原理的な決定不可能性とはどういうものか


決定不可能性というのは、ある判断が確定しないということを意味する。世界のあり方として、いくつかの選択肢が考えられるとき、その選択肢のどれが実現しているかということが確定しないとき、現在の状態は決定できないと考えられるだろう。この決定できない・確定していないという状況は、現実を対象にしてそれを認識しようとすればいつでも遭遇するようなもののように感じる。

「一寸先は闇」ということわざがあるように、未来については決定していない・確定していないと普通は考える。だが、ある種の未来に関しては、現在の状況のいくつかの側面を把握することによって、未来がどのような状況になるかが決定的・確定的に語れることがある。自然科学による予測は、誤差を捨象する限りで100%確実な予想を与える。決定可能な対象が存在するということは、決定不可能性の中に、原理的な不可能性と現象的な不可能性があるということを考えさせる。

現象的に決定不可能である対象は、さいころを振る時にその出る目を考えるというようなものに見られる。1から6までのどの目が出るかは、さいころを振る前には決定することが出来ない。どれも同じだけの確率で出るだろうということしか分からない。例えば、1の目が出るというのは、1/6の確率で期待できるということは分かるが、確率が1になるか0になるかという決定は出来ない。確率が1か0のどちらかになることがないということが、その現象が確定しないということでもある。

しかし、ここにいかさまのさいころがあって、このさいころを振ると99・99%の確率で1の目が出るとする。そうすると、このさいころについては、1の目が出るということに関して、0・01%の誤差を捨象して、1の目が出るということが確定する。

このいかさまさいころは、重心の位置であるとか、どの高さから落とすかとか、いくつかの初期条件をデータとしてつかんでおけば、そのデータを形式論理的なアルゴリズムにかけて計算して結果を算出すれば、現実にその結果どおりの現象が生じる。(厳密にいえば、現実には100%ということはなく、誤差を含んで100%という判断になる)

現象的な決定不可能性については、実際には決定していると思われるいくつかのデータを我々が知らないために、それ以後のアルゴリズムを計算することが出来ずに決定不可能になっていると考えられる。この場合は、知られていないデータを知ることが決定可能にすることになり、我々にとっては決定不可能性は観測・測定の技術の工夫によって克服される。

このような現象的な不可能性に対して、原理的に決定不可能であるとはどういうことになるのだろうか。一つは、初期条件としてのデータが、絶対に知りえないという状況にあるときだろう。技術の問題として知りえないのではなく、ロジックの問題として知り得ないということが主張できるときに、その初期条件から計算されることに関しては、原理的に決定不可能になるだろう。

例えば、人間の目で見て、その見たことを初期条件のデータとして計算するようなアルゴリズムがあった時、目で見るという限界が、現実存在である人間にあるということから、その限界を超えるような対象に関しては原理的にデータが得られないということがある。これは、どんなに技術を工夫しても、無限に小さいものを人間が目で見るということが出来ないということを前提にする限りでは、原理的に不可能な対象が想定できる。

このような原理的な決定不可能性は、決定不可能ではあっても、物質的な対象として捉えることが出来る。つまり、我々の意志という自由な存在ではないので、その決定不可能な状態を確率論的に捉えて形式論理の対象とすることは出来る。個々の状況に関しては、確率が1になるか0になるかという決定は出来ないものの、いくつかの選択肢に関しては、その分布を確率的に規定して、確率をアルゴリズムの対象として、計算結果を提出することが出来る。

これは、個々の一つの現象がどうであるかという決定に関しては確定しない。しかし、その現象が全体としてどのようになっているかということでは決定しているとも考えられる。運動をしている物質が、現在この場所にいるということを決定すると、運動をしているということが決定できなくなるが、だいたいこのあたりにいるようだという全体性で運動する物質を捉えると、位置を確定することは出来ないが、運動をしているということが確定できる。

現象的に決定不可能な対象に対しては、技術を進歩させることによって、今まで不確定だったデータを確定させることで、形式論理的なアルゴリズムが適用できる対象に出来た。現実存在である人間的な限界からもたらされる原理的な決定不可能性に関しては、個々の対象に関する決定は出来ないが、いくつかの選択肢を全体として把握することで、確率的な決定論の下にアルゴリズムを適用できるようにする工夫が出来た。つまり、原理的に決定不可能な対象に関しても、形式論理を適用する工夫が出来る。

原理的な決定不可能性に関しては、人間的な物理的な限界からくるものと、無限を取り扱うことができないということが働いて原理的に不可能なものとが出てくるようにも思われる。いかさまさいころの場合で言えば、それの初期条件としては、有限個のデータが結果の大部分を計算するのに有効であると考えられる。それは、重心が偏っているために、ある程度の高さから放れば必ず重いほうが下にくるという予想が出来たりする。

放り出す角度がどのようになっているかとか、その放り出す速度がどんなものかということが、データとしては結果に影響を与えず、それらを捨象できるという解釈が出来る。このような有限個のデータから決定できるアルゴリズムがあれば、決定不可能性は克服できる。

しかし、つかむべきデータが、これですべてだと思ったときにも、他に見逃したものがあって予想が違ってくるとしたら、これは無限に多くのデータを集めなければならないという人間存在の限界がもたらした決定不可能性ではないかと思われる。見逃したデータがいつでも影響を与えるようなアルゴリズムは、その予想が外れたときに、それを例外として捨象するという処理が出来ない。これは、実無限を把握できないということからくる決定不可能性ではないかと思われる。

無限についてもう一つ考えると、アルゴリズムの中に無限の繰り返しというループが入り込んできてしまうときなど、これはそのアルゴリズムで解の計算が終了出来ないということから決定不可能になる。これは、現実の条件から規定される原理的な不可能性ではない。アルゴリズムにループが含まれているということは、形式論理の問題になる。形式論理は、基本的にこのような無限ループを排除して、有限回の手順で決定可能になるように全体系を構築するようにしている。

以上の決定不可能性は、それが現実のものであれ、形式論理のものであれ、対象としては意志の自由が存在しない物質的なものだった。だから、これは決定不可能であっても、何らかの工夫をすることによって形式論理で取り扱うことが出来るようにしてこれた。しかし、これが意志の自由が介在するようなタイプの決定不可能性になると、それはもはや形式論理で取り扱うことが出来なくなる。

ある選択肢を選ぶときに、意志の自由が介在すると、その選択肢を選んだことによって不利益が生じたり、それを選ぶことが間違いであると思われても、意志の自由によってそれが選ばれるということがありうる。ここに意志が介在しなければ、それは自然の法則性によって合理的な選択肢が結果的に選ばれたように現象するのだが、意志の自由はその合理性を破壊して理不尽な選択肢を選ぶことが出来る。

これは、形式論理が対象にすることが出来ない、弁証法的な矛盾を含んだ対象になる。アルゴリズムによって、この選択肢しかありえないという計算をしたとしても、その解答を見て、あえてそれを選ばないという選択も意志の自由によって行える。意志の自由が介在する対象は形式論理で扱うことが出来ない。心の問題は形式論理の対象にならない。カント的な表現を使うと、純粋理性の判断は形式論理で合理性・必然性を考えることが出来るが、実践理性の判断は形式論理によって合理性・必然性を証明することが出来ないということになるだろうか。

形式論理による合理性・必然性の判断ができなければ、それは真理であるという主張は出来なくなる。理論展開というものが出来なくなる。「こうあるべきだ」ということを語る「べき論」は、意志による選択の表明として意味があるもので、真理性を検討するものにはならないだろう。「こうあるべきだ」と思っても、現実にはそうなっていない場合はいくらでもある。それは形式論理的な意味での真理ではないからだ。この現実に対して、感情的に反発することなく、どうして「べき論」が実現していないのかを冷静に捉えることが出来なければならない。そのためには、現実が「べき論」に従っていないという現象に対する感情的な免疫性をつけることが重要だろう。

もう一つ原理的な決定不可能性で気になるのは、言語論的な側面での決定不可能性だ。ある命題が決定的・確定的であるという判断をするためには、その命題が語る意味が確定していなければならない。命題そのものの意味が二重性を帯びていて、視点を変えればいくらでも反対の主張のほうが確定するというような内容であった場合、これは命題の主張を確定することに意味がなくなる。反対の立ち位置にいる人間にとっては確定しないものになるので、形式論理的な判断ができない。

南京事件」を「大虐殺」として語るとき、この「虐殺」という言葉の定義はその中に不確定な要素が含まれている。だから、「南京事件」を「南京大虐殺」という言葉で表現すれば、その瞬間にこの事件では不確定要素が入り込むのだという意識を持たなければならない。もし「南京大虐殺」という言葉を使うなら、それは政治的なプロパガンダになり、立ち位置によって違う判断をするということが、この言葉にそもそも伴っているのだと自覚しなければならない。

南京事件」を「南京大虐殺」と呼ぶのは、この歴史的事実の問題に対して真理性を問題にするという立場を放棄するということを意味する。「虐殺」という言葉のもつ原理的な不確定要素が、どういう選択をするかという意志の自由による選択によって、恣意的に確定されてしまうということを自覚しなければならない。何を「虐殺」と規定するかは、極めて恣意的なものにならざるを得ない。

南京事件」において、この不確定要素を考慮に入れて形式論理で取り扱うには、誤差を含んだ判断をするしかないだろう。この事件にかかわった死者に対して、戦闘の途中で死んだのか、戦闘後に殺されたのか、ということはある誤差を含んだ人数しか出せないだろう。それが「虐殺」であるかどうかという判断は、考えたとしても客観的に主張できるものではない。それは個人がそう思うかどうかということしか確定しない。

南京大虐殺」の判断は、真理性を考えることに意味がないと僕は考えているのだが、その中でも中国の主張である「南京大虐殺30万人説」というのが、何故ばかげた主張だと考えるのかは、再度詳しく考えてみたいと思う。どれも意味がないのなら、ことさら「30万人説」だけをばかげたものと断じるのは偏見ではないかとも感じるだろう。形式論理的な観点から考えると、それが持つばかげた面を際立たせてくれるものだと僕は思っている。小室直樹氏が論じている「南京大虐殺否定論」を参考にして考えてみようかと思う。