新聞社説に見る久間発言批判 2


久間発言を取り上げた新聞社説は多いものの、そのほとんどは「しょうがない」という言葉で語られた内容そのものよりも、それが原爆投下を「容認」したかのように語ったと誤解されたことを批判したものばかりだ。この誤解が、犠牲者の犠牲もやむをえなかったものと扱われ、原爆投下の責任を問わないということにつながり、感情的な反発を呼んだように見える。批判のポイントは「容認」というところに集中した。

しかし、これは久間氏本人が「誤解を与えた」と釈明しているように、「容認」そのものを語ったのではなかった。結果的に誤解を与えたことに対して、結果責任として政治家が責任を取るというロジックは成立すると思う。言っていることは間違ってはいないが、世間が誤解したために、政治家としてはその混乱に責任を取る必要があるというロジックだ。

これは、自民党選挙対策として久間氏に辞任を迫る人間が自民党内にいたりしたので、政治的なロジックでそういうことが成立するのだろう。しかし、このロジックは、感情的な反発を感じている人間からは、政治家としての責任をとったという理解ではなく、「発言の間違いを反省していない開き直り」だという受け取られ方をする。僕の印象では、開き直りというよりも、久間氏自身は、発言を間違えているとは思っていないので、あくまでも混乱させたことを政治家として責任をとったのだというふうに見える。誤解という掛け違えたボタンは、誤解後の行動にまた誤解を生んでいるというふうに僕には見える。

久間氏に本当の意味で反省を促したいのなら、「しょうがない」という認識がどのように間違っているかを批判しなければならないだろう。誤解を与えたことを批判しておきながら、誤解の責任を取ったことに「反省がない」という非難をぶつけるのは、形式論理の展開としては批判するほうが間違っているように思う。「しょうがない」という認識を否定したいのなら、この認識そのものを批判して否定する必要がある。誤解を与えたという批判は、「しょうがない」という認識の否定にはならない。

ここにはマスコミ報道のご都合主義というのがあるのを僕は感じる。マスコミは返す刀が自分のほうに返ってくるのを避けるために、本質的な批判をせずに、世間が騒いでいる部分だけに論点を集中させて、宮台氏的な表現を用いれば「俗情に媚びた」報道をしたのだと思う。

久間発言に関する社説はまだたくさんあるので、その批判が何を否定しているのかをまた考えてみよう。

「久間氏は一種の放言癖があるらしい。これまでも、米国のイラク戦争在日米軍再編に絡んで問題視される発言を繰り返してきた。ただし、今回の発言は被爆者の苦しみを理解せず、踏みにじっただけでなく、戦後日本の平和政策を覆すような内容だったことで、質が違う。」
神戸新聞、7月4日)


ここにも「しょうがない」という言説の内容への言及はない。その言説が人々にどう受け止められたかという「苦しみを理解せず、踏みにじった」という感情への影響が批判されている。これは、久間氏が「苦しみを与え、踏みにじること」が目的で発言したのなら、誤解ではなく正しく受け止められたといえるだろう。しかし、久間氏がいかにひどい人間だと認識している人でも、公の場でこのような意図を持って政治家が発言するということに整合性を見出せる人間はいないだろう。「苦しみを理解せず、踏みにじった」というのは、結果的にそういえるだけであって、意図にそれがなかったのなら、それは誤解という判断をせざるを得ない。だから、ここにあるのは、誤解させたことが悪いという批判なのである。

また、この程度のことで「戦後日本の平和政策を覆す」というのなら、それは、戦後日本の平和政策が非常に脆弱なものであることを告白しているようなものだ。原爆投下が、もしも止むを得ない判断のものであっても、それでもなお平和を守るための運動が必要だという信念の強さがなければ、形式論理的には困難な平和運動など維持できるはずがない。

平和運動が形式論理的に困難だというのは、現実には国家における暴力装置である軍隊は決してなくならないからだ。憲法9条によって軍隊の保持を認めていない日本でさえも、自衛隊という強大な軍隊が存在しているのに、平和運動はその軍隊の活動を制限しなければならないという主張をする運動だ。現実の存在を形式論理で否定することは出来ないので、その存在を前提にして、平和の実現を論理展開するのはきわめて難しい。

これを素朴に形式論理で展開すれば、自分が平和を願っても、相手が平和主義でなかったらどうするのかということに答えることが出来なくなる。それこそ、素朴に解答すれば、どこまでも無抵抗で、虐殺されても文句は言わないで運命に従いましょう、というようなことが結論されてしまう。現実に、日本が軍隊なしでやっていけると錯覚するのは、アメリカという世界最強の軍事力が日本を守っているという事実があるからなのである。

原爆投下に必然性があったなどと言われただけで「平和政策を覆す」と言ってしまうような脆弱さでは、形式論理によって現実の矛盾した面を整合的に解釈していく道を見つけるのは難しいだろう。感情的に願うような素朴な平和主義になってしまうに違いない。脆弱な平和主義を脱するには、原爆投下の必然性そのものを批判する「しょうがない」という内容への批判が必要だ。

沖縄タイムスの社説(7月4日)では、

「長崎に落とされて悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている」

「勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るのかなということも頭に入れながら考えなければいけない」


という久間氏の言葉に対して、「ここには、原爆使用の違法性、残虐性の認識がまるでない」という批判がされている。これは形式論理的には的外れの批判であるように僕は思う。もし「違法性」「残虐性」というものが、原爆投下の必然性に関して重要な要素となるものであれば、これは形式論理の展開においても重要なものになる。だが、必然性の決定というものが、これ以外の要素の重さによって決まるものであれば、この二つは決定の判断の際には捨象される。たとえ違法性があっても、残虐性があろうとも、それを使わざるを得ないのだという意志決定がされる判断は成り立つ。

それを、違法なもの・残虐なものは「やってはいけない」という原理で現実が動くと捉えているなら、それは道徳性と法則性を混同するものだ。実践理性の働きと純粋理性の働きの違いを無視している。道徳が破られるという現象はいくらでもあるのだ。道徳的主張をしていれば戦争を避け・平和が維持されると考えるのは、あまりにも素朴すぎる。

違法なものは取り締まられるのだから、それは道徳とは違うという主張もあるかもしれない。しかし、違法性を取り締まるのは国家の機能であり、国家の暴力装置が違法者を取り締まるのである。それは、平時に国家という存在があってこそ可能な機能だ。戦時という特殊な状況で違法性が同じように取り締まられるだろうか。そもそも、国家の犯罪を取り締まる、国家を超えた国際機関というものがありうるのか。それを国連に期待しているのだろうか。

国連がそのような機能をもっていないことは、イラク戦争におけるアメリカの違法性を何も止められなかったことを見ても分かる。でっち上げによるいちゃもんをつけて、攻撃してしまえば、その事実性が戦争を肯定してしまっている。やってしまったものは「しょうがない」という感じだ。

違法性は戦時においては捨象されてしまう。国家が戦争行為を行う時は、法律に従うことが最優先されるのではなく、戦争に勝つことが最優先される。そして、勝ってしまえば違法性はどうにでも解釈できてしまう。これは、どうにでも解釈できるからそれでいいのだという主張ではない。現実に結果としてそうなるという事実の認識を持つほうが正しいという主張だ。

久間氏の「しょうがない」という判断には、違法性や残虐性は捨象されていると僕は見ている。捨象しなければ「しょうがない」という判断は出来ないだろう。だから、「しょうがない」という判断を違法性や残虐性の観点から批判するなら、それを捨象していることが間違いだという論理展開をしなければならないだろう。捨象しているという現象を取り上げて、それが間違いだと批判しても、その根拠を何も述べていなければ、それは信念の表明をしているに過ぎない。その信念に賛同する人間は同感するだろうが、そうでない人間は、その批判を的外れだと思うだけだ。

「安全保障を担当する重要閣僚が、核廃絶に取り組む国の方針に反し、原爆投下を正当化するような発言は非常に問題であり、辞任は当然だ。」
徳島新聞、7月4日)


ここでも語られているのは、「正当化するような」という「ような」だ。正当化する論理そのものの批判ではない。もしここで正当化する論理そのものの検討に向かえば、久間氏の発言が、良い・悪いという価値判断的な意味での「正当化」ではなく、事実の方向性としての必然性があったかどうかという客観的判断の「正当化」の問題であるということが分かるだろう。そうすれば、批判の方向は事実認識の判断の正しさに向かうようになっただろう。これはたいへん難しい論理展開になるので、分かりやすいほうへシフトして、俗情に媚びた批判になったように思われる。

さらにここで問題を感じるのは、「核廃絶に取り組む国の方針」というのが自明の事実のように語られていることだ。「方針」というからには、ちゃんとしたロジックがあって、廃絶が可能だという方向を指し示さなければならない。具体的なプランをもっていなければ、とてもそれが「国の方針」だなどとは言えないだろう。それこそ、願っているだけではあまりにも素朴すぎる「方針」だ。実現の可能性はほとんどない。徳島新聞の言説は、きれい事を語っているだけで、ご都合主義に過ぎないのではないか。

言葉だけならいくらでもきれいに飾り立てることが出来る。久間発言をめぐる批判の嵐は、どれも同じようなものばかりというのは、自分を棚上げにして、安心してたたける対象であるから、誰もが同じことしか言わないのではないかと感じる。自分を棚上げにしない言説を新聞に見つけたいのだが、それはなかなか見つからない。もう少し探してみることにしよう。