格差は悪いことなのか


内田樹さんの「格差社会って何だろう」というエントリーが話題を呼んでいるようだ。はてなのブックマークも300近いものがつけられていた。これが話題を呼んでいるのは、内田樹ともあろうものがなぜあのような駄文を書くのか、という見方をされているからのようだ。

これは面白いことだと思う。もし、あの文章を内田さんが書いたのでなければ、ほとんど注目もされずに黙視されたのではないだろうか。これはひどいと思った人が多かったのだが、その文章を書いたのが内田樹だったというのであれだけのブックマークがつけられたようだ。

この現象を解釈するには二つの方向があると思う。一つは、内田樹はもともとひどいことを書く人であって、たまたま本が売れて気の利いたことを言っているように見えているだけで、実際には多くのベストセラー作家と同じように、通俗的で浅い見方だからこそ本が売れているに過ぎないのだという解釈だ。誰にでも分かるような大衆受けする、宮台氏的な表現を使えば、俗情に媚びるようなことを書いているからベストセラーになるのであって、今回は、たまたまボロが出てひどいことがそのまま出てしまっただけだという解釈だ。

しかし、この解釈には論理的には一つ違和感を感じる。ベストセラー作家の大衆迎合性というのは、それが売れるポイントを良く抑えているので、よほどうっかりしていない限りではアンポピュラーになるようなことを言うものではない。それなのに、内田さんは、時としてわざと憎まれるようなことを書く。これは、うっかり間違えているというよりも、確信犯的にやっているようにも見える。そうすると、ボロが出たという見方はあまりふさわしくないような気もする。

内田さんに対して、最初からあまり評価していない人は、ボロが出たというよりも、もともとそんなものだったんだよという判断をするだろう。だから、そうであれば、いまさらそんなものに注目しても仕方がないというような感覚でいるのではないだろうか。内田さんのこのエントリーが注目を集めるのは、今までに多少なりとも評価していた人たちが、何でこんなとんでもないことを書くのか、という思いを抱いて注目するのではないだろうか。

僕は今までも内田さんを高く評価していたし、この文章を読んでもその評価がことさら落ちるとは感じていない。そのような観点から、この話題になった文章を解釈すると、これがとんでもない駄文だという読み方をするのは、どこかで誤読しているのではないかという感じがしている。少なくとも、内田樹ともあろうものが、単純に「非現実的だ」と切り捨てられるような駄文を書くとは思わないのだ。

内田さんは、むしろ現実のことを書いているのではないから、「非現実的」であることが当然の前提としてこれを書いているのではないかという気もしている。内田さんが、現実の社会の「格差」の問題を書いていると思うから、これを現実に対して間違っているというような読み方をしてしまうのではないだろうか。「非現実的」というのは、内田さんの文章に対する批判にはなっていないのではないだろうか。むしろ、それを非現実的なものとして、「格差」の概念を語るものとして受け取る読み方こそが正しいのではないかと思う。それが、いま自分が当面している「格差」の具体的な問題には有効に働かないとしても、それは問題が違うのだという捉え方をしなければいけないのではないかと思う。

「ぬるい議論はやめよう 」というエントリーでは、「いまそんな優雅なことをいっていたら、「しょせん学者だ」とか「ブルジョアだ」「貧困の経験がない」「現場を知らない」などといわれても仕方がないのでは」という批判がされている。これは、内田さんが現実の「格差」について何らかの主張をしているのなら、その「格差」の捉え方が現実的ではないというような批判が成り立つだろう。しかし、内田さんが語る「格差」と、ここで批判される「格差」とは重なる概念なのだろうか。

内田さんは、世間で言われている「格差」を金のことと捉えて、どれだけ金を稼ぐかということでの「格差」と捉えている。そうすると、このような「格差」の捉え方では、内田さんにとっては何も問題にならないということが語られている。これは、このことで問題を抱え、金の格差に苦しんでいる人間にとっては、「ぬるい議論」に見えるだろうし、現実を知らないと言いたくもなるだろう。

しかし、「格差」というのが違う概念で捉えられていれば、内田さんの主張はまた別のものになるのである。金という捉え方をした時は、内田さんの立ち位置では「格差」はこう捉えられているということを語っているだけだ。同じことは、「格差」に実際に苦しんでいる人間の立ち位置についても言える。「格差」を批判したい人間の使う概念で「格差」を考えれば、それは批判に値するものだろうが、そういう位置に立たない人間にとっては、その批判はまったく無関係なものになる。

宮台真司氏も、マル激の中で「格差のどこが問題なんですか?」という発言を良くする。資本主義にとっては、むしろ格差がなければ、向上するという動機を生むことが出来なくなり、悪平等の世界が実現してしまうということを語っていた。公教育における平等主義教育の欠陥を語るときも、ある種の「格差」があることが教育にとっても有効であることを語っていたものだった。

「格差」一般は、それが善いとも悪いともいえないのだ。道徳的価値観は、それに対する立場や、「格差」が生じる状況によってどっちにも判断される。どのような「格差」であれば、問題があり改善されなければならないのか、またどのような「格差」は維持し、それを原動力として運動を発展させていくかということを考えなければならない。「格差」はすべて悪いものだというような見方は、その反動として悪平等を生み出す。

内田さんのこのエントリーは、多くのブックマークがつけられたわりには、内容的にはあまりたいしたことが語られていない。表面的に読むだけでは、優雅な暮らしをしている年寄りが若者に説教をしているように聞こえるだろう。人間の幸福感は金だけでは判断できないんだよというような説教をそこに感じるかもしれない。

しかし、「格差」を金だと捉えれば、平凡ではあるけれどこのような結論に行き着かざるを得ないだろう。問題は、「格差」は金なのかということだ。そうではなくて、「格差」にもいろいろあって、どのように「格差」を捉えるかで、「格差」論議は違ってくるのではないかということだ。内田さんは、巷の議論を「格差」は金だという受け取り方をしたが、それ以外の「格差」論議というのはどのようなものがあるだろうか。

これは、かつて三浦つとむさんが展開した「差別」論議に似ているような感じがする。三浦さんは、当時の通念だった「差別」はすべて悪いものだという観点を批判して、「差別」一般には道徳的な価値判断はなく、それに不当性という属性があるかどうかが道徳的な判断に結びつくという見方を示した。糾弾すべき「差別」は不当な差別であって、外見が同じでも、正当な「差別」も存在するという主張をした。

内田さんはそこまで明確には語っていないものの、内田さんを高く評価する人間としては、内田さんが「格差」批判のおかしな面、金を基準にして「格差」を考えるというような面を指摘することで、「格差」の捉え方そのものを問題にしているのではないかという深読みをしたくなる。

内田さんの議論を、現実の一面だけを指摘して、それを批判しただけだと捉えれば「ぬるい議論」にしか感じないだろう。しかし、それは単にサンプルとして取り出しただけだと受け取るなら、そのような議論はそのぬるさゆえに、もっと深めなければならないのではないかという主張へと結び付けたくなる。それは、宮台氏が語るように「格差」一般が悪いことなのか、という疑問へ通じるものになるのではないか。

内田さんは、「私はこういう全員が当然のような顔をして採用している前提については一度疑ってみることを思考上の習慣にしている」と書いている。これは、「格差がある」ということについて語られているのだが、同じように「格差は悪い」ということについても、今は誰もがそう思っているように見えるので、やはり疑ってみたほうがいいという主張のようにも聞こえる。内田さんは、宮台氏が嫌いなようだが、主張していることが似通ってくるというのは、それがある種の論理的な結論だからそうなるのではないかと思う。論理は、人間の好みというような不確定の要素は捨象してしまう。

「格差」問題の難しさは、立場によってその「格差」の問題が深刻に関わってこないことで、国民的な連帯感が築けないことにある。『論座』に発表された赤木論文に対して、左翼の立場から解答されたものに対しては、当の赤木氏から反発が寄せられたそうだ。「格差」に対して、それが悪いと主張する左翼のほうがむしろ反発されて、「格差」のどこが悪いと主張する右翼的な言説があまり反発を呼ばないのはなぜか、というような疑問がマル激では神保哲生氏から出されていた。

この感情的な反発も、「格差」問題で連帯が築けない原因の一つだろうと思う。「格差」の概念は、少しでも立場や条件が違えば、まったく違ったものになってしまうのではないか。そして、ある条件のもとでは、「格差」は正当なものであり、むしろ「格差」があることで有効な利益を生み出す元ともなるのだと思う。「格差」は決して悪くないと言えるものがあるのだと思う。この「格差」概念の難しさが、今までの「格差」論議では欠けているのではないだろうか。

「格差」に対してそれぞれの立場で主張するのは大切だ。自分と違う立場の感覚や思考を理解するのは難しいので、誰かがそれを発表してくれれば、それを知るきっかけになる。だが、それぞれの立場で単に主張するだけでは連帯は生まれない。そう考える人があっても、現実はこうだから「しょうがないね」ということで終わりだ。

連帯の前提としての一般論というものが「格差」の場合には必要なのではないだろうか。立場を越えた一般論が展開できるものかどうか。内田さんの主張は、そのような方向につなげて読むものではないかと、内田ファンの僕はそう読み取った。

内田さんが最後に語る「私の師であるエマニュエル・レヴィナス老師のさらに師であるモルデカイ・シュシャーニ師」のエピソードは、まったく個別的な事柄であるにもかかわらず、ここに一般的・普遍的な面を読み取ることも出来る。人間には個性があり、その意味でそれぞれに「格差」が存在する。しかし、その「格差」は、自分に出来ないことをその人ができるという尊敬感として働く「格差」になる。このような「格差」と、人間を苦しめる「格差」の間にある違いは何なのか。現に「格差」に苦しんでいる人間は、感覚としては苦しみをつかんでいても、それを理論としてはつかんでいないのではないか。「格差」を語る時は、理論のほうをこそもっと考えなければならないのではないか、というのは更なる深読みであるが、僕は内田さんのエントリーをそのように読んだ。