現実に存在する実体と実体論的段階で対象にしている実体


関さんから「モデル理論としての経済学の法則性」のコメント欄に、たいへん興味深いコメントをもらった。このコメントに答えるには、コメント欄の短い文章では真意が伝わらないのではないかと思い、改めて考えをまとめてみようと思う。

それは三段階論の実体論的段階をどう捉えるかという問題であり、ある命題の真理性と、その命題を真理だと認識する人間の理解の違いを考える問題ではないかと感じている。エンゲルスの言葉だったか、「最初の素朴な見方は真理に近い」というようなものがあったように記憶している。最初の素朴な見方というのは、まさに現象論的段階における法則性の認識に相当するものだと考えられるだろう。

エンゲルスは、摩擦が熱に変わるという現象を取り上げて、この素朴な認識が「運動エネルギーが熱エネルギーに変換される」という真理に近いものとして考えられるということを語っていた。物をこすり合わせるとそれが熱くなるというのは、簡単に経験できるものであり、現象としてはすぐに確認できる。しかし、その法則性は、その経験が裏切られることはなかったという経験からきているもので、もし一度でも裏切られるような経験があれば、すぐに真理性が揺らいでしまうような法則性の認識だ。この段階が「現象論的段階」と呼ばれるものではないかと僕は思っている。

熱エネルギーの問題は深入りすると難しいので、もう少し考えやすい対象で論理的な段階について考えてみようと思う。地球が丸いという「大地・球形説」について考えてみようと思う。地球が丸いというのは、今や誰でも知っている真理なのだが、実際に地球が丸いというのを自分の目で確認できるのは宇宙飛行士だけだ。我々に出来るのは、せいぜい彼らが撮影してきた映像で間接的に丸いことを確認することくらいだろう。

この、見たままの事実として地球が丸いことを確認するのは、三段階論で言えば現象論的段階だと僕は思っている。そこには、法則性として現れているのは、目で見たときにはいつも丸かったという経験が法則化されているだけだからだ。論理的な考察はそこにはない。実体としての地球は、現実存在としては目で見ている(写真などで)が、それがなぜ丸いかという理屈(論理)のほうはまったく認識されていない。この理屈を認識する段階が「実体論的段階」だと僕は理解している。

この地球が丸いという真理は、地球を直接見ることができなかった時代には、現象論的段階としての真理としても認識されていない。地平線あるいは水平線という言葉に象徴されるように、現象論的段階としては、「いつも」地球は平らだという姿を見ていたことだろう。そこからは、地球の形に関する一般的法則性として、大地は平らだというものが現象論的段階として提出されるのではないかと思う。もう少し細かく眺めれば、山があったり谷があったりするので、例外的には凸凹になっているが、それを誤差として捨象できれば平らだという法則になるだろう。

この現象論的段階にとどまる限りでは、大地が丸いという認識は生まれてこない。大地が平らだという経験が裏切られることがない。しかし、より広い世界に関心が向くようになると、大地が平らだということが裏切られるような経験が訪れてくる。板倉さんが紹介していたのは、アリストテレスが説明していることだと語っていたが、船などで帰ってきたとき、高い山の頂上からまず見えてくるという事実だ。

これは、陸のほうで沖の船を眺める経験とは違うという。沖の船はどれほど大きいものであろうとも、人間が自分の目で確かめられる大きさになって見える時は、その全体が目に入ってくる。決してマストの先から徐々に下のほうが見えてくるというような経験はないという。船の大きさは、地球の大きさに比べればはるかに小さいので、地球の丸さを確認できるだけの視覚的な経験はできないというのだ。

ところが高い山くらいになると、何千メートルもあったりするので、このくらいの大きさなら地球の丸さを感じるような経験ができるという。もし地球が平らであれば、視野で確認できるだけの距離に入れば、山の全体が見えてきていいはずなのだが、山の頂上付近から徐々に下の方が見えてくるような経験があったという。この経験は、大地が平らだという法則性を脅かす。

もう一つの経験は、月食における地球の影の経験だという。これは、月食が、本当に月が欠けるのだと認識していたらそういう理解は出てこない。月が欠けるというのを、現象論的に受け取るだけでは、それを大地が丸いという法則性に結びつけることは出来ない。あれは、地球の影が月に映って、欠けているように見えているだけなのだという理解があって初めて、大地が丸いということが認識として生まれてくる。

沖の船が陸に近づく時は、高い山という「実体」は、もし地球が平らだとしたらその全体が見えるはずだと考える発想は、山が見える前に予想を立てることが出来る論理的な考察に当たる。この論理的考察は、単に目で見たものをそのまま受け取るという現象論的な段階では生まれてこない。山という実体(これは具体的な山ではなく、「高い山」という一般的・抽象的な対象としての実体だ)が、地球という実体とどのような関係にあるかという実体同士の関係を考察することが必要だ。

さらに月食の認識にまで至るようになれば、地球と月という天体と呼ばれる実体が考察の対象に入ってくる。これはさらに一般化されて、地球や月以外の、観測される天体一般の存在と結びついて、それが丸いということが地球が丸いということの考察に関わってくる。

実体の導入というのは、単にそれが現実に存在しているということを眺めてなされるのではない。もしそうであるなら、それは現象論的段階にとどまるだろう。実体を導入することによって、今までの視点とは違うものがそこに現れる。その実体が、このような属性を持っていれば、論理的な結論としてこうなるはずだという「予想」が生まれてくる。その予想が、今までの経験を裏切るような新たな経験をうまく説明するものであれば、さらに新たな経験を求めて、その未知なる経験もうまく説明できるようなら、これは法則性として高い信用度を持っていると考えられる。そのような未知なる対象に対する検証こそが、板倉さんが言う「仮説実験の論理」における実験だと言っていいだろう。

ケプラーの段階が、三段階論における実体論的段階として重要なのは、太陽系という実体が実際に存在することを事実として発見したことではないと思う。それは、その実体を基礎にして論理を展開すれば、未知なる事実に対して正しい予想が立てられるという論理的な側面こそが重要なのだと思う。そのような論理展開ができるからこそ、法則性の認識として「実体論的段階」だと言われるのだと思う。

大地が丸いということを、現象論的段階として確認するには、現代のロケット技術を待たなければならなかった。それまでは、誰もそれを現象として確認した人はいない。目で見える範囲の地球は丸くなどないのだ。その曲線の範囲は、人間の視野という条件のもとでは誤差として捨象されて平らになってしまう。地球が丸いという真理は、実体論的段階に至らなければ発見できなかった真理だっただろうと思う。

また、その真理は、地球は平らだということを法則性として認識した現象論的段階があったからこそ生まれたとも考えられる。地球が平らだということを法則性として認識しなければ、平らに見える時は平らだし、平らに見えない時は平らにならないという、経験をあるがままに受け入れるだけで、世界はそうなっているのだという理解しか生まれないだろう。どうしてそうなっているかは分からないけれど、たぶん神様がそうしたのだろうというような認識になるだろうか。

大地は常に平らなのだという認識があればこそ、平らに見えないときが気になってくるし、平らに見えないときが例外的な誤差として捨象できるのか、それともそれこそが本質に向かう認識なのかということが気になってくる。誤謬があるからこそ、その誤謬を基礎にして考えた論理を元にした予想を立てることが出来る。そしてその予想こそが認識を深め、三段階論の次の段階への発展の契機になる。これが板倉さんが発見した仮説実験の論理ではないかと思う。

地球が丸いという実体論的段階は、さらにその対象が地球にとどまらず、天体一般が丸い形をしているという普遍的な側面が考察の対象になると、天体が出来るときの運動というものが問題にされるだろう。そして、すべての天体が従うような法則性が発見されたとき、地球が丸いという実体論的段階は本質論的段階を迎えるのだと思う。地球の属性として考察された丸いという特徴は、天体一般の必然的運動の結果としての普遍性を獲得したときに、それが本質論的段階と呼ばれるのではないか。

関さんが語る経済学における新古典派の理論というものは、僕は詳しく知らないのでその理論の段階が三段階論のどこに当たるのかははっきりしたことは言えない。だが、単に現象を見たまま語るのではなく、論理の展開によって未知なる事実を予想できるのであれば、実体論的段階に来ていると言っていいのではないかと思う。未知なる事実の予想をせずに、すでに起こってしまった事実に対して、後から解釈するだけであるなら現象論的段階にとどまっていると言えるのではないだろうか。

また、実体論的段階にいて、未知なる事実を予想できる段階であっても、その予想が外れてしまうような実体論的段階もあるだろう。その時は、予想が外れたものが例外的な対象であったのかどうかの判断が問題になる。例外であることが確認されるなら、その実体論的段階の理論は理論としての正当性を保つだろうと思う。例外ではないのなら、その理論は大切な要素を捨象してしまって、抽象化に失敗したのではないかと思われる。

武谷三男さんは、「ニュートン力学の形成について」の中で次のように書いている。

「実体論から本質論への移行において3つの形態が存在する。第一は実体の導入が直ちに本質論に導く場合であって、それはその実体が新たなる性質のものでない場合、すなわち海王星の導入、立体化学、物質構造論などである。
 第二に、実体がまったく機能的なものに解消される場合、それは逆に言えば機能を実体として捉えていた場合であって、これはフロギストンやエーテルなどがよい例である。
 第三に、まったく新たなる実体であって、新たなる論理を要求しているものである。ニュートン力学運動方程式や、原子における量子力学等である。後に述べるように原子核物理学の新たなる諸素粒子もまたそうであろう。」


ここでは、フロギストンやエーテルなどの、間違った実体・現実には存在しなかった実体も、実体論的段階の考察においては評価されている。間違った理論であっても、認識の発展における三段階に相当することもあると僕は理解した。人間の認識の発展において、誤謬も重要なものとして見なければならないということではないかと思う。また、三段階論における実体論的段階の「実体」とは、対象として抽象化された「実体」だからこそ、現実に存在しないものでも実体論的段階の「実体」として設定できるのだと思う。実体論的段階の「実体」とは、発見するものではなく、設定するものではないかと思う。