最近の問題に関数的観点を応用してみる


最近のさまざまな事件に対して、それを関数的に捉える、すなわち何らかの法則性をもった装置がそこにあるのだという観点で見てみるとどんなことが見えてくるかというのを考えてみたい。関数的視点というのは、物事の解釈の一つではあるのだが、どんな解釈も関数的になるのではなく、関数的なものと他のものとの違いを考えることが重要になるだろう。

ミートホープによる牛肉偽装問題というのは、マル激でも取り上げられていたが、このような事件が起こるとその主犯格であるような人間の悪辣さがマスコミで取り上げられる。この問題は、牛肉でないものを牛肉と偽っていたのだから悪いことをしたことに違いはない。だから、そこに悪辣さを探そうとすれば必ず見つかるだろう。これは形式論理的な展開で得られるもので、「火のないところに煙は立たない」という因果関係がある。

しかし、この事件を「悪い人間が悪い行為をした」という解釈で理解していると、それは関数的な捉え方にはならないだろう。これは一見関数になりそうな感じもする。悪人という入力をこの装置に入れると、「悪い行為」という出力が出てくると考えてもよさそうにも思える。しかもここには完全な法則性がありそうにも見えるので、現象を関数的に捉えたようにも感じてしまう。

しかし、これは関数として捉えたことにならない。これは形式論理的なトートロジー(同語反復)で現実を捉えただけのもので、同語反復というのは、現実とは無関係に成立する形式論理の法則なので、この解釈は現実を捉えたものとはまったく言えないものになる。

同語反復の典型としては、「思考するということは考えることだ」というようなものがある。これは、「思考=考える」というトートロジーであって、「思考」や「考える」ということについて、何ら新しい知見を加えたものではない。あえて言えば、「思考」という言葉の定義を語っているだけと言ってもいいだろうか。これは、すでに「考える」という言葉について知っている・理解している人間が、「思考」という言葉の意味を理解するときに役立つだけであって、現実に対して何も具体的には語っていない。

「悪人が悪事を働く」という言い方も、「悪人」という言葉の定義としてなら意味はあるが、この命題によっては、現実の現象に対して何も具体的には語っていないと言える。「悪人」というのは、「悪事を働く」という判断によって「悪人」とされるのであって、それがどのような悪事であるかということに対しては、何も語っていない。

ミートホープの牛肉偽装問題を、悪人である社長が悪事を働いたという理解で見ていると、その社長がどうして悪人であるかということの判断は、実はどこにもされていないことに気づく。それは、自分の判断ではなく、マスコミなどが言っていることをそのまま鵜呑みにしているだけで、あとは「悪人」という言葉に含まれた言葉の定義としての意味から、悪いことをしているのはけしからんという感情が生まれてくるということになるのだろう。

この単純な理解は問題を正しく捉えたことにならないので、同じような偽装問題の再発防止をするのは難しい。「悪人が悪事を働く」というような発想で問題を解釈すれば、「悪人の排除」をするか、「悪人を善人にするという道徳強化」として問題を解決するという方向しか見えなくなる。しかし、これは現実的にはまったく有効性のない対処になるだろう。

「悪人」という属性は固定したものではない。ヒトラーナチスの党員のように残虐性のきわみを実現した人間であっても、ごく近くの親しい人間に対しては「悪人」でなかったということは十分ありうることだ。また、どんなに善人として生きてきた人間でも、状況によっては悪の誘惑に勝てない場面に遭遇する。「悪人の排除」というのは、今の時点での悪人を排除しても、すぐ次の場面では新たな悪人が登場するということで、完全な排除ができないという点で、対処としては有効性がない。

また、悪人を善導する道徳教育の難しさは、人は他人が見ていないときと見ているときでは行動が違うという、人間一般に当てはまる属性のコントロールの難しさからいえるだろう。道徳性というのは、意志の自由の問題であって、道徳的に振舞うか・非道徳的に振舞うかは自由に選択できる。常に道徳的に振舞えるようにするには、賢さと高潔さという素質を持たなければならない。これがいかに難しいかは、自分の身を振り返ればすぐに分かるだろう。

ミートホープのような問題に対し現実に有効な解決を考えるには、「悪人」というような道徳性を元にするのではなく、人間の意志とは独立に成立しているという意味で「関数」として捉えられる客観的性質に注目することが重要だろうと思う。関数は、入力と出力の関係を考えるのだが、これは言葉の定義のように、その言葉の内容として含まれている要素の対応を考えるのではない。むしろ、内的なつながりは、その概念にはないのだが、物理的な現象としてつながりがある・つまり法則性を持つ二つの対象が見つかったとき、そこに関数を発見できるのである。

さて、ミートホープのような偽装問題において、どのような要素が関数的な対応を見せるだろうか。それは、偽装することによって利益が増大するという、利益の額というものが、偽装をするという装置によって普通の値を入力としたときに、出力が飛躍的に大きな値として出てくるという面があるのではないだろうか。マル激での議論もそこを指摘していたものが一番印象に残った。

まともな商売をしているのなら、原材料としていいものを仕入れれば、それだけコストがかかることになり、またあまり高く売ろうとすると売れなくなるので、利益はある一定の額に落ち着くだろう。まともな商売は、地道に続けていかなければ利益は大きくならないのであって、一攫千金を狙うような大きな儲けにはつながらない。しかし、偽装をしていると、まともな商売よりもコストを下げることが出来るので、コストを下げた分だけ利益は大きくなる。まともな商売なら10円しか儲からないところを、ニセモノで偽装して安いコストで製品を作ると100円儲かるということになるかもしれない。

ここまでは単純な考察ですぐに分かるが、現実には、まともでない偽装のような商売をすれば、リスクも大きくなりかえって利益を減らす・下手をすれば利益が0(ゼロ)になる可能性もある。そのようなリスクを回避できるという見通しがなければ、偽装というような危ない橋を渡る人間はいないだろう。ということは、ミートホープ問題の関数としては、リスク回避をするという装置の存在も考慮に入れなければ正しい解釈が出来ないのではないかと思われる。

ミートホープが、偽装問題が摘発されたときすぐに会社を倒産させたことに、何か違和感を感じたのだが、それは実はリスク回避の装置だったということがマル激を聞いていて分かった。会社を倒産させるというのは、ある意味では重大なことで財産を失うことでもあると受け止めると、それは責任を取ったように見えてしまう。しかし、会社を倒産させてもすぐに新たな会社を立ち上げるということが出来るそうだ。摘発された会社は、社会的な信用も落ちて、行政的な処分もされるので再建は難しい。しかし、まったく違う名前で新たな会社を立ち上げてしまえば、その会社が行政的な認可が得られれば、今までとまったく同じことが出来る。表に出てくる人間の名前さえ変えれば、倒産というのはそれほどの打撃ではないということだ。

コムスンの不正が摘発されたときも、すぐにコムスンがなくなるという話が出てきたが、あれも、会社を新しくしてしまえば、その新しい会社で認可を取れればコムスンがなくなっても経営的には打撃はないという計算だったのかもしれない。この装置がある限り、偽装をすることのリスクが回避されてしまうので、偽装をすることでの利益が大きいものであればそちらの方向に関数が働く可能性が高くなる。これは道徳の問題ではなく、単純な関数の問題ではないかと思われる。

ミートホープの社長にとって誤算だったのは、世間の非難が大きくても、このようなリスク回避の装置を使えばまた同じ事が始められると思っていたのが、どうやら逮捕にまでいきそうだという感じになってきたことだ。逮捕まで行くということは、刑事被告人になるということで、このリスクまでは計算外だったのではないかと思う。マル激でもそう語られていた。

このリスクは個人にとってはかなり大きなものだろう。だから、同じような偽装問題を再発させないためには、会社をつぶせばいいのだというような構造を変えることと、偽装問題が逮捕にまで発展するという方向を打ち出すことではないかと思う。この、逮捕に関する問題で言えば、ミートホープの製品を扱っていたカトキチと生協が詐欺罪の告発をするかという問題も注目しなければならないということをマル激では語っていた。詐欺罪の告発のためには、だまされたという被害者が必要だが、カトキチと生協が、牛肉のコロッケであるということで仕入れたものが、そうでなかったらだまされたということになるだろう。しかし、カトキチと生協が詐欺罪の告発をしなかったら、だまされたのではなく、ニセモノであることを承知で仕入れていたと思われても仕方がないだろう。これは形式論理的な判断だ。

偽装をすることでの利益という問題に関しては、あと二つの関数的なつながりがあることがマル激で指摘されていた。一つは、大量に売りさばくことで、一つ一つの製品の利益は微々たるものであっても、大量に売りさばくことで積み上げられる利益が大きくなるということだ。地域の町で売るだけのときは、一つに対して少ない利益しか出ないものであれば、そこまで無理をして利益を出そうとはしないだろう。しかし、全国的に販売を展開できるときは、少しでもコストを下げられる方法があれば、そちらのほうへ行く可能性が出てくる。関数的には、大量生産という問題が絡んでくるだろう。

もう一つの要素は、川上と川下という比喩で語っていた。町の肉屋のように川下で販売している人間は、第一に内臓系の肉を仕入れることがないので、心臓などの内蔵までをひき肉にしてコストを下げようとすることが、物理的に出来ない。しかし、加工の川上にあるミートホープのような会社では、コストを下げるためにそのような肉を買い集めることができるということだ。

ミートホープという会社が利益をあげるために不正なことをして、しかもそれが明るみに出ないような仕組みというものが関数的な装置として存在していたことが分かる。この装置を改良しない限り、ミートホープの社長の道徳性を叩いても再発防止にはあまり効果はないのではないかと思う。不正行為による利益が、それば露呈したときには、利益になるどころかマイナスになるというような高いリスクを持ったものにすることが再発防止になるのではないかと思う。そして、露呈する恐れのリスクも高いものにすることが必要だろう。今回は内部告発によってそれが露呈したらしい。内部告発は消費者の利益になるのだから、内部告発を進める政党を選挙で支持するという態度を消費者が見せることが大切だろう。そして、内部告発というリスクがあることを企業も自覚して、告発されるような不正を防ぐという企業努力が重要になれば、偽装問題のようなものも再発しないのではないかと思う。少なくとも、ミートホープの社長を叩いて溜飲を下げるような態度よりも現実に有効で建設的な方向を向くのではないかと思う。