見たときに同じだと判断して普通名詞で表現するようになるだろう。たくさんあるものを一つにまとめることができる。

田英夫さんが提出している問題は、例えば自然数を3で割ったときの余りで分類するというような考えに通じるものだ。そのような分類を行うと、3で割り切れる6や9は一まとめにされて同じものになる。そうすると自然数は、3で割ったときの余りによって[0](3で割ったときに余りが0になる数の集合、以下同様)[1][2]という3つの有限な存在に還元されてしまう。これは、無限を有限にしたのだから、無限を扱った考察ではない。項を改めて考えてみようかと思う。