社会が持つ秩序を法則性として認識する


宮台真司氏の「連載第一回:「社会」とは何か」という文章の中には、「不透明な全体性としての社会の秩序は、いかにして可能か」という問いかけがある。社会の中のさまざまな出来事が、確率的な偶然性だけに従って起こるなら、その秩序というものは単純なものになるだろう。しかし、実際の社会の出来事は、確率的にはあり得ないと宮台氏が語るような秩序を持っている。確率的にはありえないということは、そこには確率以外の要素による法則性があると考えなければならないだろう。

この法則性は社会科学的なもので、人間の意志に深くかかわっている。人間がそのようにしようという意志を持たなければ、この法則性は成り立たなくなるだろう。自然のままに放っておいても成り立つ法則性は、自然科学的なものであり確率的な要因に帰着される。人間の意志に関わって成立する法則性の認識は、どのような三段階を経て本質論的段階に達するのか。

単に「秩序」という言葉では、その内容が抽象的過ぎるので、法則性そのものの考察までは進まない。もう少し具体的な法則性としては、宮台氏は「政治主導的な思考では「集団成員の全体を拘束する決定を導く政治共同体の秩序は、いかにして可能か」」というふうに語っている。これは言い換えれば、「社会の中では、個人の意志の自由があるにもかかわらず集団的な決定を経たものは個人を拘束する」という法則性を持っているといえるのではないかと思う。

この法則性は現象論的にはよく目にするし、自分でもいろいろと経験するものではないかと思う。民主的な手続きを経て決定したことは、たとえそれに反対だとしても従わなければならないという意思が生まれる。これは、生まれついてからすでに民主主義社会の中で生きてきたために、そのような習慣として身についているとも言えるかもしれない。このように考えるのは、個人という実体の属性としての考察になるので実体論的段階といえるだろうか。

現象としては、民主的な決定は個人を拘束するという法則性を見ることが出来る。このとき、例外的に決定に従わない・それに反する行為をする個人がいるときもあるだろう。だが、これは「例外的」であり、ほとんど大部分は決定に従うという現象を確認できるので、この例外的な個人は捨象することができて誤差として処理できる。従って、集団的意思決定の現象論的な法則性は、「民主的な手続きを経て成立した事柄は、その民主的な手続きに参加した成員の全員を拘束する」という法則性として理解(認識)される。

板倉聖宣さんが仮説実験授業を展開した「禁酒法」というものは、それが民主的な手続きを経て成立したものであるにもかかわらず、多くの人がそれに反する行動を取っている。これは例外的な誤差として処理できる範囲を越えているように思われる。「禁酒法」という決定そのものが、「集団的決定に従う」という法則性に反する結果を出しているようにも見える。

これはどのように理解すれば論理的な整合性が取れるだろうか。「禁酒法」そのものを例外的なものとして誤差として処理すればいいのだろうか。これは現象論的段階では理解できない対象ではないかと思われる。人間の意志という実体を設定して、意志の働きを深く考えなければこの問題は解決しないのではないだろうか。

三浦つとむさんは、このような矛盾した存在が思考を発展させる契機になるとよく語っていた。弁証法的な契機が、物事を深く知ることのきっかけになるということだ。「禁酒法」という存在は、一見法則性に反する矛盾した存在のように見えるが、これが本当に形式論理的な意味での矛盾であれば、それは現実には存在することが出来ないだろう。「禁酒法」のような矛盾したように見える存在が現実に存在しているというのは、それは実は形式論理的な矛盾ではなく、視点をずらしたことによって生じた弁証法的な矛盾であるという理解をしなければならないのではないかと思う。そのことによって、この矛盾と見える現象は整合的に理解(認識)されるのではないかと思う。

実体論的に考えた場合、人間の意志には「選択の自由」というものが存在すると考えなければならないのではないかと思う。自然科学的な法則性では、「選択の自由」が存在しない法則性が見られる。どんなに空中に浮かんでいたいと思っても、質量を持った物体は地球の引力によって地上に引き寄せられる。空気の浮力が、地球の引力を上回らなければならないという法則性に従わなければ、空中に浮かんでいることは出来ない。

これに反して、社会の法則性のように人間の意志が関わってくるものは、法則性が立てられていても、その法則性にあえて反するような選択を行う自由を、人間は意志することが出来る。この意志の自由を制限するものは、規範と呼ばれる、これもまた意志の中に存在するある実体的なものだ。これは、頭の中にある存在なので、物質的存在ではないが、自分とは独立に存在していると捉えるので、主観的なものではなく客観的なものになっている。その意味で「実体的」と呼べるものになるだろう。自分の外に存在しているように感じるものだ。フィクショナルに実体として存在していると考えられる。

この規範はフィクショナルに設定しているので、その設定の中身というものにある種の恣意性がある。時には矛盾するような規範が存在したとき、それをどちらを選択するかというのは、完全に客観的には決められない。個々の人間の状況によって、規範の重さが変わってくるだろう。ここに例外的選択をする個人という、法則性から外れる誤差が生じる可能性がある。

禁酒法の場合の、禁酒をするという規範は、社会の中で表明する規範と、個人がたとえ一人でも守りつづける規範として自らに課するものとの違いを見せるのではないかと思う。社会の中で表明する規範に関しては、その社会で通用している道徳というものが考慮されて、それからの制限で禁酒をしなければならないというものが出てくるだろう。そうすれば、民主的な決定の下では、禁酒に反対するという行動は取りにくい。公の決定に関しては、誰も禁酒法に反対しないという行動がこれで整合的に理解できそうだ。

ところが、個人の行動が誰にもわからない場面での規範としては、道徳的な規範はどうしても弱くなる。公の場ではないところでは、禁酒をしなければならないという規範は、酒を飲みたいという欲望にしばしば負けるのではないだろうか。そうすると、法律的には取ってはいけない行為である飲酒というものも、誰にも見られていない・外に知られることがないということがあれば、あえてその行為を選択するという自由が人間にはあると考えられる。

道徳がもっとも強固になるのは、誰も見ていないという場面でも、神という絶対的存在がそれを見ていると意識できるかどうかだといわれるときもある。この神は、形を変えた自らの意志に他ならない。結局は道徳が守られるかどうかは、自分がその行為を意志するという選択が出来るかどうかにかかっている。道徳にとって主体的な意志は決定的に重要になる。それを法律という外部の圧力によって規範化するようになれば、公にならない場面ではそれが破られるという道徳の堕落にもつながるだろう。板倉さんが発見した社会の法則は、このような人間の意志の働きという実体論的段階での理解(認識)が出来るのではないかと思う。

禁酒法という民主的決定が守られなかったことの整合的理解は、本来は道徳的に主体的に守らなければならない規範を、法律として強制的に守らせようとしたところにあると理解できそうな気がする。これは、道徳と法律という実体論的段階の理解で、現象論的には矛盾するような事柄が理解できるのではないかと思う。このような理解があれば、「民主的に決定されたことが、民主主義社会では個々の成員を拘束する規範として働く」という法則性を認識することが出来るのではないかと思う。これは、この法則に反する事柄を例外的なものとして理解することが出来るので、社会の法則として成り立つのではないかと思う。

なお社会の法則性の実体論的段階を考える上で重要だと思われる事柄に、その実体の定義というものがあるように感じる。それは実体論的に扱うためには、抽象化した実体として設定する必要があるのではないかと思う。これが抽象化されずに、いつまでも現実存在としての対象の属性を引きずっていると、それは現象論的段階にとどまるのではないだろうか。現象論的段階を抜けるには、実体という対象の抽象化というものが必要なのではないかと感じる。

宮台真司氏は、この文章の中で「政治が集団全体を拘束する決定を導く機能だとすると、経済は集団全体に資源配分する機能のことです」と語っている。これは、「政治」と「経済」を定義していることになっているのだが、ここで語っている「政治」と「経済」は実体論的な意味での抽象化された定義のように思われる。つまり、現実に「政治」や「経済」の現象として現れている、現実存在をそのまま語っているものではない。理論が一つ上の段階に発展するには、このように言葉の定義というものが重要になってくるのではないかと思う。

現実の政治がまったく機能していない状況を見て、集団全体を拘束するとは限らない、とこの定義に文句を言いたくなる人もいるかもしれないが、これは実際の政治の現象論を語ったものではなく、抽象化したものと受け取らなければならない。むしろ、現実に機能していないような政治があったら、それは例外的なものとして処理するという暗黙の前提があるというふうに受け取るのが正しいだろう。そうでなければ、実体論的段階の論理が進められないのではないかと思う。

なおこの定義で面白いと感じるのは、「政治」の定義は、意志決定に関するものとして社会科学的な要素が強いのに対して、「経済」の定義は意志の介入が少ない資源配分として定義されているように感じるところだ。資源配分は、もちろん誰かがその決定権を持っていれば、決定権のある人間の意志が反映するだろうが、個人が決定権を持っていなければ状況のメカニズムで記述することが可能になる。これこそが現代経済学の姿ではないかという気もしてくる。現代経済学は、人間の意志を経済現象から追い出すことによって、極めて自然科学に近いものにすることが出来たのではないだろうか。それは、現実の経済現象を扱っているという意識がなければ、ほとんど数学の一分野だと呼んでもいいようなものになっているという。

自然科学的な法則性は観察によって得られる。しかし、社会科学的な法則性は観察だけでは例外的なことが目に入ってきて、現象論の段階でさえも法則性だと認識することが難しいかもしれない。そこに秩序を発見するということが、ある意味で法則性の認識になるのではないかと思う。この秩序は、その社会の中で普通に育った人間にはわかりにくいかもしれない。あまりにも自明性が強すぎて、それが法則であるというよりは、形而上学的に「そうなっているからそうなのだ」という感覚を持ちやすいかもしれない。

その意味では、自明性が壊れたときが法則性に気づくきっかけを与えるかもしれない。現在の社会状況は、まさに自明性がさまざまなところで壊れているようにも感じる。そこから社会の法則性(秩序)というものを、三段階を経て本質論的段階として理解したいものだと思う。