法則的認識とアルゴリズム


数学的な法則の一つにアルゴリズムと呼ばれるものがある。これは計算手順が定まっていると考えられるもので、その手順で計算を進めればある種の数学の問題の解答が自動的に得られるというものになっている。その手順が固定して定まっているという点で、これはその手順が法則として理解されていると考えることが出来る。

代表的なものは筆算のアルゴリズムで、これは初等教育で誰もが習うものだ。筆算の仕組みというのは、どれほど数の桁が大きくなろうと、一桁の数の加減乗除を繰り返すことで、どんなに大きな桁の数の計算も出来るというところにある。繰り上がりや繰り下がりを一つの法則として捉えることが出来るだろう。

また少数や分数の計算では、小数点の位置を決定するアルゴリズムがあり、分数の場合は通分や約分のアルゴリズムがある。これらのアルゴリズムがもう少し発達すると、方程式の解法のアルゴリズムへとつながったりする。そして、関数の分野へ行けば、1次関数のグラフを書くためのアルゴリズムがあったり、2点間を通る直線や曲線の式を求めるアルゴリズムがある。これは、その式を方程式だと思って考えれば方程式のアルゴリズムと同じになる。

さらに難しい数学になると、複雑な公式がアルゴリズムとして登場してくる。三角関数のさまざまの公式や、微分積分の公式なども一つのアルゴリズムと解釈することが出来るだろう。数学の計算の答を出すというのは、アルゴリズムで定められた手順を間違いなく行えるかどうかということに帰着する。

数学は、公式さえ暗記しておけばテストで点が取れるということが言われている。これは本当のことで、どんな問題が出るか分かっていて、しかもその問題にはどの公式を使えば答が出せるかということが分かっていれば、公式の記憶で数学はいくらでもテストで点が取れる。しかし、この「法則性の認識」は、現象論抜きの本質論を言葉だけ記憶しているのと同じで、本質的な理解にはなっていない。

公式の記憶だけの学習で数学の点数を取ってきた人間は、一度解いたことのある問題は解答が出来るが、まったく初めてぶつかるような問題に対しては、どう公式を適用していいかという方針を見つけることが出来ない。本質論的な理解が出来ていないので、問題の構造を分析して、その構造にふさわしいアルゴリズムを自分が発見するということが出来ないのだ。この問題にはこの公式を適用するという記憶に従って解答してきた人間は、一度経験した問題の解決しか出来ない。そしてそれは、答がどんなものかがあらかじめ分かっている問題になっている。

日本の数学教育では、だいたい表面的には問題が解けるように見えるけれども、大部分がアルゴリズムの記憶だけで、与えられた問題にふさわしいアルゴリズムの適用も記憶できたかどうかが評価の中心になる。自分でそれがふさわしいという判断をほとんどさせない。どのアルゴリズムがふさわしいかは、問題の提供者があらかじめ分かっているので、それを発見する必要がないのだ。問題はそれをちゃんと覚えているかどうかということになる。

これは、数学本来の特質から言えば、まったく数学的ではない教育がされていることになるのだが、自ら考えて試行錯誤的にアルゴリズムの発見をしていくようになると、とてもじゃないが複雑なアルゴリズムを正しく適用するということは教えられなくなる。僕は、数学教育において複雑なアルゴリズムはほとんど教える必要はないと思うので、2次方程式や微分積分などは、一般的な大衆教育からは排除してしまえばいいとおもうのだが、単純なアルゴリズムの構造を正しく教える教授法がないために、本当の意味で、本質論的段階の単純なアルゴリズムの教育が出来ていないのではないかと感じる。

加減乗除の筆算などは小学校で習うので、この単純なアルゴリズムは記憶するだけで、それ以上の適切な教育があるというイメージが浮かんでこないのではないかと思う。故遠山啓先生は、このアルゴリズムを「水道方式」という体系にまとめて、アルゴリズムを、単なる手順の記憶ではなく、数の構造の理解を背景に理解するという教育方法を考案した。これが日本の初等数学教育の主流にならなかったことが、数学教育において、アルゴリズムが単に手順の記憶の教育になっている原因ではないかとも感じる。

この筆算のアルゴリズムが、単に手順の記憶になっているので、いわゆる文章題と呼ばれる応用問題がひどく難しいものになっている。計算は出来るのだが応用問題が解けないという子どもが圧倒的多数を占める。これは数学教育の失敗を意味するのだが、日本の数学教育では、このことを失敗だと感じている人が少ないのではないだろうか。

応用が出来ない数学などは、本来の意味での数学の理解ではない。計算は出来るが応用が出来ない子供たちというのは、現象的には、単純なアルゴリズムの記憶は、覚える手順が少ないので何とか記憶できるが、応用問題に関してはそのバリエーションが膨大になるので、記憶する量が許容量を越えるのだろうと思う。

そもそも応用問題というのは記憶して対処しようとするものではない。その問題の構造を分析して、その問題の現実的な数量関係を把握できたとき、それを数式として表現して、その後はアルゴリズムで処理するということが正しい解答だ。応用問題の構造の分析をおろそかにして、国語的な文章の意味から記憶を手繰り寄せて、その文章にはこのような公式の適用ができたという記憶で応用問題を解いているのが現状ではないかと思う。これは、言葉の正しい意味では、まったく応用ではない。

正しい数学教育が行われているなら、応用は出来るけれど、計算は面倒なのでうっかり間違えるという子どもたちがいておかしくないのだが、それはたぶん圧倒的少数派だ。板倉聖宣さんはそういう子どもだったらしい。

加減乗除の計算において、加法は現実の合成という構造と結びつけ、減法は削除や分離などという操作に関連し、乗法は1当たり量との関連から、その計算が妥当する場面を判断し、除法は逆に1あたり量で整理するというような操作をする場合に適用できると判断する。これは、問題で提出されている現実の構造に、量的関係を分析するという判断をすることによって、どの計算がふさわしいかということをまさに応用するということがあるわけだ。

ここで頭が使われているのは、現実の対象を把握するということに絞られている。そして、数学の応用では、数量的な対象の属性を把握した後には、その後はあまり頭を使わなくても、手順さえ守れば答が出てくるようなアルゴリズムに任せるということになる。アルゴリズムの確立というのは、頭を使う対象を絞り込み、効率よく頭を使うということのために行われる。

これはある種のパズルを解くときの頭の使い方にもよく似ている。単純なパズルにおいては、アルゴリズムに関係なく、その問題の解法を最初から最後まで頭を働かせて解くということが出来る。しかし、論理的に複雑になってくると、そのパズルはそのまま全体を受け取っていたのではまったく解答が見えてこない。このときは、アルゴリズムを発見して、ある程度まで頭を使わなくても解答できる部分を処理しておいて、ポイントになる部分だけに思考を集中させるということが必要になってくる。複雑なパズルは、そのようにして解かなければおそらく解決しないだろう。

かつて、保険会社などで論理学の専門家が働いているということを聞いたことがある。それは、論理というものが、あまりにも複雑になりすぎると、それが矛盾していないかどうかというのを日常言語の範囲で判断するのが難しくなるからだと言われていたようだ。形式論理は、日常言語で書かれた命題を数式化できれば、後はアルゴリズムによって矛盾が推論できるかどうかの判断ができる。

保険におけるさまざまな補償の間に、論理的な矛盾があったりすれば、訴訟などがあったりしたときに過失として判断されてしまうだろう。それがないように企業としては細心の注意を払いたくなるだろうと思う。そのために形式論理が応用されるのは十分考えられることのように思う。

アルゴリズムというのは、このように複雑化した問題の、複雑な構造の解決に的を絞るために、対象の把握に思考のすべてを集中させるために有効に働く機能をもっている。その他の「法則性」と呼ばれる認識も、このような有効性を持っているのではないかと思われる。

法則性という公式は、この問題の時はこのように使うということが、数学のアルゴリズムほどきちんと定まっていない。だから、応用という面では、より本質論的な理解が必要になるものだ。しかし、法則性を言葉の記憶だけでしか知らない人間は、おそらくこの応用はほとんどどうやったらいいかという方向性さえ見出せないだろう。

法則性を本質論的段階で理解している人間は、どこまで対象の構造を把握すれば、後は法則性に任せて自動的に解答を引き出せばいいかという、自分の思考の段階を正しく把握できるだろう。現実の応用問題に、法則性を正しく適用して解答を引き出せるかどうかは、その法則性の本質論的段階の理解に達しているかどうかのバロメーターになるに違いない。

僕は、宮台真司氏というのは、かなり膨大な量の法則性を、記憶だけではなく本当の意味で、本質論的段階で把握している人間ではないかと感じている。それは、宮台氏の現実解釈というものがいつも適切なもののように見えるからだ。どの段階までの現実を正しく把握すれば、それ以後はこの法則性の適用をすることで、現実の問題が解決されるということをつかんでいるように思う。

もちろん、宮台氏の理解でも現実の把握が難しい問題は世の中にたくさんあるだろうが、たいていの問題には、宮台氏が持っている法則性の理解で問題の解決の方向が見出せるという自信があるのではないかと思う。

ただ、法則性というのは、社会全体に関わるものであったり、客観的な自然を対象にしていたりと、個別・特殊な対象ではないものを考察するものになる。だから、個別・特殊な状況を考える際には、法則性の認識はあまり役立たなくなる可能性はある。その時は、法則性を有効にするための問題の設定を変える必要があるだろう。

連日ワイドショーを賑わせている朝青龍問題は、個別・特殊な問題なので、このことを対象にした法則性の認識の応用は難しいだろうと思う。しかし、この問題も設定を変えれば、法則性の応用が出来る面白い方向もあるのではないかと思う。

元力士の龍虎が、相撲界の「利害関係」と絡めてこの問題を語っていたが、この問題を朝青龍個人の問題と捉えるのではなく、相撲界一般、ひいては日本社会一般との関連で考察の対象にすると、ある種の法則性を応用して構造を把握することが出来るかもしれない。個別・特殊な問題であれば、個人の感性によってどう感じるかということを語ることしか出来ないが、法則性の応用が出来る部分があれば、それは客観的な認識として「真理」がつかめるかもしれない。

それにしてもばかばかしいと思うのは、ワイドショーが朝青龍の帰国の際に、彼が乗った車を成田までヘリで追いかけたということを聞いたときだ。この問題が、社会的に見て、そこまで大げさにして報道する大事件であるはずがない。ヘリを飛ばす金があるのなら、もっと大事な報道に金を使ってもらいたいものだと思う。この現象は、たぶん日本のテレビ報道というものが、ジャーナリズムではまったくなく、映像として売れるという商業主義を第一の判断材料としているという「法則性」が現れたものとして解釈することが出来るのだろうと思う。