久間発言の形式論理的考察


久間防衛相が「しようがない」という発言によって辞任をした。このことについては、多くの報道があり、また多くの人がブログなどで言及しているようなのだが、何が問題なのかというのが余り明確になっていないように感じる。原爆被害者の感情を逆なでするような発言だったということは、その後の事実を見れば、事実として確認は出来る。しかし、感情を逆なですること自体が問題だとは言えないだろう。

もし感情を逆なですること自体が問題だと考えるなら、他人を怒らせたものは、怒らせたということで落ち度があることになってしまう。怒った方が勝ちということになってしまう。怒らせたほうに何らかの間違いや逸脱があって、それが原因で怒ったのなら、それは責任を感じなければならないだろう。しかし、怒ったほうが、何らかの勘違いをして怒っているのなら、怒らせたほうに責任はない。怒った方がその間違いを理解することが必要だろう。

差別糾弾主義者の論理では、ある発言が差別であるかどうかは、その発言によって傷つき・差別だと感じる人間がいれば差別だと判断されてしまう。どう感じるかということに基準があるのなら、それは極めて主観的なものだ。客観的に差別の不当性を証明するものがない。このような判断で糾弾するのは間違っていると僕はずっと思っていた。久間防衛相の発言についても、感情の問題だけで非難されているのなら、それは辞任に値するほどのものではないと思う。その発言が、感情の問題にとどまらず、どのような問題があるのかを明確にするために、これを形式論理のメガネで考えてみたいと思う。

まずは久間防衛相の発言がどんなものであったかを確認したい。「久間防衛相の発言要旨」というニュースによれば、次のように報道されている。

「日本が戦後、ドイツのように東西で仕切られなくて済んだのはソ連が(日本に)侵略しなかった点がある。当時、ソ連は参戦の準備をしていた。米国はソ連に参戦してほしくなかった。日本との戦争に勝つのは分かっているのに日本はしぶとい。しぶといとソ連が出てくる可能性がある。日本が負けると分かっているのにあえて原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった。長崎に落とすことによって、ここまでやったら日本も降参するだろうと。そうすればソ連の参戦を止めることができると(原爆投下を)やった。幸いに北海道が占領されずに済んだが、間違うと北海道がソ連に取られてしまった。その当時の日本なら取られて何もする方法がない。長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るのかなということも頭に入れながら考えなければいけない。」


久間氏が語ったことを評価するということは、上の文章として表現されたことの意味を正しく受け取ったことを前提として、それに対して評価をするということになる。言語として表現されたことは、意味の多重性があるために、それを一つに確定する必要が出てくる。それが確定できなければ、意味の選択肢のいくつかを承認した上での評価が必要になる。

さて、意味というのは、それを一つに確定するためには文脈というものが重要になってくる。他人に対して「バカ」という言葉を投げかけたとしても、それは文脈によっては愛情表現になったり、罵倒や軽蔑の表現になったりする。まったく正反対の評価が出来る場合がある。これが、文脈を正しく読み取ることが出来れば、発言者の真意というものを評価できる。

上の久間発言は果たして意味を確定することが出来るものになっているだろうか。非難されている言葉は「しょうがない」というものなので、これの意味が確定できるかどうかが問題だ。「しょうがない」というのは、辞書的には「仕様がない」ということで、「仕方がない」という見出しで辞書では次のように説明されている。

  • 1 どうすることもできない。ほかによい方法がない。やむを得ない。「―・い。それでやるか」
  • 2 よくない。困る。「彼は怠け者で―・いやつだ」
  • 3 我慢ができない。たまらない。「彼女に会いたくて―・い」


久間発言の意味としては、文脈から考えれば、1の意味として読み取れるだろう。原爆の投下に関して、「よくない」「困る」「我慢が出来ない」「たまらない」という、2や3の意味で発言したのなら、何ら非難されるいわれはない。1の意味での発言だったからこそ、原爆投下を容認したというふうに受け取られて、それが感情を逆なでしたということにつながったのだろう。

それでは、これがどのような問題として理解されるのか。原爆投下を容認したというふうに受け取られているようだが、この場合の容認は、積極的にそれが正しいと認めたこととは違うのではないかと思う。少なくとも上の報道の文脈ではそう読むことは出来ない。「勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという思いは今でもしているが」と語っているように、原爆投下が正しい・あるいはいいことだと積極的に容認しているのではない。「しょうがない」という言い方は、現実の条件としては、それを避ける方法がなかったという、認知的な問題として発言しているように受け止めるのが文脈上正しいのではないかと思う。

この発言を、アメリカの立場に立って・アメリカを擁護したものだと受け取ると、それは感情的に怒りを感じても仕方がない。日本人の立場を忘れているということでナショナリズム的にも批判できるだろう。しかし、アメリカ人とか日本人とかいう立場を捨象して、客観的な立場から、原爆投下の必然性を考察したものと受け止めると、形式論理的にはその必然性の判断が正しかったかどうかということが問題であって、それを感情的に受け止めるのには違和感を感じる。

客観的な判断の立場というのは、日本人としての立場も捨象するので、感情的には他人事を語っているように見え、それだけで感情を逆なですることもある。しかしそれ自体が悪いことだと思うなら、客観的に正しい判断など永久に出来ない。原爆投下に必然性(ある種の正当性)があったと考えるなど、絶対に認められないということを前提にしてものを考えるのは、宮台氏的な意味でのフィージビリティスタディの可能性を放棄するものだ。それは、結論としては否定されるかもしれないが、考察の選択肢としては設定することが出来なければならない。

そうでなければ、客観的な正しさを持った主張というのが出来ないことになるだろう。ある選択肢を最初から排除して考察をするなら、それは、観念の世界では、狭い世界を設定していることになる。現実がその狭い世界によく合致するものなら間違いはないだろうが、現実がもっと多様な可能性を持っているものであれば、そのような考察は、ある種のイデオロギーに縛られた間違いとなるだろう。マルクス主義が犯した間違いと同じものが現れるに違いない。

感情的に、どんなに否定したいと思っても、原爆投下の必然性があったかどうかを考察するということは、形式論理的には必要なことである。そして、形式論理のメガネから久間発言を理解するなら、その最大の問題は、「しょうがない」ということの意味である「必然性があった」という判断が正しかったかどうかということに絞られる。これは、正しかったと判断することが、アメリカにとって都合がいいかどうかとは関係ない。客観的にそう判断できるかどうかということが、形式論理的な問題になるのだ。

そのような問題意識で久間発言を見ると、それを非難する言説に、この判断が正しかったかどうかを取り上げたものが見つからないことに違和感を覚える。原爆被害者の感情を逆なでするというような非難はたくさんあるものの、その判断が正しいかどうかに言及したものがない。拾い集めてみると、久間発言に対する非難は次のようなものが圧倒的に多い。

感情的・道義的な避難

  • 「2度までも原爆の被害を受けた唯一の民族として、どんなことがあっても容認する発言は許されない」(冬柴鉄三国土交通相
  • 「日本国民としてとても許せない。大臣をやっている資格はまったくない」(鳩山由紀夫民主党幹事長)
  • 「今も苦しむ被爆者が多い長崎で、県選出の国会議員がこんな発言をするとは言語道断だ」(長崎県原水禁の中崎幸夫会長)
  • 「本当に日本を代表する政治家なのかと聞きたい。こんな発言は被爆者を2度殺すのと同じだ」(韓国被爆者2世の会の李太宰さん)
  • 「日本人が言うべき発言ではない。障害を負った人や遺族の心をいかに傷つけたか。撤回とかおわびをすればいいという筋合いのものではない。『自民党はこれほど国民の心を理解しないのか』と批判されれば、返す言葉がない。安倍晋三首相が気の毒だ」(自民党保坂三蔵議員(東京)、後半はやや政治的な発言の印象を受ける)
  • 「久間大臣は長崎の出身。原爆が落ちたとき4、5歳で被爆者の苦しさを見聞きしたと思うのに、怒りというより表現できないほどの震える思い。ああいう発言は許せない」(東京都原爆被害者団体協議会の飯田マリ子会長)


政治的・あるいは迷惑をかけたという意味での非難

  • 「適切な発言であったとは思わない」(渡辺喜美行政改革担当相)
  • 「防衛相としてふさわしくない発言だ」(菅直人民主党代表代行)
  • 「閣僚は国民の誤解を招くことがないよう常に言動に十分配慮することが必要。総理から厳しく注意をした」(塩崎恭久官房長官


いずれの発言も、原爆投下の必然性の判断に言及したものはない。しかし、その考察抜きに「しょうがない」という言葉の意味の理解は出来ないのではないだろうか。怒らせたから悪いのか、騒がせたから悪いのか。もしそうなら、この騒動は今までのものと同じく極めて日本的な、実りのない批判ということになるだろう。

911のニューヨークテロが起きたときに、パレスチナの地では、アメリカの擁護の下に自分たちを弾圧してきたイスラエルとの関係で、それに感情的に快哉を叫ぶものたちがいたというふうに言われた。それは十分想像可能な感情だ。また、日本の侵略に苦しめられたところでは、原爆投下によって戦争が終結したことに快哉を叫ぶ感情が存在したという。それも想像可能な感情だ。

もし、感情的な反発が批判として肯定されるなら、原爆投下の正当性を感じるような感情も認めなければならない。感情を基礎にした判断をするなら、どちらも認めなければ論理的な平等性を失う。久間発言に対する評価が、感情的なものだけしか現れないなら、それは信念の表明として受け取るしかなく、客観的に正しい判断を語ったものとしては受け取れない。感情的でない評価を語ったものがないかどうか探して、それを形式論理的に考察してみたいと思う。新聞の社説などにそれを探してみようかと思う。