科学における武谷三段階論と機能主義


三浦つとむさんが高く評価していた人に物理学者の武谷三男さんがいる。特に高く評価していたのは三段階論という、科学理論の発展の論理を抽象したもので、『弁証法の諸問題』という著書の中の「ニュートン力学の形成について」という論文で語られていた。

科学というのは、現実の法則性を捉えた理論である。自然を対象にした自然科学がもっとも早く発達し、その理論によって自然の現象的側面を正確に予測することが出来るようになった。現実の存在がどのようになっているかは科学でなくても語ることが出来る。哲学などは、現実存在に対して論理的に考察したものとしては科学よりも早く発生した。しかし哲学は、現実を事後的に解釈することがもっぱらで、未来に対する有効性という点では科学のほうがずっと大きなものを持っている。

科学の有効性というのは、板倉聖宣さんが主張する「仮説実験の論理」がそれを保証するものとなっているように僕は考えている。仮説と実験を経て科学そのものは進歩・発展していくが、仮説に当たる理論的側面の進歩・発展の具体相として武谷さんが言う三段階論というものがあるように感じる。この三段階論というものを、形式論理のメガネを通して見てみると機能主義との関連という側面を見ることが出来るようにも思う。科学の本質は機能を解明することにあるように感じるのだが、それは機能主義と呼ばれる間違いだといわれる恐れもある。このあたりの関連を考えてみようと思う。

三段階論は、科学理論は次のような3つの段階を経て進歩・発展していくという主張だ。


1 現象論的段階
2 実体論的段階
3 本質論的段階


これを理解するために、武谷さんは、太陽系の運動を解明する理論活動として上の三段階に対し、次のような具体的な活動を例としてあげている。


1 ティコの段階(詳細な天文観測によって、天体=太陽系の運動を、目に見えるものとして記述する段階。どのような必然性によってその運動がなされているかということは考えない。時間をパラメーターにしたときに、位置情報がどのようになっているかの観察結果を集積する段階。)

2 ケプラーの段階(観測数字に対して、太陽系という実体的存在を設定し、実体が従う法則性を求める。観測した数字を解釈するだけでなく、これから起こるであろう現象の数字も正しく予測することが出来る。実体を設定することによって実験の可能性を開く。観測の結果を解釈するだけでは、自らの観測点という立ち位置を超えることは出来ないが、太陽系という実体を客観的に設定することで、立ち位置を超えるという客観性も手に入れることが出来る。)

3 ニュートンの段階(天体の運動を、太陽系という特殊的な存在から離れて、一般的・抽象的に質量をもつ物質の運動として記述する段階。天体だけに通用する法則性ではなく、物質という任意の存在に対する法則性を確立する。この法則性は、力と加速度という概念を用いて、物質の運動を記述することで行われる。これも、一般的・抽象的な物質という任意性を持った対象について語る。実体性を超えたということで2の段階と区別される。)


上の3つが「現象論」「実体論」「本質論」と対応して語られる。つまり、上の3つの具体例から、「現象」「実体」「本質」で指し示されている概念の理解を図ろうというわけだ。この三段階を、形式論理としての発展とアルゴリズムの発展という観点で見直してみると次のように考えられるだろうか。


1 個別的な命題を記述する段階・アルゴリズムには言及しない
 現象を観測して記述するというのは、その記述が個別的・具体的な命題として提出されているということになる。その真理性は、具体的現象が確かにそのように観測されるということから求められる。何年の何月何日に、ある天体がどこの位置にあるかが観測されたかという記述は、それが実際に観測されたという事実性によって真理が主張される。それは論理的な推論によって求められるものではない。事実性がない記述は真理性もない。ここには、真理性を判定するようなアルゴリズムはない。

2 実体の関数性を記述する段階・関数値の計算によるアルゴリズム
 この段階では関数的な性質が考察の対象になる。太陽系の惑星が、太陽を中心とした楕円軌道の上を動くというのは、太陽と惑星の実体としての関数性を記述するものになる。この運動は、太陽に近いところでは早く、遠いところでは遅いという関数的関係もある。これらは、形式論理的には、ある前提から必然的に導かれる論理的関係を主張する。したがってそこにアルゴリズムが存在し、このアルゴリズムを使って太陽系の運動を正確に予測することが出来る。

3 論理の出発点が、実体から抽象的対象になる段階・アルゴリズムの完成
 ニュートン力学では、力の相互作用などを考察する対象として質点というものを設定する。これは、質量を持つ点として考えられているのだが、点というのは位置を持つが大きさをもたないものとして抽象された対象になっている。現実には大きさを持たない物質はないのだから、これは現実に存在しない抽象的存在として設定されている。しかし、こうすることによって大きさをもつときに逃れられない誤差を捨象することが出来、より精密な理論として力学を構成することが出来る。抽象化することによって、その論理的必然性は100%確実なものになる。しかも、大きさを捨象しているにもかかわらず、この理論が現実に対して有効性をもっていることが、正しい未来の予測によって確認される。その仮説実験の実践によって、この理論は科学としての本質的段階であるという判断がされる。この段階は、理論としてはまったく抽象的なものであり、形式論理そのものだが、仮説実験によって現実との結びつきが確保され科学と呼ばれる。2の段階のアルゴリズムは、単に計算の結果が現実の観測結果に合致するというだけで、それがなぜ合致するのかという理由はわからなかった。しかし、この段階に至ったアルゴリズムは、それが導かれる必然性が形式論理によって保証される。アルゴリズムとしても完成した段階になる。


「現象論的段階」は形式論理との関連はない。「実体論的段階」から形式論理の判断がかかわってくる。ここでの考察は、事後的な解釈である哲学的なものも入り込む。霊的な現象を事実として集めて、そこに「幽霊」という実体を設定して解釈するのは、科学としての「実体論的段階」ではないが、哲学的な意味での「実体論的段階」になるのではないかと思う。これが科学でないと判断されるのは、「幽霊」という実体の存在は実験によって確かめられないからだ。空想的な実体を設定して、その設定という前提を疑わないところに霊的解釈が科学にはならないところがあるのだろう。

この「実体論的段階」で科学として間違った方向に行ってしまうことの原因に、「現象論的な知識が十分でなくて直ちにその原因を思惟するとき形而上学に陥るのである」と武谷さんは著書で書いている。哲学的な考察は、それまでに知られている事実のすべてを考えに入れて現実を解釈するのだが、それまでに知られている事実のすべてが不十分なものであれば、その原因の考察は形而上学になってしまうのだろう。

地動説は、アルゴリズムという点では、それまでの観測値に合致するように工夫されていた。しかし新たな観測値がそれに合致しないケースがたくさん出てきた。現象論的な知識が不十分だったのだ。このとき、天体の観測の原因を考察すれば、地球が天体の中心にあるということの原因は形而上学的になる。神がそのようにしたのだと考えざるを得なくなるだろう。

実体としての太陽の大きさが、はるかに小さい惑星の公転をもたらすという、太陽系の運動の原因は、形而上学ではなく形式論理に従った必然性を語ることが出来る。実体論的段階が仮説実験における仮説として有効なものをもたらす根拠がここにある。

実体を導入せずに、地球を中心にした位置情報の数値の関係の整合性をとる地動説の考えは、関数関係を捉えるのであるから機能を解明しようとするものである。アルゴリズムの正しさを求めるというのは、機能に注目することである。しかし、これが機能の注目にとどまり、実体としての地球や太陽を考えない方向(その大きさなどを考慮に入れない)であれば、機能だけしか考えていないという「機能主義」(機能がすべてに優越する)と言われて間違いを犯すのではないかと考えられる。

機能に注目することが「機能主義」というイズム(主義)に陥るのではなく、実体という現実存在との結びつきを忘れないようにすれば、それは科学として発展していくのだと思う。しかし本質論的段階では、その実体は捨象される。この「捨象」ということが重要なことで、「捨象」というのは考慮されていないということではなく、それが存在することを承知の上で無視するということだ。

ニュートン力学では、実体は現実存在としての面を失い、質点として抽象(実体性を捨象される)されている。これは、実体を無視した「機能主義」ではない。機能だけを取り出してはいるものの、それは実体性を含んだ(捨象という意識で実体性の意識を含んでいる)機能として考察されている。この機能こそが科学の本質として結論されるものになる。科学における本質が機能にあるというのは、このような機能が本質として提出されているということだ。

量子力学の本質はアルゴリズムにあると言われるのも、この本質は、実体としての素粒子が捨象された後に打ち立てられるアルゴリズムだからだろうと思う。単に、現実の現象(実験の結果)に合致するからアルゴリズムとして正しいのだという主張ではないだろう。

実体論というのは、本質として結論される機能が、本質であるということの保証のために必要な段階として通過しなければならないのだと思う。実体論抜きに機能の方に飛んでしまえば、それは空想的な前提を立てざるを得ない形而上学になってしまうのだと思われる。これこそが、三浦さんが批判した「機能主義」というものではないかと思う。構造主義が「機能主義」としての間違いに陥るのも、実体抜きに社会構造の機能を空想的に設定するときに形而上学として間違えるのではないかと思う。逆にいえば、正しく実体を設定して、捨象=抽象を経て機能という本質に迫れば、それは正しいことを語るものになるのではないかと思う。

武谷さんは、上記の論文で、最後に実体論から本質論へ至る3つの形態について書いている。これも形式論理的な解釈をすると面白いのではないかと感じる。改めて考えてみたいと思う。