社会科学的な法則性と自然科学的な法則性


板倉聖宣さんは「武谷三段階論と脚気の歴史」の中で、武谷三段階論は「法則性」の認識の発展の段階を語ったものだと指摘している。重要なのは、その認識が「法則性」の認識であるということで、科学としての認識と言い換えてもいいだろうと思う。

ところで科学は、自然科学と社会科学という違いを持ったものが存在する。人によっては、科学として認められるのは自然科学だけで、社会科学は科学として認めないという人もいるようだが、一般理論における法則性を語ったものとして、その正しさが確認されているものであれば社会科学と呼んでもいいのではないかと思う。

対象が自然であるか社会であるかということは、その法則性の現れ方に違いが出てくるように思われる。自然科学の対象は、人間の意志とは独立に存在している物質的なものである。それは、人間がこのようであって欲しいと願っても、願いがそのまま実現されるのではなく、つまり主観的に都合よく操作できるのではなく、客観的な法則性というものを見つけることが出来る。

自然科学の法則性は、ほぼ100%の科学者が、そこに客観的な法則性が存在するのなら、最終的にはその法則性を認識するようになる。板倉さんは、このことを「真理は10年にして勝つ」と表現していた。どんなに発見が難しい法則性であっても、それが本当に正しいものであれば、10年くらいの時間をかければ、だいたい本当の意味での科学者であればそれを理解する(認識する)ということだ。

自然科学の場合は、対象が人間の意志では操作できないので、ある意味では自分の判断を信用することが出来て、他者への信頼を基礎にして判断するのではなく、その真理性の判断は言葉の本来の意味での客観性を持つことが確認できる。ところが、社会科学の場合は、ある法則性をそこに発見しても、人間の意志の自由を働かせることによって、その法則性に逆らうことが出来てしまう。

人間の意志によって法則性が揺れ動くということが社会の法則の場合は起こってくる。このようなものを「法則性」と呼んでもいいのだろうという疑問が湧いてくることだろう。自然科学的な法則性こそが法則性の本来の姿だと思ったら、このような不純な法則性はなかなか容認しがたいと思うだろう。意志の自由によるこの誤差を誤差として認識して、社会科学の場合の法則性を打ち立てることは可能だろうか。

板倉さんは、「生類憐れみの令」と「禁酒法と民主主義」という授業において、次のような社会科学的な法則を主張している。それは、「道徳のような、自由意志を基礎にして確立しなければならない規律を、処罰を含む暴力装置の機能によって強制するような法的なものにしてしまえば、本来の道徳としての意志による規律という面が破壊され、かえって道徳的には堕落する」というものだ。

法的な規制が必要なものというのは、それに違反すれば社会の混乱を招き、社会の秩序維持が困難になるような規範に関してでなければならない。少しばかり迷惑がかかろうと、それが社会の秩序を維持困難なほどに破壊するものでなければ、社会全体で規制するというよりも、個人であるいは小集団でその害に対処するというほうが正しいだろう。つまりそれが道徳ということになる。

道徳は、あくまでも主体的に従う規範でなければならないのであって、処罰されるからという、権力が規制するものであってはならない。権力は、道徳規範にまで介入してはいけないのである。そんなことをすれば、道徳規範そのものが堕落してしまうというのが、板倉さんが主張する社会の法則だ。

この法則性に個人で逆らうことは可能だ。法律のあるなしに関わらず、自らを厳しく律するような人なら道徳的規範を守ることが出来るであろう。それが法律化されようと、その人個人の道徳性は堕落しない。意志によってこの法則性に反することが出来る。しかし、個人の道徳性は守れても、社会の道徳性はどうだろうか。個人と社会は違うということの中に、この個人の意志の自由による法則性のゆれが、誤差として処理できる可能性があるように感じる。

板倉さんは、この社会の法則性の認識の現象論的段階として、さまざまの統計データを持ってきて説明している。個人としては道徳を守る人がいたかもしれないが、社会全体としてはどうかということが統計的なデータに表れると見たわけだ。禁酒法の場合は、それが実施された場合に、社会全体での酒の消費量がどうなったかということを見ると、その効果というものが知られるだろう。生類憐れみの令では、野良犬の数がどうなったかということを見れば、人々が犬を哀れんで大切にしているかが伺えるかもしれない。

これらは、本当に正確な数字というのを出すのは難しく、推定に頼るほかないが、法律が道徳性を確立したと言えるほどの効果があったという結論を出せるような数字ではないようだ。江戸では野良犬が増えすぎて、政府が野良犬を集めて養っていたそうだが、その数の多さにたいへんな負担があったそうだ。これは、下手に野良犬などに関われば法律に触れてしまうので、誰もが野良犬にかかわらないようにしたという、まさに目的と逆の効果が生まれた結果らしい。

個人というのは、意志の自由による行為の選択によって、さまざまな法則性を越えてそれに反することが出来てしまう。しかし、社会全体を統計というめがねで見てみれば、個人がどれほど努力しても、個人ではどうにもならない結果が出てしまうということがある。大塚久雄さんが『社会科学の方法』(岩波新書)の中で語っていたように、「疎外」という現象で、個人の意志では自由にならない法則性が社会に現れると考えることが出来る。これこそが社会科学の対象として、客観性を持った法則性として捉えられるものになるのだろう。

社会科学においては、個人は捨象されることによって意志の自由という法則性のゆれが誤差として処理される。個人を捨象した統計としての社会、確率現象としての事象が社会科学の対象となる。つまり、社会科学の対象は、具体的な現実を見ているように見えながら、実はそこから統計的・確率的な事柄を抽象して対象にしていると考えられる。そうでなければ、社会を対象にして科学を設定することは出来ないのではないかと思う。

確率法則における社会の法則性に関しては、板倉さんが紹介している「誕生日の法則性」というものがある。これは、40人ほどの集団で、同じ誕生日の人がいるかを調べるとほぼいつでも誰か同じ誕生日だという人が現れるという法則だ。すべての人が違う誕生日になるということはまったく例外的なことでほとんど起こらない。誕生日は365種類の日があるのに、わずか40人ほどが集まれば、その中に必ずといっていいほど、同じ誕生日だという人が現れる。

これは、確率を計算すると90数%の確率で同じ誕生日の人が少なくとも1組は現れるということが言える。これは、社会の法則性として理解することが出来る。例外はあるもののそれは誤差として処理できる。そしてまた、この社会の法則は、人間の意志の自由に左右されない法則性でもある。誕生日がいつかというのは、意志によって自由に選ぶことが出来ないからだ。確立法則として現れる社会の法則性は、意志とは独立に現れる自然科学的な法則性と同じになる。

宮台真司氏の社会科学が確率論を基礎にしているというのもこの意味で納得が出来るものだ。その社会学が科学と呼ばれるのは、確率論という客観的な基礎を持っているからではないかと思う。確率法則が、社会においてどのように現れてくるかを考えるのが、宮台氏が語るシステム理論の核心でもあるのではないかと思う。

社会科学においては、確率・統計的なデータが現象論的段階においては法則性の認識にとって重要なのではないかと思う。それが、自分の感じ方という主観で判断した法則性ではなく、確率と統計という客観性を持ったものであれば、現象論的段階として徹底させることができるのではないかと思われる。

ただ、統計データというのは、読み間違いを起こしたり意図的な捏造が出来るので、現象論的段階の徹底の際には細心の注意を払わないとならないだろう。捏造されたデータによる法則性を認識していたら、その後の実体論的段階の方向を間違えるだろうと思う。特に、社会科学の場合は、人間にとっての利害関係が深刻に関わってくる分野もあるので、そのような分野の考察の際には捏造されたデータの問題は重要だと思う。

自然科学・社会科学と並んで、人文科学などという言葉もときどき使われたりするが、これは言葉の意味から言って「科学」と規定することは難しいのではないかと思う。人文科学と呼ばれるものは、人間が深くかかわってくるものを対象としている。それが個人の判断と深くかかわっていて、意志の自由による法則性のゆれが捨象できなければ科学として確立することは出来ないだろう。

人文科学には「歴史」「言語」「哲学」などの分野が含まれているらしいが、一度きりの事実の羅列を「歴史」と捉えてしまえば、それは科学にはならないだろう。統計的、確率的な処理ができなければ科学の対象になりえないように思う。同じように、「言語」の分野でも、個人の具体的な言語現象を対象にしてしまえばそれは科学にはなりえない。どのようにして個人を超えた、一般的現象としての言語現象を設定できるかが科学になるかどうかの分かれ目になるのではないか。

この他、科学に成りえないのではないかと思えるものに、心理学などがある。これも、心理学が解明するのは、個人の具体的な心理現象なので法則性を捉えることが難しいように思われるからだ。教育も、個々の教育実践が対象になっている間は科学にするのは難しいだろう。どのようにして抽象化が出来るかが、教育科学の確立というものに重要な要素となっている。

心理学や教育の分野のこれらの実践家は、必ずしも科学が確立していなくても優れた実践は出来る。経験と勘によって正しい方向を見つけることは可能だ。しかし、科学として確立することが出来れば、最低水準というのはいつでも確立することができる。僕は、社会的な職業としては、最低水準が確保されたほうが望ましいのではないかと思っているので、公教育においては、やはり一定のレベルの教育科学は確立したいものだと感じる。

まだ科学への歩みが難しい分野においては、実はまだ現象論的段階さえ徹底されていない、その克服などまだまだだというものが多いのではないかと思う。それを無理やり本質論的段階に飛んで行こうなどというのは無理なことなのだろうと思う。現象論的段階の徹底と、その次にくるべき実体論的段階がどのような姿になるのかということを深く考えたいものだと思う。