一般理論の法則性を本質論的段階として理解するには


宮台真司氏の社会学入門講座の「連載第二回:「一般理論」とは何か」では、「一般理論」というものが語られている。これが「理論」と呼ばれているのは、何らかの法則性を語っているからだと思われる。しかも「一般」であるということからは、これが本質論的段階にあたるものだというのを予想させる。

一般理論においては、「特定の文脈に拘束されないことです」ということが特徴として語られる。高度に抽象化されているので汎用性があるということだ。対象が、現存するもののある範囲の「すべて」を含むものになる。この「すべて」に言及するというのは、本質論の特徴の一つでもあるだろう。

宮台氏は「一般的購買力」という抽象的概念で、経済学における一般論について語っている。これは、「貨幣があれば、物物交換の如き、交換当事者が互いに相手の持ち物を欲しがり、相手が欲しがる自分の持ち物を欲しないという「欲求の相互性」という文脈が不要になり、代わりに、誰もが貨幣を欲しがるとの前提で振舞えば済むようになります」というふうに説明され、ここに「文脈に拘束されない」という特徴を見ている。

もし「貨幣」という概念がなければ、経済行為における「交換」というものを考えた場合、誰が何を欲しがるかという具体的・特別な文脈を考える必要が出てくる。これは現象論的段階に当たるような考察になるだろうか。ところが、貨幣というものを導入すると、誰が何を欲しがるかという特定の文脈を考慮する必要がなくなり、これが捨象されて一段高い抽象の世界に入る。誰もが貨幣を欲しがるという前提を立てることが出来るわけだ。

この貨幣は、現象論的段階を越えるために導入された実体と考えることも出来るだろう。そうすると、「誰もが貨幣を欲しがる」というのは一つの法則性として認識できるものになるだろうか。この法則性の認識は、ある種の微妙な難しさを持っているような気がする。貨幣経済の中で生まれて育っている我々にとっては、「誰もが貨幣を欲しがる」というのは、現象論の段階でも自明だと思えるような法則になっている。しかし、貨幣経済が生まれる以前を想像すると、まだ生まれていない貨幣を「誰もが欲しがる」という前提で考えるのは無理があるようにも思われる。

貨幣経済誕生後に限定した法則性としてこの法則性を捉えれば問題はないのかもしれないが、そう考えると「一般性」というものに引っかかりが出てくる。物々交換の段階の特定の文脈が、貨幣の誕生によって必要なくなったと考えるなら、貨幣誕生以前の段階も考えの中に入れての「一般性」ではないかという気もする。貨幣がまだなかった状況を考えの中に入れなければ、貨幣しかないという条件での交換の一般性になる。そうすると、「誰もが貨幣を欲しがる」というのは、法則性というよりも、貨幣しかないのだからそれ以外に選択肢がないというトートロジー(同語反復)的なものになってしまうのではないだろうか。

法則性というのは、現象論的段階という現実の観察を経て、その因果律を説明できるような実体を導入することで実体論的段階を迎える。しかし、最初からそれ以外に法則性がないような実体の定義をしてしまえば、現象論的段階なしに法則性が、論理だけで設定されてしまう。それは、科学というような現実を対象にした法則性ではなく、頭の中で論理的整合性が取れるように設定した論理法則になってしまう。貨幣という「一般的購買力」がそのような概念になっていないかという引っ掛かりをここで感じた。

そもそも交換行為の起源というのは、誰もその現象を見ることの出来ないもので想像するしかない。現象論のない対象になる。その意味では法則性を立てることができないものではないかとも考えられる。そのような意味では、交換行為の現象論は、貨幣経済の段階にある現在の状況を見て考えるしかないかもしれない。だが、宮台氏の文章では、「一般的購買力」という考え方で、貨幣経済以前の状況も含んだ一般論としてこの概念が導入されているようにも感じる。これはどのように整合的に理解したらいいだろうか。現象論的段階の知識が不十分なまま実体論へ行って、形而上学的になる恐れはないだろうか。

交換の起源で面白いと思った想像は、内田樹さんがどこかで書いていたが、人間は過剰に生産してしまう性質を持っていたと考えるものだ。自分たちで必要な量以上のものを生産する性質があったために、余ったものを放置するという行為がまず行われたと想像するものだ。これは誰かとの交換を意図したものではなく、それが欲しいと思ったものがいれば取っていけばいいというような感じだろうか。

面白いのは、それをとっていった人間が、ただ消費するだけでなく代わりのものを置いて行くという習慣があったのではないかと想像するところだ。人間の意識の中には、何かを与えることと何かを得ることとが一対の行為として切り離せないものとしてあったのではないかという想像だ。だから、最初の交換は、交換として意図したものではなかったが、結果的に交換になってしまったというものではなかったかと想像するわけだ。

契機というのはいつでも偶然性を持っているものかもしれない。それは現象論がわからないのだから、はっきりしたことは何もいえない。ただ、今の確立した交換行為と同じものではなかっただろうということは言えるのではないかと思う。契機は偶然に訪れた。そこには法則性はない。しかし、一度契機をつかんだものが習慣化してくると、それはだんだんと一つの文脈に収斂されて法則性を帯びてくるのではないだろうか。

交換というものが習慣化してくれば、それはやがて相互に欲しがるものが交換されるということが多くなるのではないかと想像できる。自分たちが生産したもので余ったものを勝手に置いたとしても、相手が欲しがるもののほうがなくなるということが多くなると想像できる。これは現象を観察しての結論ではなく、交換という行為において、相互に欲しがるものという実体を導入して論理的に考えた帰結になる。

起源が分からないものに対して論理を展開しようとすれば、その起源をフィクショナルに設定して、その下で論理を展開するという方向しかないのではないかと思われる。これは極めて数学的なやり方のように感じる。数学では、現象論がないというよりも、現象論を空想的に設定して制限できるので、そこから展開できる論理が単純化されて純粋なものになるという特徴があると思われる。

ユークリッド幾何学が、現実の我々が住んでいる世界を記述していると考えれば、現象論的には我々の周りの空間を観察してそれを出発点に出来る。真っ直ぐの線として定義される直線も、現実にはそのようなものはあり得ないが、現実を誤差として抽象することで現象論から実体論へと移る。完全に真っ直ぐな線として実体的な直線を導入するわけだ。

この実体の導入によって展開された幾何学が、現実の我々の周りの空間を記述する本質論だというには、それが未知なる空間に対してもいつでも正しいことがいえるということが証明されなければならない。それが仮説実験の論理を通して得られる科学的真理というものになる。しかし数学はその道を取らずに、フィクショナルに設定した公理だけを基礎にして論理的整合性が取れる体系というものを打ち立てた。現実との整合性という仮説実験の道を取らなかった。だがそのことによって、数学の論理的整合性はより完全なものになったといえるだろう。

現象論が見つからないものに対して実体を設定して論理展開をしようとすれば、現象論から導かれる法則性を説明する実体が導入できなくなる。そのとき、数学のように、現象論的段階をフィクショナルに設定して、実体を公理的に導入するというやり方があるのではないかと思う。それが「一般的購買力」という概念としての貨幣になるのではないだろうか。

貨幣という実体を導入することで、フィクショナルに設定された経済空間での論理的整合性は、現実の具体的な文脈が作り出す誤差を排除して単純化されるのではないだろうか。つまり、論理的整合性はより完全なものを求められるという数学的な効果がもたらされるのではないかと思う。

問題は、この法則性が論理的なものであることを忘れないことではないかと思う。それは、論理的なものであるから、現実の具体性は捨象されていて、現実に応用しようとする時はいつでも誤差を生じるということを忘れてはならないのではないかと思う。数学なども、例えば直線は真っ直ぐの線だといっても現実にはいくらでもゆがみが生じて真っ直ぐでなくなる。しかし、それが実用という面で無視できる範囲であれば誤差として処理できる。

100mについて1cmの狂いであれば問題はない誤差として処理できるかもしれない。しかし、この誤差が10km先では1mの狂いになれば、これは影響を与える誤差として無視できないかもしれない。ユークリッド幾何では狂いはないはずだから、そのように設計しようと言っても、現実にはそれが危険である状況も生まれるだろう。論理的な法則性を現実に応用する時は、それが現実のある側面を捨象していることを忘れてはならないと思う。

一般的購買力としての貨幣も、それが抽象化されたものとして、具体的な側面を捨象してもいい誤差として処理できるなら、この一般論は現実にも通用するのではないかと思われる。その意味では、具体的側面を無視できない個人の行為に対してこの論理法則を適用するのは間違いを起こすだろう。「一般論」と呼ばれるものは、対象が個人ではなく、不特定多数の人間という一般的対象を設定したときに、論理法則として捨象された面が誤差として無視できるのではないかと思われる。

一般理論には、数学的な公理を立てて展開するような論理が含まれているのではないかと思われる。これは、ある意味では現象論的段階を無視して、それを捨象してしまうようなことになる。この、無視した現象論が、一般論として打ち立てられた本質論が完成した後には、具体的にどこがどのように無視されているのかが解明できていなければならない。そして、無視した部分が、その本質論では確かに誤差として処理できるということが明らかになって初めて、本質論は本当の意味での正しい本質論として認識されるのではないだろうか。

本質論は、現象論から実体論を経て展開されなければ到達しない。しかし、現象論と強く結びついている実体論と違って、本質論は現象論をいったんは完全に離れてしまうのではないだろうか。そこでは数学的な論理が使われるのではないかと思う。現象論から完全に離れたところで完成するのが数学であって、それ以外の実証科学と呼ばれるものは、もう一度現象論に戻って、それを誤差として処理できるということが確定したときに、科学としての本質論が完成するのではないだろうか。現象論に関しては、弁証法的な否定の否定を経た復帰があるように感じる。

マルクスは、貨幣についての一般論として『資本論』を書いたように思う。この一般論も、現象論からどのように実体論が生まれ、それが数学的な公理的な展開になり、そして最後にまた現象論に復帰するという視点で見てみるとまた理解が違ってくるのではないかと思う。今度こそ最後まで読みとおせるように改めて挑戦してみたいと思うものだ。