慣性の「原理」


板倉聖宣さんは、『科学と科学教育の源流』(仮説社)という本の中で、<慣性の法則>ではなく<慣性の原理>という言葉を使っている。「慣性」と呼ばれるものが現実世界の法則性を認識したものであれば当然「法則」と呼ばれてしかるべきなのだが、なぜこれを「原理」と呼んでいるのだろうか。板倉さんの語るところを考えてみようと思う。まずはその部分を引用する。

ガリレオの力学における最大の業績は何かというと、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>の確立ということが出来ます。彼が落下の法則や振り子の法則を発見しなくとも、ニュートンはその力学を完成させることが出来たでしょうが、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>なしには、ニュートン力学も何もあったものではありません。
 いま私は<慣性の原理>と書き、<慣性の法則>とは書きませんでした。どうして、「法則」ではなくて「原理」なのでしょうか。そもそも「原理」と「法則」とはどう違うのでしょうか。私はその違いを、次のように考えています。
 「法則」というのは、実験によってその真偽が決められるものだが、「原理」というのは個々の実験には関係なく「疑い得ない真理」とみなされるものだ、というのです。
 そのことは、「実験的に慣性の原理を証明することは極めて困難だ」ということを考えてみると了解していただけるでしょう。」


板倉さんが語ることを、そのまま素直に受け取ると、「法則」というのは実際の実験によって証明される真理であるが、「原理」のほうはその証明が極めて困難であって、「疑い得ない真理」とみなされるものだから真理なのだというふうに読める。これは、表面的に受け取ると、科学ではなく宗教的ドグマを語っているようにも聞こえる。板倉さんをはじめとする多くの科学者は、証明することが困難な「原理」をどうして真理だと認識できるのだろうか。

疑い得ない真理だと思うだけで、それが「原理」であることを保証するなら、すべての宗教的な基本命題は「原理」になるだろう。宗教という体系を取らなくても、ある種の心霊現象を「疑い得ない真理」だと思い込んでいれば、それが「原理」になってしまうのだろうか。仮説実験の論理を提唱している板倉さんが、思い込みだけで真理の判定が出来ると主張するはずがない。「原理」が「疑い得ない真理」だと判断するのは、仮説実験の論理と深くかかわっているのだろうと思う。

法則性が真理であることを証明する実験は、単にそれを経験したということでは足りない。経験を集積して後で解釈をするのは、いくらでも整合性を取れるように解釈できるので、それが間違った理論だったとしても、その時点で知られている経験にはよく当てはまるということは起こりうる。天動説がそれまでの経験をよく説明したというのはそのような例だろう。

しかし「仮説実験の論理」では、未知なる対象に対する実験を要請する。それは未知なる対象であるから、今までの経験を整理した理論が当てはまるかどうかは実験の前の段階では分からない。その分からない状況のときにも、その理論が当てはまると主張して、確かにそうなったときに、その理論(法則)の真理性が証明されたと考えるのが「仮説実験の論理」だ。これは経験の整理とはまったく違う。

慣性というものを「法則」だと捉えるなら、このような未知なる対象に対する実験を経てその真理性を証明しなければならない。しかしこれがいかに困難なことであるかはちょっと想像しただけで分かる。慣性の法則は、「物質に対して外部から力を加えなければ、その物質は永久に同じ運動を続ける」というものだ。その運動は、速度をそのまま変えずに動きつづける(等速直線運動)か、速度0(ゼロ)なら止まりつづける。

この実験が困難なのは、現実の条件として「外部から力を加えない」という状況が作れないからだ。普通の運動ではどうしても摩擦力が働いて、どんなに摩擦を0(ゼロ)に近いものにしても、永久に動きつづけるということは出来ない。動いているものがいつかは止まってしまう。慣性は、法則としての証明が極めて困難で、それは不可能だと言ってもいいくらいだ。

しかし<慣性の原理>を基礎に置かなければニュートン力学は構築できない。理論の整合性を取るために、証明できないのだがとりあえず受け入れておこうということで、慣性を「原理」として認めるのだろうか。それは科学的な態度とは言えない。<慣性の原理>は、法則性として証明は出来ないが、ある根拠を持って「疑い得ない真理」だと判断されるのだと思う。それは、信じているから真理なのではなく、客観的な理由があって真理だと判断されるのだと思う。

慣性を完全な形で証明する実験を行うことは出来ない。それはいつでも不完全なものにとどまる。外部からの力を極力排除して0(ゼロ)に近いものにすれば、それは同じ運動をしつづけるという現象を作り出すことは出来る。それはいつかは止まってしまうが、その状況の極限を想定して、想像の中では<慣性の原理>が働いている様子を見ることが出来る。だが、これはあくまでも想像の世界の話なので、現実にそれが成り立っているという証明には、厳密に考えればなっていない。

板倉さんは、天体の運動と原子の中の運動を、慣性のほぼ完璧な現れとして紹介している。天体は、人間がそれを認識するようになってからまったく運動を変えていない。それは永遠という時間ではないが、人間にとっては永遠と言ってもいいくらいのもので、現実的には誤差として処理できる・捨象できる時間の経過ではないかとも考えられる。慣性の一つの現れを天体の運動に見ることが出来る。これが、これからもほぼ永遠に近い時間同じ運動を続ければ慣性の「法則」の証明になるだろう。しかし、それは実際には確かめられない。永遠という時間は人間には体験できないからだ。

それでは、人間に体験できるように「永遠」という言葉を取ってしまえばいいだろうか。しかしこの言葉を取ってしまえば、それは、いつかは成り立たなくなってしまうかもしれないものとして「法則」と呼ぶにふさわしいものにならない。「法則」であるなら、それは未来永劫にそうでなければならない。未知なる対象についてもそれが成り立つということが言えなければならない。

人間に証明が出来ない事柄の真理性を認識するには、「永遠」という言葉を、経験する限りでは決して反対のことが起こらないという、これからの経験に対する信頼度の高さで見るしかないのではないだろうか。そのような想像が可能であるという信頼の高さだ。天体や原子の運動が永久に続いているというのは、経験を整理したものに過ぎないが、それは今後も裏切られずに続くという信頼の高い経験になっているのではないだろうか。

現実の現象というのは、さまざまの特殊な条件の中にあり、それゆえに誤差というものが存在する。完全性を厳密に要求すれば、すべての法則性は証明できないことになってしまう。だから、現実に法則性が成り立っているということの証明には、誤差と例外的状況というものを常に考慮しなければならない。

例外的状況でいえば、引力の法則からいえば、地上にある物質は必ず地球に引っ張られて落ちてくるはずだが、ガスを入れた風船のように上昇していくものもある。これは、現象的には引力の法則を否定しているように見えるが、空気の浮力というものを考慮に入れると例外的状況であることが判断される。現象としては法則に反するように見えても、その法則を保ちながら解釈する道を残している。そして、その解釈が正しいかどうかは、また仮説実験によって確かめられる。

誤差に関していえば、<質量不滅の原理>は、消えてしまったように見える物質も形を変えて必ず存在しているというものになる。これは、その物質が拡散しないように注意深く重さを測れば、重さが保たれることによって証明される。しかし、この重さはどんなに厳密に測っても、現実の測定には必ず誤差が生じる。この誤差の範囲をあらかじめ設定できるようにしておけば、測定の結果が厳密にいえば違っていても、その法則性は証明されると考えることも出来る。

<慣性の原理>は、誤差と例外的状況を考慮できるとはいえ、それを現実に示すことが困難な法則性だ。外部からの力がまったく加わっていないという状況は現実には設定できないし、どのような力が加わっているかをすべてあげることも困難だ。どのような誤差が生じて、どのような例外的状況があるかを具体的に示すことが困難だ。このような対象に対して、過度の厳密さをもってその証明を要求するなら、それは信用できないというものになってしまうだろう。

過度の厳密性を要求して考察するのは哲学が得意とするところだが、人間の認識というものに対しても、その完全さを要求すると、完全に認識できるものは一つも見つからなくなる。そうすると、認識というものは本来出来ないものなのだという結論になりかねない。いわゆる不可知論というものに落ち込む落とし穴が待っている。過度の厳密性は、何一つ確かなものをもたらさないので、すべてが否定されるという結果を招く。科学は、そのような哲学に対して、一部分だけを明らかにすることは出来ないかということを考えて、「すべて」ではなく、「科」の性質を明らかにしようとする。すべては明らかにならないけれど、知りうる範囲を限定しておけば何事かは知りうるのだというのが科学の考え方だ。

<慣性の原理>に関しても、完全な証明は出来なくても、その極限的状況を想像することが出来れば、我々の目の前の現象は、その不完全な現れとして理解することが出来る。そのようなものとしてこの「原理」を捉える必要があるのではないか。しかし、このような捉え方は、心霊現象を真理とする捉え方とどこが違ってくるだろうか。

心霊現象も、その証明が困難なものである。それは、個人の特別な状況の下で生まれた、心の中にだけ存在する妄想(観念的存在)なのか、実際に存在する客観的なものなのかの区別がつかない。区別がつかないから、それを信じる余地も生まれてくる。だが科学者は、板倉さんも語るように、<慣性の原理>は信じても、<心霊現象>はばかげた妄想として否定する。これはどのような判断から生まれてくるのだろうか。

<慣性の原理>は、完全な証明は出来ないものの、天体や原子という客観的存在の属性として考察の対象になる。しかし、<心霊現象>は、そのような客観的対象を持たない。<心霊現象>は、その名のとおり人間の心に関係しているもので、心を離れた<心霊現象>というものはあり得ない。そして、心というものは客観的に観察の対象になるものではないのだ。

<心霊現象>は、たとえその体験が本当のものであったとしても、その体験をした人間の心を解釈すること以上のことが出来ない。<心霊現象>そのものの真理性は問題にすることが出来ないものだ。思い込みの範囲を越えることが出来ないという意味で、科学者はこれを考察の対象から除き、ばかげた妄想として片付けるのだろう。

<慣性の原理>というのは、それを習った最初のころは、まったく言葉として記憶しただけではなかっただろうか。それは、現象論的段階を経て、実体論的段階へ至るというような法則性の理解の仕方をしていなかったように思う。それは、そのようなことを理解する実験が難しく、実際の現象を見ると、「動いているものはいつかは止まる」というような、<慣性の原理>に反するような現象論を通過してしまいかねないものになっていた。これは「法則」ではあるが、理解としては理論展開の出発点に置いた「原理」であるというものになっていたのではないかと思う。そして、これが「原理」としての妥当性を持っているという理解は、改めて考えてみるとかなり難しい感じがする。この難しさを克服しないと、教育においては、言葉の記憶だけになって、本当の意味での理解・認識になっていないということになるのではないかと思う。