論理はなぜ正しいのか


哲学者の野矢茂樹さんは『ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む』(哲学書房)という本の中で、論理を「語りえぬもの」と書いている。論理というのは、ある事柄が正しいことを示すのに使われるが、論理そのものの正しさを問題にされることがない。むしろ論理そのものの正しさを示そうとすると、その難しさに困惑してしまうのではないだろうか。

野矢さんは、論理は「語りえぬもの」で、ただ「示される」だけだと語るが、この正しさというものを拙いながらも語ってみようかと思う。論理というのは、法則性として正しさを確認できるものなのか、それとも自明の前提として、合理的思考を進めるにはどうしても従わなければならないものとしてアプリオリ(先験的)に正しさを受け止めなければならないものなのだろうか。

まずは、論理も経験則を抽象化して得られた法則だという立場で考えてみようかと思う。論理は現実を反映した認識の中でも最高度の抽象であり、現実世界と一致することが論理の正しさを支えると考える立場だ。論理という法則性の、現象論的段階・実体論的段階がどういうものであるかを考えてみようかと思う。

論理が対象とするものは何かといえば、それは人間がある事柄に対してする判断であり、それは「肯定判断」と「否定判断」というものに抽象される。論理は、肯定か否定かが明確になるような判断でなければ、その操作の対象とすることが出来ない。これは排中律の原理につながるもので、排中律というのは、論理が対象にするものを限定するという意味で「原理」として働いているのだと思う。

この排中律の認識を「現象論的段階」として考えてみると、現実の現象を見て、そこでの判断が肯定になるか否定になるかどちらかであるという経験をたくさんつむということが想像される。これはありうる話だ。しかし同時に、無視できないくらいたくさんの判断が、肯定も否定も出来ない・現段階ではどちらとも決められないという経験もあるように思う。

現象論的段階の経験では、排中律が成り立つということが特に顕著に見られるという想像がなかなか難しい。これは、科学的認識における現象論的段階と違う特徴ではないかと思う。科学的認識では、そこに法則性があることを強く予想させるような現象論的観測データが存在する。だが、論理の場合は、人間の判断一般という非常に広い範囲の対象を持っているので、ここに存在する法則性を現象として絞ることが出来ないように感じる。

排中律というのは論理法則ではあるが、これは現実を反映したものというよりは、現実の判断一般を対象にしたのでは、その考察があまりにも複雑になるので、対象を限定するために設定した「原理」だと理解したほうがいいような気がする。これにより、論理は、論理が対象とする判断という実体を設定しているのだという受け止め方だ。

このように考えると、論理において排中律が成立することは自明のことになる。何しろ排中律が成立する対象だけを集めて考察するのが論理だということになったのだから。これは、現実をよく反映しているかどうかはこの段階では分からない。排中律が成立しない判断は、例外として排除されているからだ。それを排除しない新たな「論理」を考えた人々もいるようだが、それは、排中律が成立する「形式論理」ほどの成果をあげていないように見える。その意味では、排中律は現実をうまく反映しているとも考えられる。

矛盾した命題を真理ではないとして真理の体系から排除する矛盾律も論理法則の一つだ。だが、これも排中律と同様に、現実の現象を集めて法則性として抽出したというよりも、矛盾を認めるような体系はあまりにも複雑になりすぎるということから、矛盾した判断を排除するという原理として働いているのではないかと感じる。

排中律矛盾律は、法則というよりも「原理」として働いているように見えるが、論理の法則はすべてそのようなものなのだろうか。合理的判断に都合のいいように判断を選んで、合理的判断として正しいという定義に合うような判断を見つけるのが論理だとしたほうがいいのだろうか。しかしそうすると、どうして論理が現実に適用できて、しかも有効であるかということの説明がつかなくなる。現実への有効性を持っている論理は、やはり何らかの形で現実とつながっているのではないだろうか。

排中律矛盾律に比べもう少し複雑な構造をもっている三段論法と呼ばれる論理法則は、現実から抽出されてきたものになっているのではないだろうか。有名な例としては次のようなものがある。

   (すべての)人間は死すべきものである。 …全称命題
   ソクラテスは人間である。       …特称命題
   ゆえにソクラテスは死すべきものである。…特称命題


二つの前提から三つ目の結論が引き出せるこの論理を「三段論法」と呼んでいる。上の例では、「人間」「ソクラテス」「死」というような具体的な意味を持つ言葉を使って表現しているが、この形式だけを抽出すると次のようなものになる。

   すべてのaはPの性質を持つ。
   あるxはaの一つである。
   ゆえに、あるxはPの性質を持つ。


法則的認識の現象論的段階を考えると、この論理法則の現象は、二つの前提が正しいときに、結論が語っていることも常に正しくなるという現象によって、その正しさが支えられる。これは一見ありそうなことだ。人間は、永遠に生きている者を見つけることが出来ない。ソクラテスが人間であることは確かだろう。そして、ソクラテスが死んだことは歴史的事実として確認できる。上の三段論法が語る現象はすべて確かめることが出来る。

それでは、そのことを基礎にしてこの三段論法の正しさを確認することが出来るだろうか。どうも違うような気がする。我々は、そのような事実の確認をするまでもなく、この三段論法が正しいことを言葉の意味だけから受け取ってしまう。これはどのような思考のメカニズムが働いているのだろうか。

論理というのは、言葉の問題であって現実の問題ではないのだろうか。論理法則を現象論的段階から抽出してくることはどうも無理があるようだ。現在の形式論理学では、それを一つのアルゴリズムとして提出している。排中律矛盾律が成立することはもちろんのこと、三段論法などもその前提に盛り込んで、一つの論理式から新たな論理式を生み出すアルゴリズムを設定しておく。そして、そのアルゴリズムに従った論理式のみを正しい論理式として認める。

ここには現実とのつながりは一切ない。現象論的段階なしの実体論的段階とも言えるような感じだ。この形式論理は、現実がその前提にふさわしい特徴を備えていて、その前提の下に抽象できるような対象なら、うまく現実を反映して適用できるだろう。形式論理は、形式論理が成立するような世界を設定して、その世界の中での正しい命題を生み出すというモデルになっているような感じだろうか。このモデルは、現実がその前提とする排中律矛盾律を満たしていると考えられれば、形式論理に従うことが合理的だということになる。そして、今のところ、その適用に反するような特殊な例外が見つかっていないということになるのではないだろうか。

論理の正しさは、どうも科学的法則の正しさの認識とは道筋が違うようだ。野矢さんが言うように、やはり「語りえぬもの」であって「示すこと」しか出来ないのかもしれない。だが、どこかで正しいという認識が生まれることは確かなのではないかと思う。まったく論理的思考と関係のない赤ん坊の時代から、いきなり論理が使える大人になるというわけにはいかないだろう。どこかの時点で、論理の正しさを確信する分岐点があるはずだ。それはどのようなきっかけなのだろうか。

人間が理屈というものを使い出したのはいつ頃からなのだろうか。あるいは、動物の中にも理屈が使えるものがいたりするのだろうか。現実を受動的に受け止めるだけでは理屈は必要ない。現実には目で見えないものを見たりする思考の際に、見えないけれど見えるという確信のために理屈(論理)が必要になる。

誰も目撃者がいない犯罪に対して、誰も見ていないにもかかわらず、ある特定の犯人がその犯罪をしている姿を見るのは論理の力による。あるいは、アリバイのある人物が犯罪を犯していないことは、それを誰も見ていなくても論理の力によって結論付けることが出来る。この理屈の力は、人間はいつどのようにして身につけたのだろうか。

論理は言葉の問題と深く関係しているだろう事は確かではないかと思う。ウィトゲンシュタインが、論理の問題を哲学として完成したと宣言した『論理哲学論考』の後に、言語の問題から、その考えを修正したのは、言語と論理との深いつながりを新たに発見したからではないかと思う。

論理は人間の言葉の使い方の特殊な側面を取り出したものだと考えられる。その側面は、論理の世界だけで完結しうるものではないかと僕は思う。だからこそ、ウィトゲンシュタインは、論理の問題としては哲学は完成したと宣言できたのではないか。しかし、言語の世界には、論理の世界から抜け落ちてしまうものがまだある。そして、それを考察しないことには、人間社会の全体像がつかめないということがあるのではないだろうか。「言語ゲーム」という発想は、そのようなところから生まれたようにも感じる。

論理がなぜ正しいのかはうまく説明が出来ないが、これが言語と深くかかわっているものであり、しかも社会でのコミュニケーションにも深くかかわっているのではないかという気がする。言語はもちろんコミュニケーションの手段の一つだが、論理というのも、実際の行動を起こす前に同意を取り付けるためのコミュニケーションの道具なのではないかとも感じる。合理的だと判断されたことに人は合意するのではないかと思う。

この合理的には勘違いもある。しかし、言葉の判断だけで合意を与えた人間は、その合意の判断をした時点では、自らの判断を合理的だと考えているのではないだろうか。論理は、社会にも深くかかわっている。合意が必要な民主的な社会であるギリシアにおいて初めてその正しさが意識されたという歴史的な事実にもそれは現れているのではないだろうか。

論理の正しさと社会と言語とのつながりというものを、いろいろな面から学びたいものだと思う。宮台真司氏の社会学や、ウィトゲンシュタインの哲学からは、多くの示唆を受けられるのではないかという感じがしている。そして三浦つとむさんの言語学からも、論理との深い関係が読み取れないかということを考えてみたいと思う。