反対のことは せず させず


牧衷さんの『運動論いろは』という本には、表題のような「反対のことは せず させず」という格言のようなものが載っている。これがもし格言として提出されているなら、それは発想法のようなものとして理解できるだろう。格言というのは、ことわざのようなもので、それが正しいときもあれば正しくないときもあるというものだ。それが正しいのは、現実の諸条件によるので、その諸条件が分からないうちは、一般的な法則として受け取ることが出来ない。

諸条件というのは、具体的な現象に対して、その具体性に深くかかわる条件として登場する。だから一般化することが出来ない。例えば、「大は小を兼ねる」ということわざがある。これは、道具の大きさについて語っている。普通はそれぞれの使用条件によって道具の大小が決まってくる。大きさが違えば道具が使えないということがある。しかし、時と場合によっては、大きいものが小さい道具の代わりに通用することもある。

このことわざは常に成立する法則性を語るものではない。形が似ているからといって、お玉は耳掻きの代わりにはならない。耳掻きにとって、その大きさは道具としての有用性に決定的な意味を持っている。そのような場合は、「大は小を兼ねる」とは言えない。このことわざが正しくなるのは、その道具の使用の場面という具体性が深く関わってくる。一般化した法則性として解釈することが出来ない。このような法則性は発想法として機能する。

道具の大小が固定的なイメージとして、小さいものがない時はどうしようもないと考えがちの時、大きいものでも代用できるかもしれないということを、ちょっと考えてみるためのきっかけとしてこのことわざが機能する。それは、考えてもだめかもしれない。その法則性は成り立たないということが分かるかもしれない。しかし、発想法の有用性は、きっかけとしての考えの展開をもたらすところにある。ことわざや格言は、そのような意味を持っている。

牧さんが語る、「反対のことは せず させず」という法則性が、時と場合によっては、そのほうがうまくいくよというものであれば発想法として理解できる。これは、民主的な決定のことについて語っているのだが、その決定の状態・組織の状況によっては、その決定に反対のものは、その決定した行動をしなくてもいいということだ。

普通は、民主的な決定というのは、その決定に関わった人間のすべてを拘束する規範になる。たとえ反対であっても、民主的な討論の結果であるならそれに従わなければならないと考える。しかし、そのような決定が、反対者を巻き込んだ行動になったときにうまくいかなくなることがある。このような時は、その反対のこと・つまり「反対のことは せず させず」というやり方を考えたほうがいいよ、ということであればこれは格言であり発想法になる。

しかし、牧さんによれば、運動をする組織という限定を置いた場合は、「反対のことは せず させず」という命題は、常にそのようにした方が運動として結束力が高まり、必ずうまくいくという。それは現象論的には、牧さんの経験のすべてがそのようなものだったらしい。逆に言えば、民主的な決定を反対者に押し付けるような運動は、常に運動の停滞・分裂を招き、運動としての力は失われていくという経験があったらしい。

「反対のことは せず させず」という命題は、そうしたほうが組織の運営がうまくいくのだという解釈をすれば、一つの法則性を語るものとして受け取れるが、一般的な組織の場合はこれは格言になってしまう。反対のことはしなくてもいいということになれば、そこには秩序が失われ、自分勝手に好きなことをしてしまうだろう。常にうまくいくとは限らなくなる。むしろうまくいかない場合のほうが多いかもしれない。条件によって正しかったり・正しくなかったりする。しかし、これを運動組織という対象に絞って考えれば、その条件のもとでは一般的にこの法則が成り立つとも考えられる。それが証明されれば、この命題は、運動における科学として常に成立する命題になる。果たしてどうなるだろうか。

僕は、自分の感性的認識としては、「反対のことは せず させず」の方が好みに合うので、この命題が正しいものであって欲しいと思う。だが、僕の好みに関わらずに、この命題が客観的な正しさを獲得できるものでなければ科学としての真理性を獲得することが出来ない。現象論的には牧さんの経験を信用して、そのようなことが確かに起こると思う。それでは実体論的に、この法則性を理解しなおすことが出来るだろうか。

この考察のためには、まずは運動体としての組織というものがどのような実体であるかという設定が必要だろう。これを、現実に存在する運動体のイメージそのままで考えると、捨象されない具体的な属性が考察の邪魔をする。例外的なものが法則性を脅かすだろう。だから、この実体を抽象的に設定しなおさなければならない。それは、民主的な原則を守り・行動の方針を民主的な手続きで決定するような組織だ。一人のカリスマ的指導者が言うことに、組織の成員のすべてが無条件に従うような組織は、この考察からは排除される。それは、運動組織としては、この命題の法則性を考察するものとして例外的なものと判断する。

このように設定しなおした実体について考察しないと、論理的な展開が出来なくなる。現実には、カリスマ的な強引に引っ張っていく指導者というのはたくさんいるだろうと思う。その組織は、その指導者が正しく指導している限りでは問題は生じないだろうが、正しくない方向へ一歩でも踏み出せば組織は崩壊する。このような組織では、指導者に反対するものは一人もいないので、「反対のことは せず させず」という原則は守られる。しかし、運動は失敗するということが少なからず起こってくる。このとき、この原則が間違えていたという論理的な結論は出来ない。

このような組織では、そもそも反対のことというものが存在しないのだ。だから、条件としては、現実がどうであろうと論理的にいつでも成立するトートロジーの命題を語ることになってしまい、現実の事実からその命題を証明するということに意味がなくなる。だから、このような対象は、考察する実体からは除かなければならない。実体論的段階では、その実体がどんなものであるかは、論理の展開を見据えて設定するものであって、現実に運動をしているように見える実体を、実体として持ち込んでくるのではない。

さて、民主的な決定をする組織というのは、それでイメージが持てるような感じがするが、これだけでは論理の展開としては不十分だ。反対のことをさせるかどうかという対象である、組織の構成員としての個人という実体についても設定しなおさないとならない。そうでなければ、組織だけを抽象化しても、その成員は現実の運動をしている人々の多様性を持った対象になってしまう。この実体についても抽象化しなければ論理展開は出来ない。現実の存在そのままを実体として捉えれば、現実の特殊な属性が論理的な考察に矛盾を引き入れる恐れがある。

それでは、その構成員はどのように抽象化されるか。それは、民主的な組織においては、そこに加入するのも離脱するのも個人の意志で自由に行えるという条件を持っている個人として抽象される。現実には、いろんなしがらみで意志に反して加入していようとも、それが民主的な組織であるなら、このような原則・属性を持っているものとして対象化する。むしろ、このような原則を持たず、意志に反して加入・離脱がされているような組織は、民主的という点では不十分なのだと捉えるのである。

また、その加入・離脱を自分の意志で自由に選び取るということは、個人としての自主的判断ができる人間を想定している。他人の意見に左右されたり、どんな決定がされてもそれを判断するだけの能力がないという人間は、この考察の対象からは排除される。そのような人間は、そもそも運動というような主体的な活動を担うにはその資格が問題になる。そのような人間に必要なものは、運動そのものではなく、自覚を促す教育のほうになるだろう。

このように抽象化された運動体組織とその構成員からは、どのような論理的な帰結が得られるであろうか。まず、運動における反対が起こってくるというのは、一般的な状況設定としては、行動の指針を決定することが難しい問題を討議しているときであり、しかもその討議に参加している人々が、主体的に判断して自分の意見として賛成・反対を選んでいるときだ。このとき、最終的に多数決で決定したことを反対者に押し付けたらどういうことになるだろうか。牧さんは次のように語っている。

「考えても御覧なさい。そもそも反対意見の人が、自分の反対している行動を組織したり、先頭に立ってやったりして、事がうまく運ぶでしょうか?運ぶはずがない。
 だって、反対だった人間が、本気になって、自分の反対している方針で運動なんか出来ますか。本気にならずに(なれずに)やってうまくいくほど運動というものは甘かありません。」


多数決で意見が分かれて決定したことは、それだけどちらの方針を選ぶかが難しかった・困難な行動である。その行動を、熱心さの欠ける人間がやったとして成功する確率はどれくらいあるだろうか。しかも、最後の多数決で賛成に回ったのならまだしも、最後まで反対だったら、熱心さに欠けるのが当然だと論理的には帰結できるだろう。このように実体化された対象に対しては、反対のことを押し付ければ、それはまったくうまくいかないということが論理的に結論されるだろう。

牧さんはさらに次のように語っている。

「物事を多数決で決めなきゃならないときというのは、意見が分かれて、かなり有力な対立意見があるときです。ですから、多数決でどの意見に決まったにしても、かなり「そうじゃないかも知れんな」と考えている人たちがいるわけです。そんな状況の中で「多数決の結果だから、多数意見の俺たちと同じ事をしろ」と言ったんじゃ少数派の人たちが押し付けと思わないほうがおかしい。
 それで運動が分裂しちゃうんです。反対のことはさせなきゃいいんですが、日本の組織はみんな「多数と同じ行動をしろ」型です。そんなこと一緒にやらされるくらいなら、俺たちは別の組織を作って、俺たちの思うように運動をする、ということに必ずなる。日本の運動は、そういうことを際限もなく繰り返してまいりました。原因は何か?もちろん「多数決原理」!」


実に明快な論理で、この実体論的段階では、反対のことを押し付けるということは、組織の分裂を招くということが論理的に帰結される。民主的な組織に、主体的な人たちが集まっているとき、この「反対のことを せず させず ならうまくいく」という命題が常に成り立つなら、実体論的段階においては、この論理展開はうまくいくといっていいだろう。そこで、科学として正しいかどうかは、現実の運動体という組織が、ここで考えたような実体としての属性を持ったものとして、具体的な属性を抽象できるかどうかにかかってくる。

現実の組織が末梢的な属性を排除して、このような民主的な組織と考えられるとき、この命題が常に正しいことを示してくれるなら、牧さんが語る法則性は科学になる。僕は、これは科学になりうると思っている。そして、このこととの関連で浮かんでくるのは、民主的でない組織では、反対者への押し付けが正しくなるときがあるだろうかということだ。例えば、学校現場への日の丸・君が代の押し付けが正しくなる条件というのは想定出来るだろうか。このことと関連させて考えると何か新しい発見があるかもしれない。