メンデルの遺伝の法則の本質論的段階の理解(認識)


メンデルの法則は、学校教育でも学習されるくらいなのでよく知られている法則性ではないかと思う。これは、「メンデルの遺伝法則」で紹介されているものを見ると、次のような特徴で語られていると考えられる。

生物のある外形的特徴が、親から子どもへと受け継がれるとき、受け継がれる特質に優劣があると考える。例えばここではモンキチョウの色について考えている。モンキチョウには黄色いものと白いものが観察されるそうだが、このとき黄色という特質のほうが優性の遺伝になる。

優性というのは、そちらの方が優れているという意味ではなく、表に現れる形質としては、両方の可能性を持っていたときにそちらの方がもう一方よりも出やすくなるということだ。つまり、黄色という特質と白という特質の両方の可能性を持っているモンキチョウがいた場合、黄色という特質のほうが必ず現れて、白という特質のほうが隠れているというのが、黄色のほうが優性であると考えることになる。

メンデルは、この外形的な特質という現象論を、遺伝子という実体によって説明する方向を取って、この法則性を実体論的段階に高めたのではないかと感じる。それは、優性である黄色のほうの特質を伝える遺伝子を大文字のアルファベットAで表し、劣勢のほうの白という特質を小文字のアルファベットaで表すと、その数量的法則性が順列組み合わせの確率的法則性として解釈できる。遺伝子の組み合わせは4種類あるのだが、その組み合わせのときに現れる色という外形的特質は、3対1の割合で計算できる。父親から受け継ぐ遺伝子を先に、母親から受け継ぐ遺伝子を後にして書くと、それぞれの組み合わせは次の4種類になり、そのときの色は次のように解釈できる。

  • Aa……Aという優性遺伝子があるので色は黄色
  • AA……Aという優性遺伝子があるので色は黄色
  • aA……Aという優性遺伝子があるので色は黄色
  • aa……Aという優性遺伝子がないので黄色は現れず色は白になる

この3対1という数字の表れ方は、メンデルが観察した現象によく合うものになる。この法則性は、細かいことを言えばもう少しいろいろな条件を考慮しなければならないのだが、そうしているとポイントがずれてしまうので、この法則性と三段階論での段階における理解との関係に絞ってちょっと考えてみたいと思う。

上で考えたような順列組み合わせの結果というのは、現実とは無関係な数学的考察の結果であり、その法則性は現実の対象から抽象されたものではなく、論理から導かれた形式論理としての法則になっている。Aやaを遺伝子と考えなくても、とにかく2種類のものの組を考えると4種類になり、大文字のAを含んだ組が3種類あり、それを含まない組は1つしかないというのが計算の結果になる。

この法則性は、数学として考える限りでは少しも難しくない。すべての組み合わせを具体的に数え上げれば分かる。それは数が少ないので数えるのも易しい。そうすると、この法則性に関しては、数学という形式論理としてはすぐに理解できてしまうので、それが現実の対象に成立する法則性であるという認識を伴わずに、数学として成り立つのだという理解にとどまる可能性があるのではないだろうか。

これを数学的な組み合わせの数の計算だと受け取った場合、それが生物の遺伝に関する法則の理解(認識)の本質論的段階だと、果たして言えるかどうかに疑問がある。それは確かに本質論的段階を記述した文章になっている。しかしそれの理解は、現象論も実体論も経ない、論理法則として受け取っているだけにならないだろうか。

メンデルの法則自体の記述の意味を理解するのはそれほど難しくない。しかし、これが自然を対象にした客観的認識だという意味で理解するのは、案外難しいのではないだろうか。ここに教育あるいは学習という現象の難しさを感じる。言葉として受け取っている限りでは、それが本質論的段階として理解しているかどうかはわからない。メンデルの法則を言葉として語ることが出来れば、つまりそれを文章として記憶していれば、何となくそれが分かったような気分になるが、それは本当に「分かった」と言っていいものになるだろうか。テストで正解を書くことが出来れば、その言葉が記憶されていればそのことを理解したことになるかどうかという、教育と学習における大問題がここにあると思う。

これは、本質論的段階の法則性を後から学ぶ学習者にとって大きな問題として現れるのではないだろうか。先駆者的な研究者であれば、十分な現象論を基礎にして実体を導入しなければ、その論理の展開の方向さえ見えてこないということがあるので、現象論をおろそかにして進むことは少ない。しかし、すでに本質論的な法則性が確立されているものを後から学ぶ時は、現象論を抜いて本質論の言葉だけを、国語的に意味を理解するような学習をしていても現実には大きな問題は生じない。まったくタイプの違う新しい問題にぶつかったときに応用ができないということがあるだけで、そのような問題にぶつからなければ問題を生じさせずに、浅い理解の下でも気づかずにすんでしまう。

後から学ぶ人間が、先駆者的な研究者と同じように本質論的段階の理解が出来るように学習するには、同じ経路を通って学習する必要がある。それを実現したのが仮説実験授業であると僕は思うのだが、すべての学習にわたって仮説実験授業があるのではなく、またこれは独学ではやりにくいものでもあるので、独学においても本質論的段階の理解に達するための何らかの方法を見出したいものだと思う。

メンデルの法則を、メンデル自身が発見した経緯においては、膨大な量の観察という現象論的段階があったことは確かだろうと思う。これは、後から学ぶものたち、特に専門家ではない一般的な教育を受ける素人にとっては、膨大な量の現象論的段階の観察は出来ないだろうと思う。だから、ほとんどの素人は、権威ある人が語る事実を観察抜きにそのまま鵜呑みにして、限定された現象論的事実からのみ実体論・本質論へと進んでしまうだろう。

こうなると武谷三男さんが指摘するように、形而上学的になる恐れが出てくる。理論にとって都合のいい事実だけを拾ってきて、結果としての法則性(それは最初から分かっているもので形而上学的に設定されているようなものだ)を証明するものになる。これは、実際には仮説実験の論理になっていないので、その科学的真理としての資格は証明されていないのだが、気分的には証明されたように感じてしまう。

だが、自分にとって都合のいい事実だけでなく、あらゆる事実をかき集めたといえるほどの現象論を見るには、専門家にでもならないと出来ない相談になる。そうすると素人にはこのような認識は出来ないのだと言いたくもなってくる。本質論的段階の認識は、専門家だけのもので、素人には出来ないのだろうか。

これは、仮説実験授業というものがその可能性を語るものになるのではないかと思う。仮説実験授業では、法則性の認識を深めるためにさまざまの実験をしてその現象論的段階を見るのだが、この実験には理解を深めるための順番という、ここにもある種の法則性がある。ある実験が最初に来て、ある実験は最後にくるというような順番が、授業実践という実験を経て決められている。

現象論的段階の、今まで発見されているすべてを経験することは素人にはとても出来ない。だから仮説実験授業では、すべてを象徴するような、特定の実験ではあるけれども、それが抽象化されて一般化されるような代表的な実験を繰り返すことをしている。そして、何回目かの繰り返しで、その法則性が現象論的につかめるようにしてあるのだ。そして、その現象論的につかんだ法則性を仮説として次の実験に行くことによって、その仮説が科学的な法則性として高まるように工夫してある。その途中で、仮説の正しさを論理的に解釈できるような実体の導入もされるようにしてある。

法則性の認識を後から学ぶ人間にとっては、その現象論の全体像を把握するのに効率のよい現象(事実)をピックアップしてもらうということが有効なのではないかと思う。ここに専門家の、教育への協力というものの有効性を見ることが出来るのではないかと思う。専門家でなければ、何が現象論の全体像を把握するのに象徴的なものになるかの判断が難しいだろう。素人は、言葉で表現されている法則にとって都合のいい事実だけを最初から拾ってくる可能性がある。これは、現象論的段階の徹底にはならない。いつまでもそこにとどまるか、あるいは現象論的段階においてさえ間違えるということになりかねない。

本の学校教育は、言葉による表現を記憶させるということに偏りすぎたために、素人が本質論的段階を言葉の意味だけで理解するという間違った方向に行っているような気がする。これは、「専門家を大事にしない」という最新のマル激での指摘にも通じているのではないかと思う。

「専門家を大事にする」のであれば、専門家の語ることを、それは深い理解の下での発言であり、単に現象をそのまま語っているのではなく、本質論的理解の下で現象を解釈してある種の判断を語っていると受け取るだろう。ところが、本質論的段階の理解を言葉の意味だけで受け取っていれば、それが現れてくる現象を、自分が見たままをうまく解釈していると思える、感性で判断したものを正しいと受け取る可能性がある。専門家が、表には見えない裏の意味を語っていても、単純に表を解釈しただけの素人の言葉のほうを信じてしまうということが起こるだろう。

マル激でよく語られていたものなどは、衝撃的な子どもの凶悪犯罪が起こったときに、「子どもの犯罪が凶悪化した」と現象を語るような言葉が専門家からはしばしば否定されるというような指摘があった。また、性的な暴力などが、ビデオなどの影響で引き起こされるという言い方も、素人には現象をうまく語っているように見えるが、専門家の見方ではそう単純なものではないという指摘もされていた。

宮台氏的な表現では「俗情に媚びる」というような言い方になるのだが、多くの人がそう思いたい方向の説明が正しいと受け止められる。これは、日本の教育において、法則的認識が現象論的段階にさえ至らず、感性的にそう思えるということが言葉として記述されていれば、その言葉だけで理解した気分になってしまうことに問題があるのではないかと思う。

メンデルの法則に関して、その現象論的段階の理解に重きを置いた説明を探したのだが、それは見つからなかった。いずれも本質論的段階の記述が先行しているように感じる。これはすでに確立された法則なので、現象論を語ることが難しいのだろうと思うが、それなしに本質論の本当の理解は難しいのではないかと思う。メンデルの法則の現象論的段階をどう乗り越えるのかというのを考えてみたいものだと思う。