国家概念抽象の過程 1


萱野稔人さんの『国家とは何か』(以文社)を手がかりに、国家という概念が抽象されていく過程を考えてみたいと思う。国家という概念は、愛国心論議のときにも、それぞれの主張する愛国心の対象としての「国」というものがどうも違うものであると感じるように、その概念を明確につかむのが難しいものである。また、それぞれの国家概念は、どれも完全に間違っているとはいえるものでなく、ある面から見ればそのように見えるというものにもなっている。国家概念は、これが唯一の正しいものだというのを示すことも出来ない。それぞれの国家概念が、どのような抽象の過程を経て見出されたかという具体的な面から、その有効性をつかむことが概念の正しい理解ではないかと思われる。

さて、萱野さんはこの著書の中で、「しかし国家は実体でもなければ関係でもない。では何なのか。さしあたってこう言っておこう。国家は一つの運動である、暴力に関わる運動である、と」と、語っている。萱野さんの国家概念は、それは「運動である」という捉え方をしている。この概念は、どのような過程を経て抽象されてきたのか。抽象の過程で、具体的な属性として何が捨てられてきているのか。そして、その抽象と捨象によって、どのような理論展開の方向が見られるのか。その有効性はどういうものとして現れるのか。そんなことを考えてみたいと思う。

まずは、運動であるという見方を考えてみよう。国家の実体的側面を捨象して、その機能(運動はある種の変化であるから、変化を捉えるという意味で機能的側面を見ることになる)を抽象して運動を見るということは、国家のイメージ・シェーマはどうなっているのだろうか。実体的側面であれば、イメージを形成するのも、それを象徴するものとしてシェーマ化するのも容易だ。

国家を領土というような実体でイメージすると、シェーマとしては国境のような領土の境界を思い浮かべることが出来る。しかし、この国家概念は、土地さえ守られれば国家として存続しているということになってしまい、現実的に支配されているような場合でも国家として成り立っているという判断になってしまう。これは、国家というものがそこに生きている人々の社会として機能しているという側面を考察することが出来ない概念になる。概念としての有効性が狭くなってしまう。

実体的に国家を捉える概念は、その実体の属性の限界というものが伴うので、いずれもこのように有効性が狭められることになるだろう。国家は、実体的な側面は、その機能が現れる部分的な要素として捉えられる。領土や国民、法制度など国家の機能が及ぶ範囲は広い。しかし、それはあくまでも部分的なものであって、その部分がそのまま国家という全体像と重なることはない。国家というのは、全体像として捉えられなければ概念としての有効性を失う。つまり、理論展開における原動力としての有効性を失う。萱野さんも、「国家とは何かという問いは、概念によってトータルに答えられなくてはならない」と指摘している。全体像こそが問題なのだ。

具体的な実体では表現しきれない高度に抽象された対象は、全体像というものの把握がその概念の把握になるというのは、抽象的対象のみを扱う数学では良く見られることだ。数学では初歩の段階での抽象である数の考察においても、具体的なものの個数がそのまま数としての抽象にはならない。リンゴが2個あり、ミカンが2個あるという具体的な実体から、2という数が抽象されるのは、数というものの全体像の把握が必要になる。

この抽象の過程は、1対1対応をつけることができるということから数として抽象されていく。2という数が表す現象は、すべてそれぞれを1対1に対応させることが出来ることから、共通の性質としての2が抽象される。そして、自然数の全体像は、このような1対1対応がつけられたあらゆる現象の全体像としてつかまれたとき、数の概念が理解できたということになる。

国家の全体像というものが、運動という捉え方をすると見えてくるということが萱野さんが語ることなのではないかと思う。実体的な捉え方では、ある部分という一面しか見ていないことになるが、それを運動として捉えたとき、初めて国家は全体像を見せるのではないだろうか。それは、国家に関わるあらゆる現象が、運動として捉えることが出来るということから、もれなく全体を捉えることが出来るという意味で全体像につながっているのではないだろうか。

だが、運動を捉えることは難しい。また、うまく捉えたとしても、それを形式論理で表現するにはいろいろと工夫がいる。運動の表現には、本質的にゼノンのパラドックスの要素が伴うからだ。運動そのものは矛盾ではないが、運動の表現には矛盾が入り込む。形式論理は、運動の瞬間を静止的に捉えて表現する。動画といえども、本当の意味で動いているのではなく、人間には、瞬間の連続の静止画が、それが消えている間が想像と錯覚によって埋められて動いているように見えているに過ぎない。運動というのは、物が動いていて何かが変化しているには違いなのだが、それを捉えることが出来るのは瞬間の静止だけだという意味で、「運動しているものは、動いているとともに止まっている」あるいは「空間のその位置に存在するとともに存在しない」という表現を要請する。

形式論理は、この矛盾した表現を、「動く」ということに関しては表現せずに、瞬間のある状態を記述する関数によって矛盾を排除する工夫をしている。時間をパラメーターにする関数は、ある瞬間における物質の位置を記述する。それは、瞬間の記述であって「動き」や「変化」は記述されていない。「動き」や「変化」は、人間が感じ取るものであって、関数には直接表現されていない。それが過去であろうが未来であろうが、瞬間の状態を正確に記述できるということで「動き」や「変化」を読み取れるようにしたことが、形式論理における「運動」の表現の工夫だ。

国家を運動として捉えた場合も、その運動によって何かが変化し、何かが動くという現象が見られるはずだ。その運動も、形式論理で表現しようとすれば、やはり瞬間の記述をするしかないのではないかと思う。静止画として捉えられる国家の運動というのはどういうものであるのか。

萱野さんは、国家の運動は「暴力に関わる運動である」と語っている。その静止画像は、何か暴力が行使される場面というものが対象になるらしい。社会の中で暴力が使われる場面で、その暴力が行われる以前、瞬間、それ以後を時間のパラメーターの中での関数としてみたとき、その記述がある程度正確に客観的に出来るなら、この国家の運動を形式論理で記述することが出来る。

国家の運動は、物質の運動と違って精密な抽象が難しい。物質の運動は、質量や加速度など、その関数のパラメーターの絞込みが出来るが、国家の場合はパラメーターが多すぎて、なかなか物質の運動ほどうまくいかないだろう。だから、ある程度誤差を含んだ抽象になり、正確な記述といっても、精密さで測るような正確さではない。それは、国家にある前提を設定して、その前提のもとでなら誰もが同じ判断になるだろうというような正確さを見つけるということになる。

さて、暴力が行使される場面を想像すると、過去のある時点ではまだ暴力が行使されない平和な時間というものが静止画像として見える。それがある瞬間(これも抽象された「瞬間」で、数学的な意味での「瞬間」というよりも、時点として捉えられる、現実的には幅を持っていてもその幅が捨象されるような時点といえる)に暴力が行使される場面が見える。そして、その暴力行使以後には、国家の暴力による対応が見られるという静止画像が考えられる。

このとき、この現象が関数として記述されるというのは、この瞬間の画像がある法則性を持って、客観的・正確に判断されるということだ。誰が判断しても、その暴力が違法であるか合法であるかが同じ判断になるという想定をすることで、これを関数として捉えることが出来る。これが、国家を構成する人間によって判断が違ったり、そのときに置かれた特殊な事情によって判断が違ってくれば、国家(この運動)は関数としての記述が出来なくなる。特殊な事情というのを誤差として排除できればいいのだが、そうでない時は、国家の運動は予測不可能な偶然性のものだという判断をせざるを得なくなる。

実際には、現実の国家を観察して、そこから関数を見出すというのではなく、抽象された国家が従うような関数を見出し、それを運動としての国家の概念とすることで、その概念を理論展開に有効に活用するという方向を考える。萱野さんのやっていることはそのような方向であるように感じた。

抽象された国家において、萱野さんは、国家は暴力の行使においてそれが合法的であるかどうかの判断をする権利を持つと規定している。これは、違う判断によってその行使が正しいかどうか、例えば道徳的に正しいかどうかという判断とは関係なく、国家の権利として(ある意味では恣意的に)合法か否かを判断する権利を持つと規定する。言い換えれば、合法であるかどうかは、国家が決めるのであって、国家が合法であると言えば合法になるということになる。

国家と合法性に関して、このような前提を設定することに違和感を感じる人もいるだろう。合法か否かは、道義的な判断とはまったく関係がないというのは、国家が勝手に何でも決めていいのだという感じを受ける。それはけしからんという気持ちにもなるだろう。また、このような前提を持つ人間が、国家の恣意的な判断を無批判に認めているようにも感じてしまうのではないかと思う。

しかし、これは関数としての前提であって、善悪の判断というものをまったく考えないで、単に対応として出力の計算のために立てた設定なのだ。この設定なしに出力の計算をしようとすれば、それは現実の道徳性(善悪の判断)の持つ弁証法性に邪魔されて判断が確定しなくなる。それを避けるための方便として、国家は合法か否かを判断して、それを暴力行使が行われたあとに、その判断を元に対応をするという関数を考えるための設定だ。問題は、この設定によって国家の運動を記述できるかどうかにある。この設定なしには、おそらく運動の記述が出来ないのではないかと思う。

国家は、国家以外の暴力の取締りをするために自らが暴力を行使する。そして、その暴力は常に合法的なものになる。暴力の行使において、それが合法であるか否かの判断が出来るのは国家のみである。国家のみがそれを判断するので、国家の行為は常に合法であり、国家は合法的に暴力を行使する。これが萱野さんの理論展開の基本にある前提のように感じる。これによって、国家の運動の記述が、その瞬間を捉えた静止画像として過去・現在・未来に渡って正確さを持って書けることになる。

この設定だけを取り上げると、それはご都合主義的で、現存する国家を擁護する、国家のやることはすべて正しいという主張のように見えるかもしれない。しかし、この設定はあくまでも合法性というものに対してなのである。合法だから、他のすべての判断においても正しいとは限らないのだ。合法であるということは、法律違反として追及されないというだけのことであって、合法であっても道徳的に悪いことは山ほどあるだろう。合法であることと正義とを混同してはいけないのだと思う。

国家だけが合法性を判断する権利を持ち、違法なものを取り締まる暴力の行使を合法化できるという前提が、国家の運動の記述にどのように有効に働くかを具体的な例を参考にしてさらに考えてみたいと思う。そこから、国家概念の抽象の過程がさらにはっきりと見えてくるのではないかと思う。