権力概念の形成


萱野稔人さんは『権力の読み方』(青土社)という本で「権力」について論じている。それは、「権力」という概念について、ぼんやりとした不明瞭な状態がだんだんと明確になっていく発展の過程を綴っているようにも見える。これは、法則性の認識の発展段階である三段階論とよく似ているような感じがする。

「権力」という概念は、その最初は、何か権力らしいものを現実に発見して、その現実の特徴を受け取っていくということから出発する。これは現象論的段階に相当するもので、世間で「権力」と言われているものの姿を具体的に観察したり、自分の中の「権力」のイメージに合致するような具体的な存在を観察したりして、その概念の中身を作っていく。それは、最初は具体性にべったりと張り付いた、まだ十分抽象化されない概念として理解されているだろう。

ぼんやりした権力概念で浮かんでくるイメージは、まずは他者に命令をしたりして、自分の思い通りに他者を動かしている人間というものではないだろうか。自分の意志どおりに他者を動かすことの出来る人間は、なにかそこに「権力」というものがあるのを予想させる。そして、それが他者の意志に反すること・つまり他者が望んではいないことであっても、そうせざるを得ないように動かすことの出来る力であるなら、それはかなり「強い権力」だと言っていいのではないだろうか。

我々は「権力」の概念を、まずはこのような経験(現象論的段階)から作り上げていく。それは、具体性を強くもったもので、まだ抽象化の芽生え程度のものしか見せていないが、この抽象化の芽生えがやがては実体化の方向へ進んで「権力」のより抽象的・一般的な概念へと進んでいくのではないだろうか。

上の場合でいえば、抽象化の芽生えは、「他者一般という存在を操縦する力」というものに伺える。具体的なある人々を、具体的に動かすということを越えて、「他者」という一般的存在を実体として引き入れたとき、抽象化への一歩が進む。

僕は、概念の出発として、「操縦する力」というイメージで捉えたが、萱野さんはハンナ・アレントを引いて「ある一定の数の人から彼らに代わって行為する権能を与えられていること」という概念を提出している。これは、僕の経験が、権力を振るう立場よりも、権力を振るわれる立場に偏っているためにこのようなイメージになっているのだろうと思う。僕にとっては、権力者は、多くの人の代表者というよりも、恣意的に好き勝手なことをしているように見えることが多いのだ。

だが、民主的な社会においては、恣意的に好き勝手に振舞う権力というのは、原則的に成立しにくくなっている。民主社会というものを、現実的なものではなく、理想的なものとして定義すれば、その権力は多くの人間の代表として行使されなければならないだろう。ハンナ・アレントの定義のほうが正当であるように思われる。僕のイメージでの定義は、権力が振るわれる現象において例外的に、恣意的に振るわれる場合もあると理解したほうがいいかもしれない。あるいは、現実には恣意的に振るわれる場合のほうが普通で、むしろ代表としての権力のほうが例外であるなら、日本社会はまだ民主的ではないという判断をした方がいいのかもしれない。

「権力」の概念の形成を考察しようとすると、それが民主的な社会の下でのものなのか、それとも民主的ではない・封建的な社会の下でのものなのかということが大きく関わってきそうだ。それは、現象論的な「権力」の姿を考察するときも、ある現象が「権力」の現れであるかどうかという判断を逆のものにしてしまうかもしれない。単純なイメージから出発した「権力」概念が、よく考えるとかなり難しい面をもっているということに気づくのは、現象論から実体論へと一歩考察が進んだ現われかもしれない。

現象論的な考察では、単に他者が命令どおりに動いたという姿を見れば、そこに「権力」の存在を判断していたようだ。しかし、それは見かけのものであり、「権力」の基準に「一定の数の人に代わって行為する権能を与えられている」という要素が確認されてからその存在が判断されるなら、見たままの現象ではない・実体の属性からの判断で概念化しているといえるのではないだろうか。実体論的段階の概念形成のように見える。

ハンナ・アレントの定義する概念のほうが一歩進んでいると思えるのは、見かけ上「権力」の現象のように見えないようなものも「権力」の現れとして理解できるところにある。その考察を応用する範囲が広くなり、より抽象度が高まったと考えられる。

例えば、長野県政における田中康夫前知事の振舞いは、ハンナ・アレント的な「権力」の概念によく合致する。田中さんは、多くの県民から、彼らに代わって脱ダムの方向に舵を切ることを期待され、そのとおりに行為する権能を与えられた。その意味で田中さんの行為は「権力」的な行為と呼べるだろう。

このとき、「権力」行為に関して、僕のようにそれを「恣意的に好き勝手に振舞われている」という経験を多く持っていると、「権力」行為そのものが何か悪いもののように受け取る傾向が出てくるかもしれない。そうすると、田中さんの行為を「権力」行為だと言われると気分が悪くなる人もいるかもしれない。何か非難されているように受け取るかもしれない。

しかし、「権力」というのは、善悪の価値判断と結び付けて考えたら、科学的な判断の対象にはならない。あくまでも、科学的・客観的に何か正しい結論を得たいと思ったら、ある定義に当てはまればすべて「権力」と呼び、当てはまらなければ「権力」と呼ばないという論理的な姿勢が必要だ。それが実体論的な段階の概念形成ではないかと思う。

「権力」行為は、すべて悪い結果を生むものではなく、利益をもたらすこともある。結果的に損害を与える場合にそれを「悪」と呼ぶなら、利益をもたらす場合を「善」と呼ぶことも出来るだろう。だから、「権力」は、善でもあり悪でもあるもので、それは、その存在条件によってどちらにも解釈できるものになる。どのような立場でも、それが「権力」であるかどうかが判断が一致するなら、その概念は客観的な側面を持っており、科学としての対象になる可能性を持つ。考察する前から、価値判断がどちらかに決まっているような対象は、おそらく科学にはなりえないだろう。

このようなものの考え方は、かつて三浦つとむさんが「差別」について考察したときに、そのようなやり方をしていたように感じる。「差別」というのは、考察する前からすでに価値的には「悪い」ことだとされているのが普通だった。「正当な差別」というのは形容矛盾だった。しかしこのような発想では、「差別」そのものを深く考察することが出来なくなる。「差別」と判断されればそれは無条件に「悪」だとされるのであるから、「差別」と判断されないように気をつけるしかなくなる。

ところが、「差別」であるかどうかは、かなり恣意的な判断がされることが多い。誰が判断してもそうだというような客観的な基準がないのである。それでどうなるかといえば、「差別」だと判断されそうな表現は一切行わないという、表現に対する自主規制が行われるようになる。三浦さんが「差別」を問題にしたのは、まさにそういうような状況のときだった。

これは、「差別」という現象が、実は善悪とは関係なく、いつでも起こりうる普通の現象だからこそ、悪と結びついた価値判断的な「差別」の判断が恣意的になってしまうのだと思う。「差別」は善悪と関係なく普通に行われる表現行為であって、価値判断的な「悪」の部分は、むしろ「差別」とは直接関係ない部分によって判断されるべきだというのが、三浦さんが出した結論だったように思う。

それは文脈から判断すべきであって、文脈から判断すれば、同じ表現が、ある時は「正当な差別」になり、ある時は「不当な差別」になる。そしてこの正当性と不当性にしたがって、価値判断的な善悪が決まると考えたほうが合理的であり、客観的な判断となる。

経済的な自立度を考えれば、大人と子どものさまざまな料金を「差別」するのは正当な差別である。自立している大人から高い料金をとっても、それを「悪い」と受け取る人はいないだろう。これを平等化すべきだとは思わないだろう。しかし、知り合いかどうかで安くしていたりすれば、正規の料金を払っている人間から見れば、不当な扱いを受けたように感じるかもしれない。「差別」をする理由の正当性の判断が、善悪の判断につながってくる。

同じように「権力」行為に関しても、その結果生じる事柄の正当性によって、「権力」の振舞いが正しかったかどうかが判断されるべきではないかと思う。「権力」そのものには善悪の属性はないと考えたほうが応用範囲が広くなる。正当性の判断や、善悪の判断などは多くの異論が提出されるものだ。誰もが認めるような客観的な判断を提出するのは難しい。もしそのようなものを「権力」概念の中に含めてしまえば、「権力」概念そのものが客観的なものにならない。議論の対象にするものでなくなってしまう。

そこに「権力」が存在するかどうかは、誰が考えても同じ判断に達するという基礎を持たなければ「権力」を論じることは出来ないのではないかと思う。萱野さんの本は、そのような基礎を確立するための多くの説明をしているのだと僕は感じる。「権力」を振るった結果としていいことがあったのか、悪いことがあったのかという価値判断は、一応後ですることにして、まずは「権力」そのものがどういうものかということをはっきりさせようというのが萱野さんの姿勢ではないだろうか。それがはっきりした後で、その評価というものを詳しく考えようという感じだろうか。

このような観点で「権力」を見てみれば、多くの権力を発見することが出来る。「権力」という点では、ヒトラーの「権力」も田中康夫さんの「権力」も同じだ。石原慎太郎東京都知事の「権力」も同じだろう。ヒトラーも、暴力によって人々を黙らせて「権力」を握ったのではなく、民主的な手続きによって、多くの人の代わりに決定する権能を与えられたことが「権力」の源泉になっている。

「権力」行為の結果としては、ヒトラーは人々に悲惨な結果をもたらした。それが「悪」であることは自明なことのように思われている。しかし、それがなぜ「悪」の結果になったのかという、本当の理由が解明できなければ、「権力」が悲惨な結果をもたらす面だけが固定化されて残りかねない。ヒトラーは何を失敗したのかというのを深く考えた研究がないものかと思う。単に結果を捉えて、結果を非難するのではなく、ヒトラーのやったことの過程を分析したものを探したいものだ。板倉聖宣さんがヒトラーについて書いているというので、それがそういうものになっているのではないかという期待をしたいと思う。

田中さんの「権力」行為の結果に対しては、立場によらない客観的な評価というものが出来るのかどうかを知りたいと思う。田中さんと利害が対立する立場の人が、その結果を「悪」だと判断するのは当然のことではないかと思う。だから、これらの人々が田中さんを「悪」だと非難してもそれをそのまま信用することは出来ない。同じように、田中さんと利害を同じくする立場の人が、田中さんがもたらしたものを「善」だと呼んでも、それをそのまま信じることが出来ない。

「権力」というものが、客観的な対象として設定できるものなら、その行為の結果も、客観的な考察が出来るのではないかと思う。そうすれば、「権力論」もひとつの科学として確立することが出来るかもしれない。その一つの可能性は、宮台真司氏が語る「権力の予期理論」ではないかと思う。この科学は、「権力」概念の抽象の最高レベルに達したものだと思われる。それが、現実の「権力」とは似ていないものに見えても、本質を抽象したものだという理解が出来れば、その語ることも理解できるのではないかと思う。努力してみたいものだ。